戦争

広島に残る戦争遺跡や戦争について

2017年7月26日 (水)

「閉ざされた記憶 ノーモア南京展」のこと

 去る715日~23日まで広島市内にある被爆建物・旧日本銀行広島支店で「閉ざされた記憶―ノーモア南京展」が開催されました。市内中心部の電車通沿いにあり観光名所にもなっているため建物を見学しに入ってこられた方もいるようでしたが、展示を熱心にご覧になっていました。特に16日は南京大虐殺の生存者のご息女、22日は南京戦に参加した元日本兵・山本武さんのご子息が来広され、お話しをされました。16日は会場に入りきらないほど人が訪れたようです。私は16日には参加できなかったのですが、22日のお話しは聞かせていただきました。山本武さんのご子息のお話は重い内容でした。

 農家を営み、家族を大事にしていた優しい山本武さんが、出征先の中国で何をしてきたのか。武さんは晩年になって家族に戦争を語り始めました。そして従軍記録を書くようになったのです。そこには捕虜として捕まえてきた者を惨殺する武さんの行為が綴られていました。女も子どもも関係なく片っ端から突き刺し殺す。そして敵の拠点となることを防ぐため部落に火を放つという、残虐極まりない行為がありました。福井県から出征した山本武さんは昭和12年に上海で戦争に参戦し、その後、昆山や蘇州など数々の戦闘を経て南京に入城しました。この時の従軍記録を武さんは死ぬ間際まで書き続けました。

武さんは生涯にわたって戦争体験に苦しめられたといいます。「戦争だけはダメだ」と口癖のようにご家族に言っていたそうです。武さんの話や記録公表に対しご家族の中には葛藤もあったようです。しかしご家族は亡くなった武さんの意思を受け継ぎ、武さんの戦争体験を語り継いでいます。

 南京大虐殺の有無が問われているといいます。なぜそのような話が出るのか不思議でなりません。日本軍による南京大虐殺は東京裁判でも争われました。裁判の中で日本軍の戦争犯罪が事実認定され、被告の元中支那派遣軍司令官の松井石根は処刑されています。サンフランシスコ平和条約では東京裁判での判決を受諾することが協定の一つとなっていますから、日本は国として南京大虐殺を認めています。

戦争で何があったのか。山本武さんのように実際に体験された方の経験談は事実を知るうえでとても貴重です。私たちはこうした展示や証言の会に足を運び、状況を知ることが大事だと思います。生生しい戦場での出来事を知るきっかけになるからです。自分の目で見て話を聞いて、可能であれば現場に出かけることで、当時の人の目線で考え、歴史を肌で感じることができます。歴史を肌で感じた時、戦争は遠い昔の出来事ではなくなるのです。

 

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2016年12月 7日 (水)

東京近郊の小さな原爆資料館「八王子平和・原爆資料館」

 明日12月8日は日本軍が真珠湾攻撃を行った日です。このたび安倍総理が日本の現職の首相として初めてハワイに慰問に行くようです。アメリカと日本はわずか71年前まで敵同士で戦争をしていました。真珠湾攻撃の先にアメリカによる広島、長崎の原爆投下があります。原爆が世界に与えた恐怖は大きなものでした。そして広島、長崎の今日の復興は世界にとって希望となったと思います。オバマ米大統領と安倍総理は対談をするようですが、核兵器のない世界、戦争をしない、世界のどこにも戦争をさせないことを誓えるような話し合いになってほしいと願います。

 今回は八王子にある小さな原爆資料館のご紹介をします。今年の秋、東京に行った際、たまたまこの資料館のことをお聞きし尋ねました。小さな資料館ですが、中身はぎゅっと詰まっています。

