戦争

広島に残る戦争遺跡や戦争について

2019年11月30日 (土)

戦時中の朝鮮半島の人々の遺骨

戦時中、日本軍の兵士は海外の様々な戦場で命を落としています。現在、ロシアやフィリピンなどから収集されたご遺骨が徐々に日本に戻っています。しかしDNA鑑定の結果、そのご遺骨が日本人のものでないなど問題も出てきています。1日も早く日本に戻ってきてほしいのですが、そう簡単にはいかないようです。

 

日本にも遺骨問題はあります。戦時中、徴用や生活のため日本に働きに来ていた朝鮮半島の方々のご遺骨が全国各地に埋葬されているのです。韓国側も日本側も調査していますが、人数ははっきりとしていません。朝鮮半島出身者徴用工の遺骨問題は日本の国会でも度々質問されています。日本政府は韓国政府と話しあいを行い、韓国へ返還を行っていますが簡単にはいかないようです。現在、全国調査し発掘された遺骨の一部は、東京都目黒区祐天寺に納められ、毎年「韓國出身戦没者還送遺骨追悼式」が行われています。祐天寺などからはぽつんぽつんと韓国に返還されていますが、多くのご遺骨はまだ日本に眠っています。

 

今年1024日、沖縄で「日帝強制動員犠牲者遺骸に関する国際シンポジウム 沖縄戦戦没者遺骨調査並びに韓国人遺骸奉還のための提言」が開催されました。主催は日帝強制動員被害者支援財団・民族和解協力汎国民協議会でいずれも韓国の団体です。この会に私自身は参加してはいないのですが、シンポジウムでは日本に埋葬されている朝鮮半島出身者の遺骨調査状況や現状、課題などが報告されたようです。戦時中に行われた日本人から朝鮮半島出身者や沖縄の方への加害の実情は資料を読むと悲惨なもので、沖縄でも数多く朝鮮半島出身者が亡くなったことを知りました。大勢の朝鮮半島出身者のご遺骨が沖縄にもあるのです。

 

全日本仏教協会のHPには朝鮮半島出身者の遺骨返還問題について書かれたページがあります。全日本仏教協会は日本各地の寺院に情報提供を呼びかけ、朝鮮半島出身者の遺骨について所在確認を行ったようです。日本政府からの依頼があり、調査を実施したということのようでした。そして返還する方向で話を進めようとしているようです。

 

DNA鑑定では人種や出身地まで分かると言います。遺骨でも出身地が判明できるのです。ご本人やご遺族にとって故郷に帰るのは1日でも早い方がいいのは当然ですが、朝鮮半島の方々と日本人では死生観が違うということを私たち日本人は考えなければいけません。ある方が韓国人から聞いたことは韓国人は身内でない骨には絶対に手を出さないというのです。そして骨を堀りあげる日も決まっており、秋夕の頃にお払いをして掘るというのです。それをしなければ意味がないとまでいう方もいるようです。日本に埋葬されている遺骨はそうした韓国の方の気持ちは反映されていません。こうした死生観も考えた上で遺骨送還を考えることが重要だと私は思います。ご遺骨は人間だからです。

 

|

2019年11月 8日 (金)

立岩ダムのフィールドワークに行ってきました

連休最終日に広島県の北西部に位置する立岩ダムのフィールドワークに行ってきました。天気にも恵まれ紅葉シーズンでもあり連休最終日とあって道は多少混んでいました。広島県内にはいくつもダムがありますが、立岩ダムは観光のための施設がないので風景を楽しむとはいかないようです。ここでは行楽客には会いませんでした。私がここに来たのには理由があります。戦時中、朝鮮人労働があった場所だからです。

 

立岩ダムは太田川の最上流部にあり、徳山の海軍のための送電目的で1939年に建設されました。戦前のダムとしては7番目に高く、打梨発電所、土居発電所、吉ケ瀬発電所と3つの発電所が利用しています。ダム建設に加え、水を発電所に運ぶ隧道、発電所と、電気を作るための建設現場の全てに朝鮮半島の人々が働いていたのです。

 

