多文化

広島の在日コリアンや多文化共生のことなど

2013年7月28日 (日)

広島にいる在日外国人たちの今~その③在日外国人の教育について考えるディスカッション

パネルディスカッションでは中国人の方、フィリピン人の方、在日コリアンの方が、それぞれ就学児童・生徒のいる立場から日本の教育について話されました。三者三様でしたが皆さん、日本に溶け込みながらも、住みづらさがあることを感じる内容でした。

中国人のTさんは、日本の平等教育について思うこととして、日本社会の安定には必要かもしれないが、世界のグローバル化に対応するには競争意識を持ったほうがいいということ。そして子どもの個性を伸ばす必要もある。自己を表現しない、自己主張しないのは日本だけなのではないか。世界に出た時、物足りないのではないかと問いかけました。「人に迷惑をかけるなもいいけれど、人の役に立つことを考えろと言いたい」という言葉が印象的でした。

フィリピン人のFさんは22年前、日本人男性と結婚し、当時はご主人しか頼る人はいませんでした。宗教がカトリックなので教会に行くとフィリピン人女性がいました。そこでグループを作りましょうとフィリピン人妻の会を作ったそうです。最近は中国人、韓国人、タイ人、インドネシア人、台湾人なども会に入っているといいます。コミュニティーセンターや公民館で、ファッションショーや料理などをしており、周囲の理解と協力を求めていました。

自分にとって日本は自分の国であり第二の祖国という在日コリアンのRさん。2世でとりたてて民族意識を持っていなかったのですが、お姉さんが朝鮮学校に入学してから、民族意識が生まれたといいます。「お互いが気持的に通じあい、理解しあうには自分たちだけの努力では無理。朝鮮学校は文化だと思うので、日本の人は来てみてほしい」と訴えていました。

 海外旅行ですら不便を感じる私にとって、外国で生きて行くことの大変さは想像を絶します。この方たちは日本に馴染もうと努力し、さらに同じ立場の方たちへのサポートもされています。すでに多くの外国籍の方々が日本を第二の故郷にしている今、災害時なども含め自治体でも対策を考えているようですが、まず隣人である私たちに必要なことは、共に暮らしていくという心構えなのではないかと思います。拒絶や排除の気持ちは「差別」という言動にもつながっていきかねないと思います。

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2013年7月23日 (火)

広島にいる在日外国人たちの今~その②在日外国人の教育について考える「基調報告」

 第二部の「在日外国人の教育について考える」では基調報告とディスカッションがありました。基調報告は広島国際学院大学の伊藤泰郎先生が「「広島市外国人市民意識調査・実態調査」の教育調査から」と題し報告をされました。そこから見えてきたものは広島に住む外国籍の方々の声なき声でした。

 

 調査対象の外国籍の方々は韓国・朝鮮、中国、フィリピン、アジア諸国、中米南米諸国、欧米系諸国とわけた分析が行われていました。「韓国・朝鮮」については、在日コリアンとそれ以外の人々、「中国」については、中国帰国者とそれ以外に分けて分析をされています。広島にも大勢の外国籍の方々がいることをあらためて思い知らされます。「子どもの教育で困っていること」は、国籍によって多少ばらつきがあるようでした。まず驚いたのは韓国・朝鮮のうち在日コリアンで困っていることの1位にあげられた「将来の就職」でした。在日コリアン以外の韓国・朝鮮の1位は「学費が高い・教材等の費用」です。これはオールドカマーとニューカマーに分けている数字ですが、オールドカマーが就職に関して今だに心配しているということにショックを受けました。差別が続いているせいなのかどうなのかは分かりませんが、この結果は重く受け止めなければいけないと感じました。同じく中国帰国者以外の中国とアジア諸国も「将来の就職」を1位にあげていました。進学と就職は深く結びついていますから、「どこの国で就職するか」「どこで生きていくか」を考えた時の戸惑いがでているような気がしました。その一方で欧米系諸国は1位「進学」2位「学費が高い」3位「勉強を手伝えない・教材等の費用」と勉強そのものへの心配があがっていました。アジア系諸国と欧米系諸国のこの差は日本に定住する外国籍の方々の将来の姿を現しているような気がしました。

 

「もしあれば利用したい制度や機会」として、韓国・朝鮮、中国、アジア諸国、中米南米諸国、欧米系諸国のいずれもが「あなたの国の言葉を子どもが学ぶところ」を上位にあげていました。フィリピンは「こどものための学校以外の学習教室」が上位でした。伊藤先生は「「困っていること」では中国帰国者の回答率が他よりもかなり高い。制度や機会についてはニューカマーの中ではフィリピンだけが「あなたの国の言葉を子どもが学ぶところ」が最上位になっていない。これは「母国の言葉や文化を学ばせたいか」という質問に対して、「どちらでもない」という回答が他より高いということと関係している。おそらく周囲(家族や親族など)が全て日本人なので、母国の言葉や文化を学ばせたいとはっきりとは言えない状況にある人が多いと考えられる」と分析されていました。