 資料館の正式名称は「八王子平和・原爆資料館」で1997年に開館しました。八王子市内にお住いの被爆者と市民の手で作られました。資料は広島、長崎の被爆者の手記や原爆に関する本、写真集、修学旅行の記録集など2000冊を超える書籍を所有しています。このほかに原爆瓦や熱線で溶けた皿、被爆により血で染まった服などの現物もあります。これらは被爆者の方や遺族などから資料を提供されています。また原爆関連だけではなく、平和に関する様々な資料も所蔵し、平和をテーマにしたアート作品も展示されています。

こちらの資料館の特徴は原爆に関するものが一つの場所で探すことができる点です。図書館などに行くと、写真集は写真集のコーナーに、小説は小説のコーナーに、学術的資料は専門書コーナーに分かれています。しかしここでは同じ場所で探すことができますから、気になったものをすぐ手に取ることができます。資料館は小さなスペースですが、分かりやすい書棚の陳列になっています。在韓被爆者の本も少しですがおいてありました。

私が見せて頂いて驚いたものは陶器の手榴弾でした。最初に見た時は一輪挿しの花瓶かなと思いました。太平洋戦争の終わりころ、日本は金属物資がなくなりとうとう陶器で手榴弾を作ることになったそうです。見せて頂いたのは小さくて丸い形をした四式陶製手榴弾です。陶器で手榴弾を作るほど切羽詰まっている時点で、やはり日本は負けることは必至だったのだと感じました。実は埼玉の河原には今もこの陶製手榴弾のかけらがたくさん残っているようです。

 同資料館では企画展なども行っています。東京近郊にお住まいの方、是非、立ち寄ってみられてはいかがでしょうか。まずはHPをご覧ください。

「八王子平和・原爆資料館」

http://hachioujiheiwagennbaku.web.fc2.com/

 

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2015年12月 8日 (火)

11歳の戦争~廣島の片隅で

 日本は負けると思っていなかった。学校で紀元2600年という神武天皇の即位から教えられた。国語も音楽も教科書には大国主命のことが書かれていた。戦争が大好きなお爺ちゃん、お婆ちゃんは「天皇陛下が広島に来た」と自慢げだった。父は兵隊の教育を受け、日清戦争の際、宇品港から中国へ出征した。戦争から帰ってきてから「関門海峡を通っていったのだけれど、ヒトも馬も船で酔った。戦争はむごいものじゃ」と言っていたが詳しい話はしなかった。

1941128日、日の丸の小旗を持って学校に行った。君が代を歌い、国旗掲揚してから校長先生が話しだした。「本日ただいま大本営発表により大東亜戦争が勃発しました。ハワイの真珠湾でアメリカの艦隊を~」と。皆で「大日本帝国万歳、天皇陛下万歳」を唱和した。そして「記念すべき戦争が始まった日だから行進します」と言われ、子どもたちは町中に向かって歩き出すことになった。通りは各家からお爺ちゃん、お婆ちゃんが出てきていて、「大日本帝国万歳」と万歳をしていた。長い道のりを旗振りながら歩いた。へとへとになった。

偉い人から「日本は大東亜戦争を始めて経済封鎖されているので石油や砂糖がない。正義の戦争をするのだ。インドシナ半島に進出する。土人(※証言者の言葉通りに使用しています)たちは文盲だ。西洋が植民地化し、勉強をさせていないからだ。中国も勉強させていないので日本が教育を行う。必ず勝たねばならない。共に栄えよう」と言った。当時小学校2年生の私でも話の内容は理解できた。「食べ物、着る物を我慢しよう」協力してくれと言われた。冬の間、フィリピンやシンガポールなどが陥落する度に万歳を唱和した。

4年生になった時、父に赤紙がきた。私は父に勉強を教えてもらうのが大好きで、父の出征前日も割り算を教えてもらっていた。父は「今回は戻れんかもしれん」と言った。私が「でも帰ってくるよね」と言い返すと、「わからん。天皇陛下の命令だから行かにゃあいけん。天皇陛下はえらいんじゃ。生き神様じゃ」。そして「あんた戦争の意味わかっとらんじゃろ。殺すか殺されるか、どっちかじゃ」と言うのだ。そこで私は「前にシナ(※中国のこと)に行った時は人を殺したんか」と尋ねた。そのやりとりを聞いていたお婆ちゃんは泣きだした。私は「しまった」と思った。お爺ちゃんは「大丈夫。お父ちゃん強いんじゃけ、死にやぁせんよ」と慰めた。私はその晩、眠れなかった。

