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<title>イトウソノミ・ブログ</title>
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<description>広島在住のドキュメンタリー映像作家・イトウソノミが、日々思うことをお送りします。
初監督作品【土の記憶】サイト⇒http://tsuchinokioku.yu-nagi.com/</description>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-fb91.html">
<title>戦後補償解決への光明。強制連行で西松建設が中国人の元労働者に補償。</title>
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<description>　戦時中、広島に強制連行された中国人の方たちが強制連行した西松建設を相手に賠償を...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　戦時中、広島に強制連行された中国人の方たちが強制連行した西松建設を相手に賠償を求め最高裁で敗訴しましたが、勝訴した西松建設側が基金を設立し金銭補償をする条件で１０月２３日、中国人の原告たちと和解しました。&lt;br /&gt;
　この西松建設の裁判は、１９４４年に中国から広島県安芸太田町の安野発電所に強制連行され過酷で危険な労働を強いられたとして、中国人の元労働者たちが西松建設に損害賠償を求め９８年に広島地裁に提訴したものです。一審では原告側の請求が棄却され、二審では逆転勝訴となりましたが、２００７年の最高裁で「日中共同声明で中国国民は裁判での賠償請求権を失った」として敗訴しました。しかし西松建設側と原告との和解を付言していたことを受け協議を続け、この度ようやく和解が成立したのです。&lt;br /&gt;
　西松建設は２億５０００万円を信託して基金を設立し、その中から補償金や所在不明労働者の調査、工事現場の記念碑建立などの費用にあてるようで、補償金額は一人あたり１００万円以下になるようです。中国新聞（２４日付）によると西松建設側は「（違法献金事件など）不祥事を踏まえ、新生西松建設となるべく、過去の諸問題について見直しを続けてきた。その中の大きな課題として、強制連行があり、最高裁判所の付言に対し、どう応えていくのかという問題があった。」と話しており、謝罪も和解事項に盛り込まれると見られています。&lt;br /&gt;
　安野発電所で働いていた中国人の方の中には広島で被爆し、死亡した方もいます。働いていた収容所内での抵抗行為で広島市内の刑務所に収監されていたのです。寒い冬にも関わらず草履にセメント袋姿で労働をし、むしろでの寝起きでした。いつも飢えていたといいます。そうした過酷な労働状況の中での抵抗行為だったようです。被爆の中、生き延びて中国に帰国しましたが、被爆者として被爆者健康手帳を持つことができずに死亡した方もいるようです。&lt;br /&gt;
　２４日付の中国新聞には「自主的な賠償に乗りだした西松建設の対応は、戦後補償問題の解決に新たな道筋を示した。」とあり、日本が残してきた戦後補償解決へ向けて大きく前進したことは間違いないようです。しかしこれはあくまでも企業レベルでの話しであり、国としての対応ではないことも考える必要があると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-11-07T12:10:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-03c5.html">
<title>労働が呼んでいる？仕事で疲れた方には怒髪天“労働コーリング”がお勧めです。</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-03c5.html</link>
<description>　怒髪天というバンドをご存知ですか？私は２０年ほど前、札幌のライブハウスで彼らの...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　怒髪天というバンドをご存知ですか？私は２０年ほど前、札幌のライブハウスで彼らの演奏を見たことがありました。“いか天ブーム”でバンド全盛期の頃、札幌では結構人気があり、元気のいいバンドというイメージがあります。東京に行ったことまでは知っていたのですが以後の活躍は全くわかりませんでした。先日NHKのトップランナーという番組で怒髪天の名前を見て驚きました。まさかと思い見てみると、やはり彼らでした。&lt;br /&gt;