 

広島で朝鮮半島やアジア、中南米系といった国の言葉や文化を学ぶためには、場所はおろか機会すらほとんどないといっても言い過ぎではありません。滞在期間の長短に関わらず親が子どもに母国の言葉を知ってもらいたいと思うのは当然です。おじいちゃんやおばあちゃんと話せないのは切ないですし寂しいものです。そして何より親自身の存在がなくなってしまうような気になると思います。この数字は外国籍の方々の切実な願いが率直に現れていると感じました。

 

なぜこんなにも異文化を知る機会が少ないのか。そもそも日本人側の関心の度合いがどれほどなのかと考えます。外国人=よそ者扱い、もしくは「いずれいなくなる人」扱いをしているのではないでしょうか。外国人自らが機会を作ることはとても大変なことですから、同じ住民として私たちが考えていかなければならないと思います。例えば異文化理解のいい機会として、マンションや町内といった地域で率先して場所の提供を行い、住民たちを巻き込んでいけばいいのではないかと思います。せっかく異国の方がいるのですから、その文化に触れる機会をみすみす逃すのはもったいないと思うのです。異なる考えや文化に触れることで、新しい価値観や発想が生まれる可能性があります。古くから日本人は海外の文化をうまく取り入れて日本独自の文化を築き上げてきたではありませんか。「多文化共生は無理」という言葉を聞くことがあります。しかし在日コリアンの方たちが日本に暮らして長い年月が経ちます。フィリピンや中国の方々の子どもたちも大勢暮らしています。すでに日本人は多くの外国籍の方々と暮らしているのです。外国籍の方たちに関心を持つことが一歩なのだと感じました。



 



 

 

 

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2013年7月17日 (水)

広島にいる在日外国人たちの今~その①在日コリアン被爆者として生きる

先週は連休でしたが、いかがお過ごしでしたか。広島では週末といえば平和関連の集会が開かれていることが多々あります。時には集会が重なることもあり、どちらに行こうか迷うことも度々です。先月末、広島市内で「広島の「在日」を考える」集会がありました。そこで広島で暮らす外国人の調査報告や当事者の方たちから生の声を聞くことができました。内容が豊富だったので、数回に分けてご報告します。

 この「広島の「在日」を考える」集会は被爆した在日の経験を記憶し、広島に暮らす在日の声に耳を傾けることで、国際平和都市広島で共に生きることを目的に同実行委員会により2001年から年に1度、行われています。13回目の今回は第一部「在日コリアン被爆者として生きる」第二部「シンポジウム 在日外国人の教育について考える」の2部構成で開かれました。今回は第一部の被爆者証言をご紹介します。

 16歳で被爆したRさんは島根県生まれの在日コリアン2世。親は慶尚南道出身です。まだRさんが幼い頃、広島県に引っ越してきました。学校に入り、同級生からのいじめはありませんでしたが、大人が差別したといいます。鉄道の入社が決まった時のことです。学校の先生が鉄道の合格通知を見て、手紙をRさんに渡し「これをもっていけ」と言ったのだそうです。こっそり中身をみると「○○○(通称名)朝鮮人」と赤字で書かれていて、大変だと思ったRさんは書かれたものを消しゴムで消して、無事、鉄道に入社したのだそうです。差別は就職に影響を与えていたのです。以後、Rさんは在日コリアンとしてではなく、“日本人”として生きてきました。それは名前に現れています。去年、Rさんはピースボートに乗り、1年間にわたって被爆証言を行いました。それまで通名を使っていましたが、ピースボートに乗る際、初めて本名を使ったのだそうです。「ピースボートに乗ることで初めて自分の名前、自分の国に対して意識するようになった」とおっしゃいました。そしてピースボートでのRさんの証言を知ったアメリカのNGOが在日コリアンの苦労を聞きたいというので、アメリカで話をしたといいます。現在、証言活動に忙しい日々を送られているRさんにとっての契機は本名を名乗ることでした。今でこそ本名を名乗る方々も多くなってきましたが、大多数の方々は通称名です。なぜ通称名で生きてこなければならなかったのか。私たち日本人は今一度、考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

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2013年5月28日 (火)