815日は玉音放送のために校長が集まれと言った。皆、泣いた。酒もないのに大人たちは酔ったようになっていた。この日、初めて皆で泳ぎに行った。川に行く途中で西から東へ向かって飛行機が大編隊で飛んで行くのを見た。男子が4548機くらいまでは数えたが、それ以上は数えられなかった。それよりもっと多く飛んでいたのだ。恐ろしかった。山に向かって「大人の大嘘つき」「先生の嘘つき」と皆で叫んだ。すっきりした。8月15日は私にとって終戦ではなく敗戦だった。必ず勝つと信じ込まされていたから夢をみていた。私たちの夢が消えた日だった。学校でなぜ戦争を綺麗に教えたのだろう。勇ましい話、立派ないい話、美しい話ばかりだった。戦争の汚さを私は知らなかったのだ。

 

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2013年8月19日 (月)

戦争を生き抜いた方々へ思いをはせる

広島の美術館で現在、「尊厳の芸術展 The Art of Gaman」が開催されています。太平洋戦争中、アメリカで日系人は強制収容所に入れられました。このたびの展示は収容所時代に日系人たちによって作られた作品です。砂漠に建てられた収容所内での生活は厳しいものだったといいます。過酷な状況の中、日系人たちは生活用品を手作りして暮らしていました。食器から家具、そろばん、ナイフ、飾り物と日用品から工芸品まで、限られた材料を使って作られたものたちは多種多様です。英語のタイトル「The Art of Gaman」はある意味、とても日本人的だと思いますし、日本語タイトル「尊厳の芸術展」は日本人として、人間として生きて行くため必要なものだったということが伝わってきます。しかも作者はほとんどが職人ではなく素人であったところに、英語と日本語のタイトルの意味が重なってきます。多くの作品があるのですが、私が気になったものをいくつかご紹介したいと思います。

・そろばん~くずの木で作られていました。日本が誇る計算機そろばんを使う機会があったということです。もしくは子どもたちの教育用だったかもしれません。そろばんはもちろんドルを計算するものだと思いますが、そろばんとドルの組み合わせがとても不思議な気なしました。

・おもちゃ、ブローチ、花札、置物などの趣向品~数多くの暮らしを楽しむものが作られていました。子ども用だけではなく大人用も、そして女性用も男性用もあります。少しの時間でも笑顔になりたいと考えてのモノ作りだったと思います。生きるためには笑顔が必要だということを、しみじみ実感しました。また楽しいとは違いますが、二宮金次郎の像もあり、勤勉な日本人らしいなあと思いました。

・仏壇~薪やくずの木などで作られていました。これを見て、しばらく離れられませんでした。今もなんと言っていいのか、自分の気持ちをうまく表わす言葉が見つかりません。ただ、仏壇が必要だったのだということ。この前で拝んでいたということは間違いのないことです。まさに今回のタイトル「尊厳の芸術展 The Art of Gaman」を象徴するものだと思いました。戦争はどこにいても悲劇を生みます。

 8月6日、今年の平和祈念式典は時折涼しい風が吹いていました。知り合いの被爆者の方は通常の生活でも外出が難しいのに「無理して行く」とハガキを下さいました。当日、姿を探しましたが、大勢の人波の中、お会いすることはできませんでした。別の被爆者の方は平和公園に来られることはありませんでした。戦中戦後、アメリカでも広島でも、世界の各地で大勢の方が苦しみ、苦労を重ねていたことに、その方たちの望みに思いを馳せなければいけないと思いました。

 