　私が知っていた頃と比べ容姿もかなり変わっていたので、最初はピンとこなかったのですが、テレビを見ているうちに当時が少しですが蘇ってきました。元気のよさは相変わらずでしたが、昔とは曲の雰囲気が変わったように思いました。「ほらガンバレよ」と軽く後押ししてくれるような軽快なリズムに悲哀を感じる歌詞は、泥臭いのですがどこか懐かしく“ほっ”とします。&lt;br /&gt;
　私はそんな今の彼らの曲が大好きになりました。「ジャパニーズＲ（リズム）＆E（演歌）」がポリシーらしいのですが、「労働を歌うことが急務」という使命（？）で作られた歌詞は、東京での彼らの生き様がそのまま歌になっているようです。その世界観は日本で働いている方なら比較的多くの方が共感できるのではないでしょうか。思わず苦笑してしまい、そしてなぜか“じん”と心にくるのではないかと思います。&lt;br /&gt;
　怒髪天の歌はどれもいいのですが、入口として私がお勧めするのは“労働コーリング”。ワーキングプアの実情を歌にするとこうなるのかといった内容で、聴く蟹工船バンド（？）の本領をたっぷり発揮した曲です。仕事で疲れて、人間関係でも疲れて、もうダメだあと思った時、この曲を聴くと元気になること請け合いです。辛いことが多いけれど、誰もが同じような思いで生きているということが分かるからです。そしてもう少しだけ頑張ってみようかなと勇気が沸いてきます。&lt;br /&gt;
　怒髪天は歌だけではなく生き方にも感慨深いものがあります。上京後、一時バンド活動を完全に辞めていたといいます。しかし近年再開し、自分たちが本当にやりたい方向でバンドを楽んだ。それが結果として日本のロック界を変えるようなバンドに変貌した奇跡のような物語がそこにはありました。バンドのメンバーは皆４０歳すぎになり回り道はしたけれど、その回り道があったからこそ今の成功につながっていることを思うと、生きることは悪くないと素直に思えてくるのです。彼ら自身の生き方こそ、私たちへの応援歌になっているのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-10-29T22:41:40+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-b510.html">
<title>どんぐりの話しコロコロ</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-b510.html</link>
<description>　近所の比治山に行くと道ばたにドングリがたくさん落ちていました。小さな可愛い実が...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　近所の比治山に行くと道ばたにドングリがたくさん落ちていました。小さな可愛い実が季節を告げてくれるのは嬉しいのですが、少しばかり感傷的な気持ちにもなります。ドングリといえば、韓国の陜川原爆被害者福祉会館にあるドングリの木のことを思い出します。このドングリは広島で被爆したIさんが「広島を象徴する何かを韓国に持って帰りたい」と渡日治療で来広された際に持ち帰ったものです。ペットボトルに実をたくさん詰めて故郷の陜川に戻り、自分の畑に植え大切に育てました。そのうちの１本の苗木が福祉会館に植えられたのです。Iさんはすでにお亡くなりになっていますが、広島のどんぐりは住んでいる被爆者の方たちを今日も見守っています。&lt;br /&gt;
　陜川でドングリと言えばある料理を思い浮かべます。“トトリスジェビ”は牛骨スープにドングリの粉を練ったものが入ったすいとんで、私は密かに陜川名物と呼ぶ大好物です。これは辛さを調節できるので日本人の口にも合うと思いますが、どうやらこの料理は韓国人には馴染みがないようです。陜川の郷土料理なのかもしれません。韓国でどんぐりを使った料理でよく食べられているのが“トトリムッ”でしょう。どんぐり豆腐とでも言えばいいでしょうか、ドングリの粉を豆腐のように固め調味醤油につけていただきます。これは最近では日本でも出している韓国料理店があるので、食べたことのある方が多いかもしれません。「広島に住んでいたとき、ドングリがたくさん落ちているのに日本人は食べないから、私たちは拾って食べた」とある在韓被爆者の方から聞いたことがあります。どんな素材でも美味しく料理してしまう韓国人は、戦時中でも自国の文化を守りながら、工夫して生活していたのだと思います。ひょっとするとＩさんも広島でトトリスジェビを食べたかもしれません。&lt;br /&gt;
　戦時中の料理といえば、在韓被爆者の方が会うたびにいつも言う台詞があります。「日本人は戦時中、私たちが手で材料を混ぜたりこねたりする調理法を見て“汚い”と言っていたけれど、今、日本のテレビでは手を使って料理するのが当たり前になってきている。私たちは昔から“ソン（手）マッ（味）”と言うのよ。手で直接調理すると美味しくなるのよ」と多少悔し気に、そして自慢気に話します。戦時中はキムチなどニンニクを使う韓国（朝鮮）料理を日本人が嫌ったといいます。友達から嫌われるのがいやでキムチを食べなかったという話しまで聞いたことがあります。食文化まで否定されるのは耐え難かったに違いありません。&lt;br /&gt;