工事中、旧道のそばの田んぼや畑は飯場(作業員の宿泊施設)になっていたという証言もあるほど、大勢の人がこの建設に関わっていたようです。作業員は独身者のみならず家族連れもいたようで、下流の学校では親と共に来た子供が学校に入るための臨時校舎を作ったという話までありました。廃校になった小学校に行ってみると、木造の建物がまだ残っていました。立派な校舎から当時の賑やかな様子が目に浮かびました。また遊郭も作られていたという証言があり、このたび案内してくださった方が行ってみると果たして証言通りの場所に石垣が残っていました。かなり広い範囲に石垣があったので、この場所が遊郭だった可能性があるとのことでした。この遊郭では朝鮮人の女性も働いていたという証言もあります。証言をしてくださった方々の映像を見たのですが、ハッキリと遊郭があったと言わず遊郭があるのは知っているけれどと口ごもっていました。地元の方としては公然と言いたくないのかもしれません。遊郭跡と思われる場所は現在、草木が茂りすっかり藪になっていました。当時の面影はうっすらと続く道と頑丈な石垣でした。近くの道際には古そうな小さなお地蔵様もあり、(遊郭の近くには地蔵があることが多いそうです)ひょっとすると、当時遊郭で働いていた女性たちが密かに参っていた場所だったのかもしれません。

 

ダムや発電所は戦後中国電力に移管され現在も利用されています。ダム工事にはダイナマイトを使うため、犠牲者が出たこともありました。山の中を走る隧道の工事は特に朝鮮半島の人々が行っていたといいます。隧道はツルハシで掘り、トロッコで岩を運ぶという気の遠くなりそうな作業でした。水が落ち、昼夜交代制で働くという苛酷な現場でした。あまりの厳しさに逃げ出した人もいたようです。どれくらいの人々が働いていたのか分かってはいませんが、今後、調査の過程で発見があるかもしれません。前記事でも書きましたが、私たちは現在もここで作られている電気を利用しています。朝鮮半島の人々によって今の生活の礎があることを、私たちは知るべきだと思いますし後世にも伝えていくべきだと思います。私たちの現在と過去の歴史がどう結びついているのかを知ることは、私たちが未来を作るうえでの基礎になるからです。

 

 

 

|

2019年10月31日 (木)

歴史の現場を歩く~安野発電所フィールドワーク

前記事の集会翌日は「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」と安野発電所のフィールドワークがありました。70人以上が集まり前日に引き続きご遺族の方も参加されました。秋晴れの爽やかな天候のもと、集まった方々は74年前の出来事を思い起こしました。

 

「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」では安芸高田町長や作業中に亡くなった方の遺骨を長年預かっておられた寺院の僧侶様、地域の方も来られ参加者一同、安野発電所に強制連行され苛酷な労働をさせられたすべての方々へ哀悼の意を表しました。綺麗に清掃された碑にご自身の家族の名前を見つけ、愛おしそうに指を重ねるご遺族の姿が心に残りました。

 

フィールドワークでは安野発電所や坪野地域などの作業現場、収容所跡などに行き、当時の様子を知る方の証言に耳を傾けました。いかに作業が危険だったのか、逃げて拷問を受けた人がどういう様子だったのかなど、詳細に話してくださいました。強制連行で作られた安野発電所は現在も稼働しており見ることができます。また発電所に水を引くための導水管の工事現場跡や収容所の跡などは、当時の様子が絵で描かれた資料が用意され、現在の景色に当時を重ねることができました。

 

周囲を見渡す山の中に導水管が走っていることを思うと、気の遠くなるような作業だと思います。ほとんど明りのない中、トンネルをひたすら掘り続ける。作業をさせられた方々の大部分は初めてする仕事だったでしょう。見知らぬ外国の山奥でそれまで経験したことのない仕事をさせられ、しかもそれは非常に危険をともなうものです。その上、食事は1日おにぎりのみ。寝床は狭く、常に監視されています。もし逃げた場合は拷問にあうという恐怖以外考えられない苛酷な状況下です。ご遺族の方は来日した理由の一つに家族がいた場所を見てみたいと話されていました。実際に現場でご遺族は涙を流されていました。自分の身内が同じような目に遭っていたらと考えると胸が痛みました。フィールドワークの最後でご遺族が証言された方と抱き合う姿を見ました。少しはご遺族の心が軽くなったことを祈らずにいられません。そして、この安野発電所の建設現場には中国人だけではなく朝鮮人も数多く働いていました。