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2011年10月27日 (木)

安野中国人受難之碑の前で

 発電所と言えば、今は福島の原発を頭に思い浮かべると思います。私は広島に来てから発電所と言えば、強制労働や、作業を行った朝鮮人・中国人を真っ先に思い浮かべます。なぜなら広島にある戦前からの発電所やダムは朝鮮人や中国人の労働現場だったからです。先週22日の土曜日、広島県内にある安野発電所で「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」があり、私も参加してきました。当日は安野発電所で働かされていた中国人の遺家族の方々が40人以上も来日し、当時をしのびながら、日中友好を確かめ合いました。

 広島県の北部にある安野発電所は戦時中、強制的に連れて来られた中国人が大勢働かされていました。狭い収容所に何十人も押し込められ、自由がなく、食事も満足にとれない状況で長時間の労働を強いられました。作業中の事故や脱走なども多く、亡くなってしまった方々も少なくなかったといいます。近くのお寺では亡くなった中国人の遺骨を長い間、安置していました。現在、安野発電所のすぐわきには“安野中国人受難之碑”が建立され、受難者(被害者)お一人お一人の名前が刻まれています。これは裁判のすえ被害者と加害者の和解によって建てられたもので、集会もこの碑の前で行われました。

 被害者の遺家族と加害者の関係者、町の人々が同席しているその光景はその名の通り「平和と友好」そのもののように見えました。前日の天気予報は雨でした。挨拶の間中、雨が降っていたのですが、献花が行われる頃には雨もすっかりやみ、薄日が差し込みました。あの雨はきっと受難者の方々の涙だったのでしょう。ご遺族やご家族の方々が碑に刻まれた名前を指で愛おしそうになぞる姿が心に残りました。

 私はフィールドワークでこの場所には何度も来ていますが、関係者の方々と来たのは初めてでした。同時にここに住んでおられる方々から当時の話しもお聞きし、歴史の現場にいるという実感がしみじみ湧き起こりました。遺家族の方々を目の前にすると、悲しみは消えることはないのだと思い知らされます。

 

 

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2011年2月12日 (土)

地域の戦争を掘り起こす中国新聞

 私はよくブログで中国新聞を取り上げます。中国新聞の広島県内の普及率は51%を超え、市内では56%近くありますから、広島県民の生の声を聞くことと、ほとんど同じではないかと思っていますので、ご紹介させていただいています。中国新聞では読者向けに『ニュースの窓』という講座を設けています。記者の方がご自身の記事などについて説明するという内容の講座です。先週、この講座に参加してきました。戦争遺跡を取材された記者の方のお話しだったからです。

その記事は 『残影 太平洋戦争開戦70年』というタイトルで今年1月12日から18日まで第一部が朝刊に連載されました。宮島や倉橋島など私が行ったことのある場所も記事になっていましたので、とても興味深く拝読していました。

 記事を担当されたH記者は連載開始にあたっての気持ちを「太平洋戦争開戦の大きな流れは記事として書かれているが、地域のこととなると総括がないのではないか。文献など客観的なものも大事だが、今も当事者が生存されているので、生の声を聞きたいし、大切にしていきたいと思った」と話されました。文献を発掘しながら当時をひもといていこうと思い、取材を始めたそうです。

 実際に資料を集め取材を行いながら、かなりとまどったようです。施設の跡は見つけられても、実際にどのように使用されていたのか、その資料がはっきりしない。さらに証言者が見つからない。また証言者が見つかっても当時の記憶が定かではない。といった壁が立ちはだかるからです。

 「記事では‘見られる’という言葉を使い、まどろっこしい書き方しかできなかった。施設の資料を調べても地名や番地までは書いていないので、ほぼ間違いないであろうと思うが確信がない。関係者は見つからなかった」と苦渋の思いを語る記者の方の気持ちは、私自身も地下壕の関係者や資料を調べるにあたって同じ思いをしているだけに、とてもよく理解できます。