　戦後半世紀以上が経ち今では韓国料理はすっかり日本人に定着しました。焼き肉は子どもから大人まで大好きな料理ですし、スーパーに行けばキムチのコーナーは大きく扱われ、ビビンバやチャプチェ、キムチチゲなどのインスタント食品も豊富に出回っています。異文化理解の際、食べ物から入るのはとても分かりやすく、親しみがわきやすくなるものです。韓国料理は医食同源の合理的で美味しい食文化です。戦時中、もし日本人が韓国（朝鮮）料理を食べていたら、朝鮮人の方への見方や考え方も変わっていたかもしれません。そして今頃は銀杏のようにどんぐりの実も日本人の秋の味覚になっていたかもしれません。&lt;br /&gt;
　話がコロコロと転がっていますが、来月都合が合えば韓国に行く予定です。Iさんのどんぐりを見に陜川に行こうと考えています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-10-23T11:54:37+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-6469.html">
<title>広島と長崎がコラボすれば・・・</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-6469.html</link>
<description>　色々な場面でコラボが注目され成功を収めています。ヒロシマとナガサキが協力しあう...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　色々な場面でコラボが注目され成功を収めています。ヒロシマとナガサキが協力しあうと、とても強いメッセージが加わります。そしてこのコラボが世界に発信されると反核・平和の大きなうねりとなるのではないかと思います。&lt;br /&gt;
　今年の第21回「谷本清平和賞」は平野伸人さんが受賞されました。この賞は広島流川教会の牧師で平和活動家の谷本清さんの意志を継ぎ1987年に創設されたもので、原爆とのかかわりで反核平和に貢献したり、文芸・平和教育・被爆証言などで平和に貢献した人や団体などに贈られるものです。これまで詩人の栗原貞子さんや映画監督の新藤兼人さん、ヒロシマを語る会、在韓被爆者渡日治療広島委員会など広島にゆかりのある団体や人物しか選考していなかったのですが、このたび初めて長崎の方が受賞しました。&lt;br /&gt;
　長崎市在住の平野さんは全国被爆二世教職員の会を立ち上げ、全国被爆二世団体連絡協議会会長を務めました。また韓国の被爆二世との交流や、韓国の原爆被害者を救援する市民の会長崎支部長としても長年に渡って活動されるなど、活動は国内だけにとどまりません。被爆二世を使命として平和活動に地道に、しかも長年、精力的に力を注ぐ姿は尊敬しますし受賞は当然だと思います。本当におめでとうございます。少しばかり存じ上げている私としては心から嬉しいです。&lt;br /&gt;
　10月8日の中国新聞によると谷本清平和賞を主催する（財）ヒロシマ・ピース・センターは「被爆地のさらなる連携への思いを込め、選考対象を長崎に広めた」とコメントしています。これは２つの被爆地の思いと活動をくみ取ることで、全国に向けてより大きな賞へと進んだことを意味するのではないかと思います。そしてこれはいずれは世界へ向けていくものになればいいなあと思います。&lt;br /&gt;
　10月13日、秋葉広島市長は長崎市とともに2020年のオリンピックを招致する意向を日本オリンピック委員会に伝えました。その反響は大きく、広島でも物議をかもしていますが、私個人の意見としては賛成です。しかし１都市開催の五輪憲章の問題や、宿泊施設や収容人数の問題、財源など課題は山積で、加えて「政治的メッセージが強すぎるのでは」という意見も出るなど、招致実現までにはかなり遠い道程のようです。自国の利益のためではなく、世界のための平和メッセージならいいのではないかと私は思います。そしてオリンピックのためにわざわざ施設を建設したり整備したりするのではなく、現在ある施設を利用した東京方式のエコをテーマに具体的な方法を考えていけば、開催の道筋も見えてくるのではないかと思います。中国新聞の“急浮上・平和五輪”の記事によると秋葉市長は「今までのスタイルの五輪なら被爆地で開く意義はない」という考えのようです。この秋葉市長の考え方は大賛成です。11年後の世界がどうなっているのか正直なところ私には想像もできませんが、もし広島と長崎のコラボでオリンピックが開かれれば、オリンピックを再考し、核廃絶の実現も夢ではなくなるという素敵な聖火（成果）が生まれるかもしれません。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-10-17T16:15:50+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9caf.html">