 

現在でも安野発電所では電気がつくられています。私たちは今も当時の恩恵を受け続けているのです。静かな山間の地域に苛酷な作業現場があり、そこで中国や朝鮮半島の人々が働いていた。どういう背景でどのように作られ、そこで何があったのか。身近な生活の中に加害の歴史があったことを知ることで、被害を受けた側の気持ちを理解できるのだと思います。前日の集会で東京大学大学院・外村大教授が、市民運動が戦後補償問題に果たした役割が決して小さくはなかったことを述べられていました。安野裁判も市民の積極的で継続的な取り組みが本当の意味での和解という状況に繋がっていったのだと思います。市民運動ではフィールドワークも活動の一環として行われています。運動というと敷居が高いと思う方もおられると思いますが是非、集会やフィールドワークを活用して歴史の事実を知る機会にしてみてはいかがでしょうか。戦争の歴史は今を生きる私たちの生活と切り離しては考えられないのですから。

 

 

|

2017年7月26日 (水)

「閉ざされた記憶 ノーモア南京展」のこと

 去る715日~23日まで広島市内にある被爆建物・旧日本銀行広島支店で「閉ざされた記憶―ノーモア南京展」が開催されました。市内中心部の電車通沿いにあり観光名所にもなっているため建物を見学しに入ってこられた方もいるようでしたが、展示を熱心にご覧になっていました。特に16日は南京大虐殺の生存者のご息女、22日は南京戦に参加した元日本兵・山本武さんのご子息が来広され、お話しをされました。16日は会場に入りきらないほど人が訪れたようです。私は16日には参加できなかったのですが、22日のお話しは聞かせていただきました。山本武さんのご子息のお話は重い内容でした。

 農家を営み、家族を大事にしていた優しい山本武さんが、出征先の中国で何をしてきたのか。武さんは晩年になって家族に戦争を語り始めました。そして従軍記録を書くようになったのです。そこには捕虜として捕まえてきた者を惨殺する武さんの行為が綴られていました。女も子どもも関係なく片っ端から突き刺し殺す。そして敵の拠点となることを防ぐため部落に火を放つという、残虐極まりない行為がありました。福井県から出征した山本武さんは昭和12年に上海で戦争に参戦し、その後、昆山や蘇州など数々の戦闘を経て南京に入城しました。この時の従軍記録を武さんは死ぬ間際まで書き続けました。

武さんは生涯にわたって戦争体験に苦しめられたといいます。「戦争だけはダメだ」と口癖のようにご家族に言っていたそうです。武さんの話や記録公表に対しご家族の中には葛藤もあったようです。しかしご家族は亡くなった武さんの意思を受け継ぎ、武さんの戦争体験を語り継いでいます。

 南京大虐殺の有無が問われているといいます。なぜそのような話が出るのか不思議でなりません。日本軍による南京大虐殺は東京裁判でも争われました。裁判の中で日本軍の戦争犯罪が事実認定され、被告の元中支那派遣軍司令官の松井石根は処刑されています。サンフランシスコ平和条約では東京裁判での判決を受諾することが協定の一つとなっていますから、日本は国として南京大虐殺を認めています。

戦争で何があったのか。山本武さんのように実際に体験された方の経験談は事実を知るうえでとても貴重です。私たちはこうした展示や証言の会に足を運び、状況を知ることが大事だと思います。生生しい戦場での出来事を知るきっかけになるからです。自分の目で見て話を聞いて、可能であれば現場に出かけることで、当時の人の目線で考え、歴史を肌で感じることができます。歴史を肌で感じた時、戦争は遠い昔の出来事ではなくなるのです。

 

| | トラックバック (0)

2016年12月 7日 (水)