「話を聞いて勉強になった。どこにも書かれていなかった話も出てくるからだ。記録の重要性を実感した。このたびの記事は大きなキャンバスの1点だと思ってはいるが、しっかりと把握していくことが大事だと思っている」と、第二部、第三部の意気込みも話されていました。

会場は席がいっぱいになるほど大勢の方が参加され、戦争遺跡に対する関心の深さを知りました。また記事で取り上げている場所以外の戦争遺跡について会場の方から話が出るなど活発な意見もだされ、本当に今やらなければ埋もれてしまう歴史の危うさを感じました。正直なことをお話しすると、広島の方が戦争遺跡にこれほど関心があるとは思っていなかったので驚きました。映像で残しておくことの必要性と重要性を一層、痛感しました。

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2011年2月 1日 (火)

久しぶりの地下壕。びっくりの状態になっていました。

昨年秋からちょこちょこと広島県内にある戦争遺跡のフィールドワークに参加しています。先週の日曜日は数年ぶりに以前、行ったことのある地下壕に行きました。今回久しぶりに回り、地下壕の崩壊を目の当たりにしてショックでした。

 呉市にあるアレイからすこじまは潜水艦をまじかに見る事のできる場所として観光名所になっています。周辺には旧海軍時代のレンガの建物も残っており、戦争時、海軍の町として栄えていたことを肌で感じることのできる場所です。この日も潜水艦を数台見る事が出来ましたが、巨大な姿に恐ろしさを感じます。海上自衛隊の潜水艦や護衛艦が停泊している光景や、潜水艦に立ててある旭日旗に似た旗を見るたびに戦争は終結していないのではないかと思ってしまい、複雑な気持ちになります。

 この潜水艦を見下ろす高台に地下壕はあります。数年前に来た時には入口は狭いながらも入ることができました。地下壕の内部は崩落がひどく、かなり危険な感じでした。しかし地下壕の中から外の港の景色が見えたことを覚えています。今回、行って驚いたのは入り口がすっかり埋もれていたことです。人為的に埋め戻ししたとは考えにくい状態ですので、以前の内部の状態を考えても自然崩落ではないかと思われます。これを元に戻すのはかなり大変な作業になるでしょう。また一つ、貴重な戦争遺跡が無くなり、本当に残念です。

 さらに別の地下壕にも数年ぶりに行きました。ここは内部にはそう変化は見られなかったのですが、やはり入口が変わっていました。入ったとたん水浸しで泥が堆積し、数十メートルの間は長靴でないと歩きにくい状況になっていました。ここもいつ入ることができなくなるかわかりません。戦後65年以上たっているのですから当然といえば当然なのですが、貴重な戦争遺跡ですから自然崩壊を待つだけの状態というのは惜しい気がします。

 現在、保存・公開されている地下壕は全国的にそう多くはありません。広島県内には1つもありません。広島は地下壕が多い地域ですから、せめて2、3か所程度はどこかが保存公開してもいいのではないかと思います。負の遺産には間違いありませんが、地下壕に入るといかに戦争が無益なことをしているのか、戦争の虚しさを実感することができます。実際の現場に行くことは貴重で大事な経験です。本や映像では決して伝えきることのできない何かを感じることができます。軍都であった廣島の象徴として地下壕や軍事施設を残し、原爆ドームとともに戦争遺跡ツアーをすれば戦争の悲劇をより深く体験することができると思います。どなたか、ぜひ地下壕を残して下さい。

 

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2010年12月11日 (土)

戦争を考える‘魔法の9’

 ついつい長話をしてしまい、すっかりご迷惑をかけてしましました。先月、在外被爆者裁判の後の席で映画監督・前田真吹さんとお会いしました。前田さんは現在、映画『魔法の9(仮題)』を制作中で、四国の高松市に在住しながら全国各地を取材中です。このたびの広島訪問もその一環で来られました。この時、初めてお会いしたのですが、前田さんが制作中の作品のお話しをお聞きして、時間が足りないなあと思うほど話をしました。