<title>国連での鳩山首相演説。広島では・・・</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-9caf.html</link>
<description>　９月25日（金）の中国新聞朝刊の一面トップは“「核なき世界」決議採択　安保理　...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　９月25日（金）の中国新聞朝刊の一面トップは“「核なき世界」決議採択　安保理　初の首脳級会合”でした。アメリカのオバマ大統領が議長を務めた国連安全保障理事会の首脳級特別会合がニューヨークの国連本部で開かれ、「核兵器のない世界」の決議案を全会一致で採択したからです。このニュースは被爆地にとってだけではない大きな出来事だと思います。&lt;br /&gt;
　翌26日の新聞には鳩山首相が演説した内容の全文が掲載されていました。首相の「日本は核兵器による攻撃を受けた唯一の国家であります。しかし、われわれは核軍拡の連鎖を断ち切る道を選びました。それこそが、唯一の被爆国としてわが国が果たすべき道義的な責任だと信じたからであります。」の言葉には、あらためて日本の非核三原則の重みを実感しました。同26日の社会面には “鳩山首相演説　被爆者ら「希望感じた」”という見出しで、被爆者の方や秋葉広島市長のコメントが掲載され、被爆地への訪問呼びかけなどを高く評価していました。&lt;br /&gt;
　中国新聞の特別編集委員の方は首相演説に対し、25日に“国連演説に思う”と題して「恐らく2009年は、将来核廃絶が実現した折、人類の歴史にとって記念すべき年として記憶されるだろう。」と評しています。しかし手放しで喜んでいるわけではありません。世界的な経済破綻や地球温暖化による異常気象、新型インフルエンザの流行などが各国を悩ませている現在、「軍事力では対応できない問題が山積しているのだ。これらの課題を解決するには、世界の諸国家が協力するほかはない。」とせっぱつまった事態の中での核廃絶演説であったことも書き、こうした時勢だからこその国際協力の重要性も説いています。&lt;br /&gt;
　核兵器をなくす道程がそう簡単ではないことは誰しも理解しています。しかし今まで被爆者が命をかけて世界の人々に訴えてきたことが伝わり、各国の政治家がそれを受けて、困難な道程を歩もうとしてくれたと信じたいと思います。&lt;br /&gt;
　平和公園には平和の灯火があります。原爆死没者慰霊碑から原爆ドームをまっすぐ見た際、必ず目に入る平和の灯火は１９６４年、『水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため』に建設されました。火は全国から寄せられた“宗教の火”と工場地帯から届けられた溶鉱炉などの“産業の火”を合わせたものです。火の中には宮島の弥山にある“消えずの火”も入っています。広島の女性（1945年8月6日生まれ）たちにより点火され、以来、反核悲願の象徴となって燃え続けています。この平和の灯火は世界から核兵器がなくなったときに消火されます。この火が消される日が新しい世界の始まりになることは間違いありません。その日を一番に望んでいるのは原爆で亡くなった方々、そして被爆の後遺症で亡くなった方々や今を生きる被爆者の方だろうと思います。その第一歩がこの鳩山首相の演説になることを心待ちにしています。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-10-01T12:59:12+09:00</dc:date>
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<title>弥山に登って思ったこと</title>
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<description>　宮島は広島が世界に誇る景勝地です。世界遺産の厳島神社や多島美の瀬戸内などその美...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　宮島は広島が世界に誇る景勝地です。世界遺産の厳島神社や多島美の瀬戸内などその美しさに誰でもため息がでると思います。もちろん私も大好きな場所の一つです。連休に宮島の弥山に登りました。登山道の全てが階段といっていいほどだったため、かなり大変でしたが山頂からの眺めは抜群でした。&lt;br /&gt;