東京近郊の小さな原爆資料館「八王子平和・原爆資料館」

 明日12月8日は日本軍が真珠湾攻撃を行った日です。このたび安倍総理が日本の現職の首相として初めてハワイに慰問に行くようです。アメリカと日本はわずか71年前まで敵同士で戦争をしていました。真珠湾攻撃の先にアメリカによる広島、長崎の原爆投下があります。原爆が世界に与えた恐怖は大きなものでした。そして広島、長崎の今日の復興は世界にとって希望となったと思います。オバマ米大統領と安倍総理は対談をするようですが、核兵器のない世界、戦争をしない、世界のどこにも戦争をさせないことを誓えるような話し合いになってほしいと願います。

 今回は八王子にある小さな原爆資料館のご紹介をします。今年の秋、東京に行った際、たまたまこの資料館のことをお聞きし尋ねました。小さな資料館ですが、中身はぎゅっと詰まっています。

 資料館の正式名称は「八王子平和・原爆資料館」で1997年に開館しました。八王子市内にお住いの被爆者と市民の手で作られました。資料は広島、長崎の被爆者の手記や原爆に関する本、写真集、修学旅行の記録集など2000冊を超える書籍を所有しています。このほかに原爆瓦や熱線で溶けた皿、被爆により血で染まった服などの現物もあります。これらは被爆者の方や遺族などから資料を提供されています。また原爆関連だけではなく、平和に関する様々な資料も所蔵し、平和をテーマにしたアート作品も展示されています。

こちらの資料館の特徴は原爆に関するものが一つの場所で探すことができる点です。図書館などに行くと、写真集は写真集のコーナーに、小説は小説のコーナーに、学術的資料は専門書コーナーに分かれています。しかしここでは同じ場所で探すことができますから、気になったものをすぐ手に取ることができます。資料館は小さなスペースですが、分かりやすい書棚の陳列になっています。在韓被爆者の本も少しですがおいてありました。

私が見せて頂いて驚いたものは陶器の手榴弾でした。最初に見た時は一輪挿しの花瓶かなと思いました。太平洋戦争の終わりころ、日本は金属物資がなくなりとうとう陶器で手榴弾を作ることになったそうです。見せて頂いたのは小さくて丸い形をした四式陶製手榴弾です。陶器で手榴弾を作るほど切羽詰まっている時点で、やはり日本は負けることは必至だったのだと感じました。実は埼玉の河原には今もこの陶製手榴弾のかけらがたくさん残っているようです。

 同資料館では企画展なども行っています。東京近郊にお住まいの方、是非、立ち寄ってみられてはいかがでしょうか。まずはHPをご覧ください。

「八王子平和・原爆資料館」

http://hachioujiheiwagennbaku.web.fc2.com/

 

| | トラックバック (0)

2015年12月 8日 (火)

11歳の戦争~廣島の片隅で

 日本は負けると思っていなかった。学校で紀元2600年という神武天皇の即位から教えられた。国語も音楽も教科書には大国主命のことが書かれていた。戦争が大好きなお爺ちゃん、お婆ちゃんは「天皇陛下が広島に来た」と自慢げだった。父は兵隊の教育を受け、日清戦争の際、宇品港から中国へ出征した。戦争から帰ってきてから「関門海峡を通っていったのだけれど、ヒトも馬も船で酔った。戦争はむごいものじゃ」と言っていたが詳しい話はしなかった。

1941128日、日の丸の小旗を持って学校に行った。君が代を歌い、国旗掲揚してから校長先生が話しだした。「本日ただいま大本営発表により大東亜戦争が勃発しました。ハワイの真珠湾でアメリカの艦隊を~」と。皆で「大日本帝国万歳、天皇陛下万歳」を唱和した。そして「記念すべき戦争が始まった日だから行進します」と言われ、子どもたちは町中に向かって歩き出すことになった。通りは各家からお爺ちゃん、お婆ちゃんが出てきていて、「大日本帝国万歳」と万歳をしていた。長い道のりを旗振りながら歩いた。へとへとになった。