映画は戦争体験者の証言を集めたドキュメンタリーです。制作のきっかけはご自身のアフガニスタン取材だったといいます。銃痕おびただしい廃墟、避難民の子供たち・・・衝撃的な戦争の姿にがく然となりました。その後現地を訪れても女性であるため前田さんは外に出る事もできず、知人に会うことすらままならない状況になりました。日本に戻り、どうしたらいいのか悩んでいた時、高松空襲の体験者と出会いました。話を聞いてアフガニスタンの子どもたちと高松空襲体験者の姿が重なりました。足元を知ることから始めようと、日本にいる戦争体験者を中心に記録することを決めたのでした。今まで数十人の方々とお会いしたといいます。現在も取材中ということでしたので、個人的にはぜひ在韓被爆者もその中に加えていただきたいなあと思います。来年には完成する予定のようです。どんな方の証言が見られるのか、映画の完成が待ち遠しいです。

映画のタイトルの‘9’は憲法9条を意味していますが、前田さんは「決して憲法9条を変えるなと言いたいわけではない」と強調していました。憲法がなかった時代を振り返ることで、憲法や戦争を考えるきっかけとなってほしいと願っているのです。今年5月18日「日本国憲法の改正手続に関する法律(憲法改正国民投票法)」が施行されました。投票権は満20歳以上の国民です。もしこれが平和憲法の国民投票をすることになったのなら。そして改正票が有効投票数の過半数を超えた場合、9条はどうなるのでしょうか。そしてそのことは何を意味するのでしょうか。私たちは知らなければいけないことがたくさんあります。そして考えなければいけません。

 

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2010年5月31日 (月)

自分の親のために泣け!ハルモニの言葉を噛みしめました。

 10年ほど前になるでしょうか。韓国にあるナヌムの家に行った時のことです。ハルモニと交流し、1泊した翌日の早朝、私は一人、庭に出て花を眺めていました。そこに日本語の上手なハルモニがやってきました。こんな朝早くに人がいるとは思わなかったのでしょう。私の顔を見て少し驚いた様子でした。挨拶を交わした後少ししてから、ハルモニは「私の話を聞いて涙する人がいるけれど、私に涙するくらいなら自分の親のために泣けと言いたいよ」と言ったのです。強烈な言葉でした。その時、私はその言葉の意味を自分なりに考え、理解していたつもりでした。しかし私は理解していなかったことを、キチンと受け止めていなかったことを、ついこの間、実感しました。

5月のある日、親の金婚式を祝うために家族が集まりました。集合場所は愛知県蒲郡市です。なぜここに集まったのかというと、父親の疎開先だったからです。戦時中、小学生だった父親は2年間、蒲郡市内の寺院に疎開しました。終戦直前、家族で北海道に開拓に入ることになったのですが、この蒲郡のお寺から親に連れられて父親は北海道に旅立ったのです。名古屋は父親の生まれ育った故郷であり、蒲郡は温泉地で懐かしい場所なので、この地で金婚式を祝うことにしたのです。数年ぶりに家族が揃い、楽しい宴を過ごしました。