　登山口から２時間弱かけて登った標高約５３０ｍの山頂は不思議な光景が広がっていました。地上ではなかなか見ることのできない巨石がごろごろと転がっていて、別世界のようです。眼下には青く澄んだ内海に緑あふれる島々が点在して、ヨットや船がたてる白銀の波しぶきが絵画のようです。自然が織りなす造形美に心はあっという間に奪われてしまいました。空気の良さも最高でした。&lt;br /&gt;
　弥山は古くから山岳信仰の対象となっていたようで、その昔、弘法大師も来たようです。登山道の途中にいくつもありましたがお地蔵様や仏像が置かれていました。弘法大師が護摩を焚いたという火は“消えずの火”として伝えられていて、現在も山頂付近にある「不消霊火堂」で燃えています。お堂の中は煙が充満していて涙が出ましたが、約１２００年燃え続けていると言われている竈の火は荘厳でした。竈にかけられている茶釜の湯を頂きました。登山で疲れた喉を心地よく潤してくれました。日常を忘れさせてくれる一時でした。&lt;br /&gt;
　一大パノラマを見ながら、ふと戦時中のことを思いました。広島湾は海外派兵の前線基地だったからです。当時この美しい海に戦艦が往来し、宮島を始めとした島々には日本軍の施設があり、地下壕も数多く掘られていました。のどかな内海に戦艦の姿を想像するだけでぞっとしますが、実は今でも兵器庫などどして戦時中の施設がそのまま米軍などに使用されています。軍事施設にとって戦争は終わっていないのです。&lt;br /&gt;
　上から見ると呉市と岩国市は目と鼻の先で、瀬戸内を囲んで向かい合うように自衛隊と米軍がいます。穏やかな海を見ていると６０数年前の景色とは違っているようですが、現在の状況を考えるといまだ前線基地と言っても過言ではないと思います。呉では潜水艦などが停泊し、岩国では軍用機が離発着していて、いつでも戦地へ行けるからです。二度と戦争に行く船がこの美しい海を通ることのないよう、戦闘機が青空を飛ばないようにと思いました。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-09-24T17:19:05+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b4b7.html">
<title>カレーとキムチが並ぶテーブルに平和を見つけました〜「第１０回高暮平和の集い並びに追悼碑前祭」</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b4b7.html</link>
<description>　豊かな水を湛えたダムや穏やかな田園はすっかり秋景色。トンボが飛び交い、リンゴが...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　豊かな水を湛えたダムや穏やかな田園はすっかり秋景色。トンボが飛び交い、リンゴが真っ赤に色づいています。この美しい風景が６０数年前、過酷な労働によって作られたことなど今となっては全く想像できません。しかし地元の方々はその歴史をきちんと残し伝えています。&lt;br /&gt;
　先週、広島県の東北にある高暮ダムに行きました。高暮自治新興区主催の「第１０回高暮平和の集い並びに追悼碑前祭」に参加するためです。高暮ダムは県内でも知られた強制連行跡地で何度か足を運びましたが、この行事に参加するのは初めてでした。８月にお世話になった方からお誘いを受けたので、行ってみようと思ったのです。参加してよかったと思いました。地元の方々の思いが確かに伝わったからです。&lt;br /&gt;
　高暮ダムは１９４０年から工事が始められ、５０年に完成しました。目的は「戦争に勝つため」の電力供給でした。水没予定地に住む地元の方々は「お国のため」という理由で反対することも許されないまま、先祖から受けついできた大事な田畑や山林を手放すことになりました。家を出ていく際、空き家は燃やしていかなければならなかったようで、自分の家が燃え上がる光景を忘れることができなかったという証言が残っています。地元の方々もダム建設の犠牲者でした。&lt;br /&gt;
　ダム工事には４０００人ほどの労働者がおり、そのうち半分の２０００人ほどが朝鮮人だっただろうということです。家族で移ってきた方もおり、当時ダム周辺には５，６０００人の朝鮮人が住んでいたであろうとも言われています。強制連行つまり徴用で連れて来られた朝鮮人は、地元の方からは「集団」と呼ばれていました。トラックに集団で乗せられてきたからです。朝鮮人は堰堤や隧道など危険でキツイ現場で働き、悲惨な死亡事故もあったようです。また賃金も貯金してると騙された人もいたようです。当然、逃亡者も多くでましたが、大半は捕まったと言います。しかしこの逃亡を助けた方々も少なからずいたのです。地元の方々や電力会社の一部の方が、過酷な労働や待遇を見るに見かねて、食べ物や履物を渡したり、逃げ道を教えたりしたのです。&lt;br /&gt;