偉い人から「日本は大東亜戦争を始めて経済封鎖されているので石油や砂糖がない。正義の戦争をするのだ。インドシナ半島に進出する。土人(※証言者の言葉通りに使用しています)たちは文盲だ。西洋が植民地化し、勉強をさせていないからだ。中国も勉強させていないので日本が教育を行う。必ず勝たねばならない。共に栄えよう」と言った。当時小学校2年生の私でも話の内容は理解できた。「食べ物、着る物を我慢しよう」協力してくれと言われた。冬の間、フィリピンやシンガポールなどが陥落する度に万歳を唱和した。

4年生になった時、父に赤紙がきた。私は父に勉強を教えてもらうのが大好きで、父の出征前日も割り算を教えてもらっていた。父は「今回は戻れんかもしれん」と言った。私が「でも帰ってくるよね」と言い返すと、「わからん。天皇陛下の命令だから行かにゃあいけん。天皇陛下はえらいんじゃ。生き神様じゃ」。そして「あんた戦争の意味わかっとらんじゃろ。殺すか殺されるか、どっちかじゃ」と言うのだ。そこで私は「前にシナ(※中国のこと)に行った時は人を殺したんか」と尋ねた。そのやりとりを聞いていたお婆ちゃんは泣きだした。私は「しまった」と思った。お爺ちゃんは「大丈夫。お父ちゃん強いんじゃけ、死にやぁせんよ」と慰めた。私はその晩、眠れなかった。

815日は玉音放送のために校長が集まれと言った。皆、泣いた。酒もないのに大人たちは酔ったようになっていた。この日、初めて皆で泳ぎに行った。川に行く途中で西から東へ向かって飛行機が大編隊で飛んで行くのを見た。男子が4548機くらいまでは数えたが、それ以上は数えられなかった。それよりもっと多く飛んでいたのだ。恐ろしかった。山に向かって「大人の大嘘つき」「先生の嘘つき」と皆で叫んだ。すっきりした。8月15日は私にとって終戦ではなく敗戦だった。必ず勝つと信じ込まされていたから夢をみていた。私たちの夢が消えた日だった。学校でなぜ戦争を綺麗に教えたのだろう。勇ましい話、立派ないい話、美しい話ばかりだった。戦争の汚さを私は知らなかったのだ。

 

| | トラックバック (0)

2013年8月19日 (月)

戦争を生き抜いた方々へ思いをはせる

広島の美術館で現在、「尊厳の芸術展 The Art of Gaman」が開催されています。太平洋戦争中、アメリカで日系人は強制収容所に入れられました。このたびの展示は収容所時代に日系人たちによって作られた作品です。砂漠に建てられた収容所内での生活は厳しいものだったといいます。過酷な状況の中、日系人たちは生活用品を手作りして暮らしていました。食器から家具、そろばん、ナイフ、飾り物と日用品から工芸品まで、限られた材料を使って作られたものたちは多種多様です。英語のタイトル「The Art of Gaman」はある意味、とても日本人的だと思いますし、日本語タイトル「尊厳の芸術展」は日本人として、人間として生きて行くため必要なものだったということが伝わってきます。しかも作者はほとんどが職人ではなく素人であったところに、英語と日本語のタイトルの意味が重なってきます。多くの作品があるのですが、私が気になったものをいくつかご紹介したいと思います。

・そろばん~くずの木で作られていました。日本が誇る計算機そろばんを使う機会があったということです。もしくは子どもたちの教育用だったかもしれません。そろばんはもちろんドルを計算するものだと思いますが、そろばんとドルの組み合わせがとても不思議な気なしました。

・おもちゃ、ブローチ、花札、置物などの趣向品~数多くの暮らしを楽しむものが作られていました。子ども用だけではなく大人用も、そして女性用も男性用もあります。少しの時間でも笑顔になりたいと考えてのモノ作りだったと思います。生きるためには笑顔が必要だということを、しみじみ実感しました。また楽しいとは違いますが、二宮金次郎の像もあり、勤勉な日本人らしいなあと思いました。

・仏壇~薪やくずの木などで作られていました。これを見て、しばらく離れられませんでした。今もなんと言っていいのか、自分の気持ちをうまく表わす言葉が見つかりません。ただ、仏壇が必要だったのだということ。この前で拝んでいたということは間違いのないことです。まさに今回のタイトル「尊厳の芸術展 The Art of Gaman」を象徴するものだと思いました。戦争はどこにいても悲劇を生みます。