広島で働く外国人を支援する方々の集まりに参加しました

 最近、広島市内で外国人の旅行客を見かけることが多くなった気がします。一時は姿を見なかった外国からのお客様が戻ってきたようです。ミシュランの広島版も出たようですし、これからさらに外国からのお客様が増えるかもしれません。一方で外国語教室や飲食店、工場などに働きに来られた、広島で生活する外国人も大勢いて、スーパーなどで買い物する姿が身近になっています。そんな中で4月に起きた江田島の牡蠣打ち場での殺傷事件は衝撃でした。犯人をそこまでかりたてたものは何だったのか、同じ地域に生きている者として気になります。

 今月19日、広島市内で「外国人技能実習生を支援する会」の定例会があり、参加してきました。同会は2年前に発足しました。直接、実習生を支援するのではなく、支援する団体や個人と連携を図り、後方活動をすることが目的です。広島や三次、呉など地域で活動されている弁護士や関心ある方々で構成されています。この日は昨年度の活動報告と実習生の方の自己紹介がありました。

 活動報告では未払い賃金やセクハラ関連の裁判について経過報告がありました。残業しても残業代が支払われない、上司によるセクハラ、閉じ込められたような状況での住まいなど、今どきそんなことがあるのかと耳を疑うような実態が伝えられました。こうした状況を聞いて参加された方の一人は「70年代、日本でも農村からきた人たちの就労問題があったのだが、話を聞いていると50年代の人権問題に戻っている」と驚きを禁じ得ない様子でした。

 江田島の事件については担当弁護士のうちのお一人が来られていました。「職場に中国人は彼一人しかいなかった。周りのほとんどが日本人で、事件の原因に孤独感があったのではないかと思う。こうした団体と接触があれば事件は防げた部分があるのではないかという印象だ」と話していました。

 集会に来られていた実習生の方々はほとんど日本語が話せないようでした。ある実習生は「仕事をしている時、毎日辛い気持だった。去年、支援者に会い支えてもらった。だから頑張ってこられた。社長たちからは酷い目にあわされたけれど、いい人に会った今はいい気持ちだ。感謝している。同じような境遇の人がいたら助けてくれることを望む」いいたい事がたくさんあって言いきれないと話していました。私たちの隣で苦しんでいる人がいる。知らなければいけないことは、まだまだ沢山あります。

 

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2013年2月13日 (水)

大事なことを忘れていました

 多文化共生シンポジウムで広島在住の外国の方が日本人にお願いしたいことを話されていました。そのことを前文でお伝えしていませんでしたので追加します。

 私の席の後ろに中国帰国者の方に日本語を教えている男性がおられました。日本語がとてもお上手だったので、最初は日本人かと思いました。その方は日本の会社で働いておられ「日本人の仕事はまじめだ」と感心されていました。そして「郷に入れば郷に従えという諺がありますが、自分たちもそのようにしたいのです。私が会う方達は何年たっても日本語が話せない人が多いのです。日本のことがわからないので、地域の皆さんから是非、声をかけてほしいのです。大きなお世話をしてほしいのです」と話されていました。

 福山市に住む台湾の方々が作りだすイベントが地域の新しい行事になっていくように、新しい方が来ることで地域に風が吹き、新たな文化が生まれると楽しいと思いませんか。またシンポジウムでは「日本人もやりづらいと思っていることを変えていかないとダメ。これからは自分たちが地域を作り上げていかなければいけない時期にきており、その流れの一つとしての多文化共生なのではないか。共に変化していくことが大事」という意見が出ていました。すでに日本には多くの外国の方が住んでいます。外国の方から学ぶことも必要な時期になってきているのではないかと思います。

 

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2013年2月12日 (火)

広島での多文化共生の実践例を聞いて

 あなたのご近所や職場に外国の方はいませんか?私の住んでいるマンションには以前は韓国、フィリピン、ブラジルなど色々な国の方が住んでいました。私は外国の方とお話しするのが大好きなのでエレベーターでお会いするのが楽しみでした。今は外国の方が少なくなり、すこしさみしい気がしています。先週の9日、広島市内で「多文化共生シンポジウム」が開かれ、県内で多文化共生を実践している地域や団体などの方々のお話がありました。

 福山市では災害時の対応に備えFMの多言語放送を行っています。災害時が目的とはいえ通常はその国の音楽を流したり、文化や地域情報などが盛り込まれている放送のようです。毎回、在住の外国人ゲストが登場するのだそうです。母国の最新曲なども紹介されているようですし、どんな話をするのか、聞きたくなりました。この放送の素晴らしいところは、このゲストが地域の外国人コミュニティの要となっているところです。例えば最近であれば台湾春節祭りといったイベントを外国人の方々自らが実施しているというのです。こうしたイベントに福山市民も大勢集まるといいます。地域のイベントとして定着しそうな感じです。