　こうした歴史を地元の方が調査し、慰霊碑を建て、後世に伝えているのです。そうした活動の一つが「高暮平和の集い並びに追悼碑前祭」でした。ダム建設のため移住した方々が住む高暮自治新興区が主催となってダムで犠牲となった方々の慰霊を行っているのです。この行事が素晴らしいと感じたところは、まずこの地区に住む全員が行事に参加していること、強制連行などの歴史を学ぶ時間を設けていること、そして広島の在日韓国朝鮮人の方々と一緒になって慰霊を行っていることです。また広島市内の高校生グループの姿もあり、伝承もされていると思いました。「高暮を人権・平和の町にしたいから、歴史を学ばなければいけない」という旨の挨拶をされていた地元の方がいましたが、それは高暮ダムだけのことではないと思います。高暮自治新興区のような考えを持つ地域が広島県内、また日本国内に広がったら、日本と朝鮮半島にある問題も少しは解決の道に向かっていくのではないかと嬉しくなりました。高暮自治新興区の女性の方々が作ったカレーと在日韓国朝鮮人の方が持参した手作りキムチが並ぶテーブルに「平和」を見つけた秋の日でした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-09-19T11:33:55+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7246.html">
<title>壮絶な闘いに涙しました。『差別と日本人』（野中広務・辛淑玉）を読んで</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7246.html</link>
<description>　今年の夏、２０代前半の若者と話をした際、耳を疑うような発言を聞きました。「在日...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今年の夏、２０代前半の若者と話をした際、耳を疑うような発言を聞きました。「在日は日本名で暮らしていてそれで何も問題がないのだから、それでいいのではないか。なにが差別なのか。差別差別というから差別があるのだ」と言うのです。その若者は少なくとも大学は大阪ですから、在日や被差別部落に関しての問題を聞いたことはあると思うのですが、今時いわゆる「寝た子を起こすな」的な考え方をする若者がいることに驚きを禁じ得ませんでした。社会から差別をなくす、そのために努力するという当たり前の考え方が、なぜその若者にできていないのか。恐らくその若者は差別を意識したことなく生きてきたからではないかと思いました。その若者は男性です。もし女性だったら、途中何らかの形で性差別に遭う確率が高いと思います。特に学校を出て就職や職場内での仕事で女性というだけで差別される経験をすることがあると思うからです。差別とは排除されることであり、時には生死にも関わってきます。その若者はまだ学生ですからそういった経験はあまりないかもしれませんが、少なくとも何らかの形で自分が差別され、それを意識したら、差別の意味や、形が見えてくるのではないかと思います。差別を意識した時、自分の周囲にある差別が浮き上がって見えてきます。私自身、広島に来て様々な差別を知り、自分も差別されていること、また自分も気づかないうちに差別していたことに気づきました。人間の心に沸いてくる差別意識をなくすことはそう容易ではないことは理解できますが、社会としてなくすよう努力することが社会を構成し、作っていく一人一人の役割ではないでしょうか。その若者はこれから社会に出ていきますから、おそらく私以上にいい経験を積むのではないかと期待しています。&lt;br /&gt;
　野中広務さんと辛淑玉さんの対談集『差別と日本人』では、差別と闘ってきたお二人の本音に近い話がつづられています。被差別部落出身の野中さんと在日の辛さんが受けてきた差別の実態と闘いの歴史が分かりやすく書かれています。対談形式なので読みやすいですし、言葉の意味も同時に掲載されているので、知識がなくても理解できます。自民党という巨大な与党だったところで政治家として活動されていた野中さんの壮絶な本音と組織に属せず闘ってきた辛さんの冷静な言葉に、私たちが知っているようで分かっていない日本の姿が映し出されていました。対談では破防法や国旗国家法案、ハンセン病裁判など、与党だった自民党がしてきたことの過程や意味なども語られていました。へえと思わせることも多く、政治という私には分かりにくいモノの考え方の一端も垣間見えたような気がしました。最初から最後までハードな読み物でしたが、最後に泣かされました。それはお二人が家族のことを話した場面です。「家族を守ろうとして守りきれなかった」お二人の共通の思いを読んだ時、壮絶を絶する闘いに心が痛みました。一番大事なものを傷つけてしまったという経験は、差別を受け、闘いに傷ついたことより大きな痛みだったに違いないと思うからです。野中さんはこれからの人生を戦後未処理問題に取り組みたいとおっしゃっていました。在韓被爆者のことも少しですが話しておられましたが、世の中を少しづつ変えてこられてきた方が、戦後未処理問題に関わってくださることに心強さを感じ、これから新しいアジア関係ができるのではないかと期待も膨らみました。&lt;/p&gt;