 8月6日、今年の平和祈念式典は時折涼しい風が吹いていました。知り合いの被爆者の方は通常の生活でも外出が難しいのに「無理して行く」とハガキを下さいました。当日、姿を探しましたが、大勢の人波の中、お会いすることはできませんでした。別の被爆者の方は平和公園に来られることはありませんでした。戦中戦後、アメリカでも広島でも、世界の各地で大勢の方が苦しみ、苦労を重ねていたことに、その方たちの望みに思いを馳せなければいけないと思いました。

 

| | トラックバック (0)

2011年10月27日 (木)

安野中国人受難之碑の前で

 発電所と言えば、今は福島の原発を頭に思い浮かべると思います。私は広島に来てから発電所と言えば、強制労働や、作業を行った朝鮮人・中国人を真っ先に思い浮かべます。なぜなら広島にある戦前からの発電所やダムは朝鮮人や中国人の労働現場だったからです。先週22日の土曜日、広島県内にある安野発電所で「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」があり、私も参加してきました。当日は安野発電所で働かされていた中国人の遺家族の方々が40人以上も来日し、当時をしのびながら、日中友好を確かめ合いました。

 広島県の北部にある安野発電所は戦時中、強制的に連れて来られた中国人が大勢働かされていました。狭い収容所に何十人も押し込められ、自由がなく、食事も満足にとれない状況で長時間の労働を強いられました。作業中の事故や脱走なども多く、亡くなってしまった方々も少なくなかったといいます。近くのお寺では亡くなった中国人の遺骨を長い間、安置していました。現在、安野発電所のすぐわきには“安野中国人受難之碑”が建立され、受難者(被害者)お一人お一人の名前が刻まれています。これは裁判のすえ被害者と加害者の和解によって建てられたもので、集会もこの碑の前で行われました。

 被害者の遺家族と加害者の関係者、町の人々が同席しているその光景はその名の通り「平和と友好」そのもののように見えました。前日の天気予報は雨でした。挨拶の間中、雨が降っていたのですが、献花が行われる頃には雨もすっかりやみ、薄日が差し込みました。あの雨はきっと受難者の方々の涙だったのでしょう。ご遺族やご家族の方々が碑に刻まれた名前を指で愛おしそうになぞる姿が心に残りました。

 私はフィールドワークでこの場所には何度も来ていますが、関係者の方々と来たのは初めてでした。同時にここに住んでおられる方々から当時の話しもお聞きし、歴史の現場にいるという実感がしみじみ湧き起こりました。遺家族の方々を目の前にすると、悲しみは消えることはないのだと思い知らされます。

 

 

| | トラックバック (0)

2011年2月12日 (土)

地域の戦争を掘り起こす中国新聞

 私はよくブログで中国新聞を取り上げます。中国新聞の広島県内の普及率は51%を超え、市内では56%近くありますから、広島県民の生の声を聞くことと、ほとんど同じではないかと思っていますので、ご紹介させていただいています。中国新聞では読者向けに『ニュースの窓』という講座を設けています。記者の方がご自身の記事などについて説明するという内容の講座です。先週、この講座に参加してきました。戦争遺跡を取材された記者の方のお話しだったからです。

その記事は 『残影 太平洋戦争開戦70年』というタイトルで今年1月12日から18日まで第一部が朝刊に連載されました。宮島や倉橋島など私が行ったことのある場所も記事になっていましたので、とても興味深く拝読していました。

 記事を担当されたH記者は連載開始にあたっての気持ちを「太平洋戦争開戦の大きな流れは記事として書かれているが、地域のこととなると総括がないのではないか。文献など客観的なものも大事だが、今も当事者が生存されているので、生の声を聞きたいし、大切にしていきたいと思った」と話されました。文献を発掘しながら当時をひもといていこうと思い、取材を始めたそうです。