翌日、私は父親の疎開場所であったお寺に同行しました。父親にとっては戦後初めて訪れることになったので65年ぶりです。父親に案内されたお寺は古い歴史を感じられる大きな寺院でした。大きなお寺を中心にして、境内にはいくつも小さなお寺がありました。境内に入ったとたん「この鐘は前と同じ」「ここでご飯を食べた」「ここは女子が寝泊まりしていた寺でこっちが男子」とまるで昨日までいたかのように私たちに説明してくれました。父親が寝泊まりし、勉強していた寺院は小さなお寺のひとつでした。最初、父親は「外から見るだけで十分」と言っていたのですが、せっかく来たのだから、可能であればお邪魔させていただこうと説得し、私が住職に交渉しに行きました。するとあっさりと快諾してくださいました。聞くとご住職は、普段は京都のお寺に行っており、たまたまこの日は帰ってきていたとのこと。またいつもは法事があるのですが、この日はなぜか無かったとおっしゃいました。疎開のことを話すと、「私は戦後生まれて知らないのですが、母親からはよく話を聞かされました。私の姉が疎開された生徒のみなさんに大変、可愛がられたと言っていました。時々、その時の生徒さんがみえますよ。どうぞどうぞ、ごゆっくりしてください」とお茶やお菓子まで出してくださいました。そして「残念なことに母はもう他界し、その時のことは母から聞いたことしかわからないんです」と話されました。ご住職の話を聞いている父親が突然、黙ってしまいました。そして次の瞬間、こぶしを目にあてたのです。びっくりしました。父親が泣いているのです。祖父母の葬式の時にも涙を見せなかった父親が泣いているのです。私は、とても、とても、驚きました。涙する父親を見たのは初めてだったからです。しかしその涙も一瞬でした。父親はすぐに顔をあげ、ご住職と穏やかに話し始めたのでした。

後日、義母にこの時の様子を話すと「その話を聞いて涙がでそうになった。お父さんはきっと名古屋に帰りたかったんだと思う。普通は親と離れて暮らした疎開先にはいい思い出なんかないと思う。よっぽど故郷が恋しかったんだと思うよ」と言われました。私はその言葉を聞き、思わず涙がこぼれました。今まで、在韓被爆者や在日韓国朝鮮人の方々から故郷を離れて暮らし、懐かしむ思いをたくさん聞いてきたのに、そのことを自分なりに考えていたと思っていたのに、自分の父親もまさに同じ思いを抱いていたことになぜ思い至らなかったのか。悔しくて、父親のことが愛おしくて涙が止まりませんでした。冒頭のハルモニの言葉はまさにこのことでした。親の話をもっともっと聞かなければ、そう思いました。

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2010年4月30日 (金)

軍都廣島を歩いて見てださい④

 ようやく風薫る季節になりました。晴れた日、中区の“江波”を歩いてみてはいかがでしょうか。牡蠣打ち場や被爆建物の気象台、桜の名所などの見所があり、さらに有名なラーメン屋やレストラン、美味しい洋菓子店などのグルメもあって、町歩きには楽しい地域です。散歩をしながら江波に残る軍都広島時代の名残を探してみませんか。

 江波皿山から北東に向かって真っ直ぐに伸びる道が2本あります。この2本の道の間にかつて陸軍の“射撃場”がありました。1875年、広島練兵場設置江波射撃場として設立され、現在の江波中学校付近から山に向かって砲弾が撃ち込まれていたようです。周辺には陸軍病院の分院や三菱造船所など軍都を形成する施設もありました。

 「戦時中はイチジク畑だらけだったんですよ」と江波に住んでいた在韓被爆者のIさんはいつも話します。当時、江波には朝鮮人の方々が数多く住み、陜川出身者も大勢いたようです。「私の家は韓国式の法事の際に使うものを売っていたんです。」とIさん。朝鮮人相手の商売が成り立つほどですから、いかに多くの朝鮮人の方々が住みついていたのか伺うことができます。

 被爆時、Iさんは食事の後かたづけをしていました。ピカッと光り、大きな音が響くと同時に家が崩れたと言います。一緒にいた母親は血だらけになり、Iさん自身も額に怪我をしました。避難場所は射撃場でした。大勢の人々が避難してきたといいます。Iさんは近所に住んでいた在韓被爆者の方々の証人に何度もなっています。私は陜川に行くたびにIさんにお世話になっています。

 軍都廣島をご紹介してきましたが、それは朝鮮半島と関わりにもつながってきます。それは広島だけではないと思います。韓国併合100年の節目に日本と朝鮮半島との関わりや歴史を身の回りから考えてみてはいかがですか。

 

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