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<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
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<title>日本に住む外国籍の方の思い〜第３０回全国在日外国人教育研究集会広島大会に参加して②</title>
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<description>　「（日系人は）日本人から嫌われていると思うと話していた」という言葉が飛び出した...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　「（日系人は）日本人から嫌われていると思うと話していた」という言葉が飛び出したのは広島の地元報告会で行われたシンポジウム「在日外国人と日本人によるパネルディスカッション」でのことです。この報告会では海田町に住む日本語教室指導員と日系ペルー人、海田町などに住む日系人を数多く取材している日本人の新聞記者がそれぞれの経験を語るというものでした。来日し新しく住みついた広島で外国人の方たちはどういう思いで暮らしているのか生の声が聞けた内容でした。日本語教室指導員の方の話しでは日本語の指導だけではなく、最近では帰国するための母語教育も行われているようです。日系ペルー人の女性は学校で出会った教師に励まされ短大まで進学したことを話し、出会いに感謝していました。周囲の理解と協力が自分を変えてくれたのだというのです。しかし最後に新聞記者の方が放ったのが冒頭の言葉でした。親しい仲だからこそ出た本音だったに違いありませんが、強烈な一言でした。地域に溶け込もうとして努力したのだけれど、感じているのは疎外感なのでしょう。外国人であるが故なのか、そうではなくただ単によそ者だからなのか理由ははっきりしませんが、新聞記者の方がこの言葉を使ったのには、それなりの強い思いがあるからなのだと感じました。日系人が次々と帰国する中、残っている方々が追い込まれている状況が伝わってきました。&lt;br /&gt;
　会場からは在日韓国朝鮮人が歩んできた“同化”と同じ道になるのではないかと危惧する質問が出されました。しかしニューカマーの在日外国人にとって、まずは日本語を覚えることが先決という止むにやまれない状況があるのも事実です。そして自助努力だけでは現状を変えることができないところまで来ています。労働のための来日、日本語が不自由なための労働制限、そして不況による解雇・帰国、日本生まれの２世たちへの母語教育の必要性。これは全て在日韓国朝鮮人の方々が通ってきた辛苦の道程そのものです。その同じ道を日本人はまた通らせるのでしょうか。&lt;br /&gt;
　分科会でも多文化共生がテーマとなっていた部会がいくつかありましたが、今回のお話しをお聞きして、日本人が在日韓国朝鮮人の方々とうまく共生できていないため現在のような状態になっていることも一因ではないかと思いました。もし在日韓国朝鮮人の方々を尊重し共生できていたら、新しく来た外国の方々がもっと心地よく住めるような対策を素早くとることができたのではないかと思います。もちろん学校や企業、行政など対策はとっていますが、後手に回っている感は否めません。　&lt;br /&gt;
　また外国籍の方々への就職差別ということでは、分科会の報告で在日外国人教員についての話が出されました。公立学校で在日外国人（籍）教員の任用が行われているけれども採用が非常に少ないということでした。それはなぜなのか。もし外国籍ということで排除しているなら、それはまさに差別としか言いようがないと思います。もしそこに差別があるのなら、差別する側が意識を変えるしか問題の解決にはつながりません。外国籍でも日本で暮らしている方々は共に日本の社会を創り上げていく仲間です。外国籍の方が住みやすい国ならば、日本人も住みやすいに違いないのです。この度の選挙で政権交代になりました。新しい時代の始まりです。国籍に関係なく日本に住んでよかったと思える国になってほしいと願っています。&lt;/p&gt;

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<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-09-01T07:08:44+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-97a1.html">