 実際に資料を集め取材を行いながら、かなりとまどったようです。施設の跡は見つけられても、実際にどのように使用されていたのか、その資料がはっきりしない。さらに証言者が見つからない。また証言者が見つかっても当時の記憶が定かではない。といった壁が立ちはだかるからです。

 「記事では‘見られる’という言葉を使い、まどろっこしい書き方しかできなかった。施設の資料を調べても地名や番地までは書いていないので、ほぼ間違いないであろうと思うが確信がない。関係者は見つからなかった」と苦渋の思いを語る記者の方の気持ちは、私自身も地下壕の関係者や資料を調べるにあたって同じ思いをしているだけに、とてもよく理解できます。

「話を聞いて勉強になった。どこにも書かれていなかった話も出てくるからだ。記録の重要性を実感した。このたびの記事は大きなキャンバスの1点だと思ってはいるが、しっかりと把握していくことが大事だと思っている」と、第二部、第三部の意気込みも話されていました。

会場は席がいっぱいになるほど大勢の方が参加され、戦争遺跡に対する関心の深さを知りました。また記事で取り上げている場所以外の戦争遺跡について会場の方から話が出るなど活発な意見もだされ、本当に今やらなければ埋もれてしまう歴史の危うさを感じました。正直なことをお話しすると、広島の方が戦争遺跡にこれほど関心があるとは思っていなかったので驚きました。映像で残しておくことの必要性と重要性を一層、痛感しました。

| | トラックバック (0)

2011年2月 1日 (火)

久しぶりの地下壕。びっくりの状態になっていました。

昨年秋からちょこちょこと広島県内にある戦争遺跡のフィールドワークに参加しています。先週の日曜日は数年ぶりに以前、行ったことのある地下壕に行きました。今回久しぶりに回り、地下壕の崩壊を目の当たりにしてショックでした。

 呉市にあるアレイからすこじまは潜水艦をまじかに見る事のできる場所として観光名所になっています。周辺には旧海軍時代のレンガの建物も残っており、戦争時、海軍の町として栄えていたことを肌で感じることのできる場所です。この日も潜水艦を数台見る事が出来ましたが、巨大な姿に恐ろしさを感じます。海上自衛隊の潜水艦や護衛艦が停泊している光景や、潜水艦に立ててある旭日旗に似た旗を見るたびに戦争は終結していないのではないかと思ってしまい、複雑な気持ちになります。

 この潜水艦を見下ろす高台に地下壕はあります。数年前に来た時には入口は狭いながらも入ることができました。地下壕の内部は崩落がひどく、かなり危険な感じでした。しかし地下壕の中から外の港の景色が見えたことを覚えています。今回、行って驚いたのは入り口がすっかり埋もれていたことです。人為的に埋め戻ししたとは考えにくい状態ですので、以前の内部の状態を考えても自然崩落ではないかと思われます。これを元に戻すのはかなり大変な作業になるでしょう。また一つ、貴重な戦争遺跡が無くなり、本当に残念です。

 さらに別の地下壕にも数年ぶりに行きました。ここは内部にはそう変化は見られなかったのですが、やはり入口が変わっていました。入ったとたん水浸しで泥が堆積し、数十メートルの間は長靴でないと歩きにくい状況になっていました。ここもいつ入ることができなくなるかわかりません。戦後65年以上たっているのですから当然といえば当然なのですが、貴重な戦争遺跡ですから自然崩壊を待つだけの状態というのは惜しい気がします。

 現在、保存・公開されている地下壕は全国的にそう多くはありません。広島県内には1つもありません。広島は地下壕が多い地域ですから、せめて2、3か所程度はどこかが保存公開してもいいのではないかと思います。負の遺産には間違いありませんが、地下壕に入るといかに戦争が無益なことをしているのか、戦争の虚しさを実感することができます。実際の現場に行くことは貴重で大事な経験です。本や映像では決して伝えきることのできない何かを感じることができます。軍都であった廣島の象徴として地下壕や軍事施設を残し、原爆ドームとともに戦争遺跡ツアーをすれば戦争の悲劇をより深く体験することができると思います。どなたか、ぜひ地下壕を残して下さい。

 

| | トラックバック (0)