<title>外国籍の子どもたち〜第３０回全国在日外国人教育研究集会広島大会に参加して①</title>
<link>http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-97a1.html</link>
<description>　私は海外旅行の際、ビザの取得などに困ることは全くありませんでしたし、行きたい国...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　私は海外旅行の際、ビザの取得などに困ることは全くありませんでしたし、行きたい国にはどこでも行けました。主に友人が住んでいる（いた）という理由でアジアの国に出かけていたのですが、ネパールやタイ、ベトナムなど現地の友人達にその国ならではの場所に案内してもらっていたのでとても楽しく、この国に住んでみたいなあとその都度思いました。今まで外国に住んだ経験がないので、外国に住む友人たちの苦労は想像しかできませんが、日本に住む外国籍の知人たちへの思いも同じでした。勿論、日本語が上手く話せないなどの理由からくる苦労は想像できるのですが、１９日から広島で開催された全国在日外国人教育研究集会で、日本に住む外国籍の方々の不自由さの一端が、ほんの少しですが伝わりました。&lt;br /&gt;
　教育現場では外国籍であることによって、その子ども達に色々な形で影響が出てくるようです。例えば在日韓国朝鮮人の子どもの場合、通称名で入学し、その名前のままで大学を卒業してしまう場合も考えられるというのです。これは何を意味するのかというと本名ではない学位が与えられるのです。この場合、留学などに支障が出てくる可能性もあるようです。&lt;br /&gt;
　また修学旅行では国籍によっては行くための手続きが大変難しい国も出てきます。これは政治的な問題なので外交関係で変わり、極端な場合は行けないこともあり得るらしいのです。修学旅行を引き受けている旅行会社は学校用に外国籍の子どものための海外旅行パンフを発行し、海外での修学旅行の際、配慮すべき点などを具体的に説明しているようです。この度の研究集会では、このパンフレット改訂に協力された会の方の報告をお聞きしました。どの部分に間違いがあって、どうしたらいいのかなど、旅行会社と密なやりとりをして完成させたようです。&lt;br /&gt;
　また驚きだったのが子どもの国籍や本名が分からない地域、学校も決して少なくないということでした。例えば在日韓国朝鮮人や中国人の場合、通称名で入学してしまうとぱっと見には判断できませんし、両親のどちらかが外国籍である場合、子どもがどちらの籍に入っているのかなどの場合も同様です。近年、海外の学校との交流が盛んになってきています。スポーツや文化交流など修学旅行以外での海外遠征といった場合も多々でてくるのではいかと思いますが、海外旅行のためにパスポートを取得する際、前出の問題が出てくる可能性があるのです。子どもにとって楽しみで得るものが多い海外旅行が国籍によって行けないのは悲劇です。&lt;br /&gt;
　さらに卒業アルバムなどにも本名で掲載されるのと、通称名で掲載されるのでは、本人やご家族にとっての感慨も違ってくるのではないかと思います。&lt;br /&gt;
　日本の学校に通う外国籍の子どもは増加しており、クラスや学校内での外国籍の子どもの把握と配慮はもはや必須だと思います。以前、聞いた話ですが、多文化の国カナダではクラスに転校生が来たら、まず自分の国のことを紹介させるといいます。どこの国なのか、その国の文化はどういうものなのかを聞くことで、自分との違いを認め、相手を理解するのです。私は知らない国や土地の話しを聞くのが大好きなので、この方法は素敵だと思います。自分の本名を名乗ることができなかったり、自分の国の文化を誇れないのは寂しいことだと思いますので、日本でもこの方法を取り入れてみてはいかがでしょうか。色々な文化を持つ子どもたちとの出会いはそのクラスや学校を豊かにすると思います。身近なところから国際意識が生まれてくると思います。&lt;br /&gt;
　このたびの集会では差別についても考えさせられましたが、その話は次回にしたいと思います。&lt;br /&gt;
　最後になりましたが、２０日、同集会のワークショップで拙作「土の記憶」の上映会がありましたが、機械トラブルにより、全てお見せすることができませんでした。この場をお借りして、見に来てくださった方々に深くお詫び申し上げます。&lt;/p&gt;</content:encoded>



<dc:creator>イトウソノミ</dc:creator>
<dc:date>2009-08-27T16:58:02+09:00</dc:date>
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