呉市の日本語教室では単に日本語を学ぶというだけではないようです。「皆の笑顔を見ると元気になる。色々な活動を通して普段、接することのない地元の人と交流することができる。住民の一人だと実感することができる。」という感想文を書くほど、広島での生活にとって欠かせない場となっているようです。  

安芸高田市は人口32000人弱のうち外国人は2%弱ですが、比率は年々増えているようです。地元の高校生が地域の外国人を調べ「日本語を教える人が少ない」「日本人で関わりを持つ人が少ない」「ボランティアとして手伝いたい」といった発見があったそうです。市では工業や商業、農業、外国籍市民で多文化共生プランを作り、議会に提案したといいます。どんな町づくりになるのかとても楽しみです。

 外国の方は生活する上で言葉の問題を始め、文化の違いなど様々な課題が出てくると思います。しかし町を歩いていて挨拶する人がいる、笑顔になる光景に出合える、心休まる風景などがあれば、どんな場所でも楽しく安心して暮らしていけるのではないでしょうか。直接、外国の方と触れ合う機会がないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私たち自身が楽しく暮らしていれば、外国の方も同じように安心して暮らせるのではないかと思います。そしてそれは他の地域からやってくる日本人でも同じだと思います。広島は山もあり海もあり、市内中心部でも川辺の風景が美しいいい町です。今住んでいる方もこれから住む方も一緒にいい町にしていきましょう。

 

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2012年12月19日 (水)

美味しい季節到来!広島のキムジャン。

正直、日曜日の選挙結果に驚きました。一つの党があれほどの議席を獲得するとは思いもしませんでした。そして今日は韓国の大統領選です。どういう結果になるのでしょうか。今後の日韓関係はどうなっていくのでしょう。是非、前向きな方向に進んでほしいと願っています。

話はぐっと柔らかくなりますが、この時期、ありがたいことにキムチをいただく機会が増えます。韓国ではキムジャンと言って、一年分のキムチをこの時期に漬けこむのだそうです。昔はキムジャン手当も出たといいますから、韓国の方にとってキムチは必需品だったのでしょうね。残念なことに今、都会ではキムチを作る人が少なくなっているという話を聞いたことがあります。しかし広島の在日コリアンの方々の中で、キムジャンは今でも健在。知り合いの方々はちょうど今頃、キムチを大量に漬けこみ、私にまでおこぼれが回ってくるのです。ある方は15キロ入りのキャベツの箱を7つ買ったと話しておられました。ちなみにその方は一人暮らしです。私がお伺いした時にはすでにかなりのキムチが配られた後でした。今年は3か所から4つの味のキムチが集まりました。それぞれ味が異なっていて、本当にどれも美味しいのです。

以前、私もキムチ作りに挑戦したことがあったのですが、水っぽくなってしまい、今ひとつ美味しくできませんでした。以前、韓国のハルモニ(おばあさん)の「日本の白菜は水っぽくて美味しくないし、韓国の梨がなければ美味しいキムチを作ることができない」というこだわりを聞いたことがあります。また韓国のトウガラシの種を日本で植えても辛くなってしまい、甘さがでないという話も聞いたことがあります。

しかし、そうしたある意味ハンディのある中で作る在日の方々のキムチは韓国のキムチに負けないほど美味しいと思います。キムチは家庭料理なので味が違っていて当たり前なのですが、よく韓国の方がいう「ソンマッ(手の味)」なのでしょう。その家の伝統やオモニ(母親)の愛が日本生まれの美味しいキムチを生みだしています。来年は作り方を教えていただこうかなと思っています。

 

 

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2011年6月 8日 (水)

震災支援、在日外国人の方々も応援してくれていました。

「大震災は大変だったけれど、平和だから外国からの支援も来るのよ。戦争中だったら支援なんかこない。つくづつ平和は大事だと思うわ」。神戸で出会った在日華僑の女性の言葉です。戦時中に中国から日本に渡って来られ、空襲や阪神大震災にも遭われ、苦労された方だからこその言葉だと感じました。確かにこの方がおっしゃる通り、もし日本が現在どこかの国と戦争をしていたなら、あんなに多くの国々からの支援はなかったでしょう。‘平和(戦争をしていないということ)’が持つ本当の意味や意義を私は理解していなかったことに気づかされました。また多くの義援金や物資、人的協力がすぐに集まったのは政治的な理由だけではなく、民間人同士の、一人ひとりの交流がもたらしたものであったと私は思っています。 ‘平和’の尊さは、難局の時に大きく現れてくるのかもしれないとも感じています。

今回の大震災に対して、私自身はまだ募金ということしかできていません。しかし、日本に住む外国人の方々は震災後からすぐに行動を起こしていました。‘日本にお世話になっているのだから’という理由で、自分たちのコミュニティネットワークを駆使して東北にかけつけていたのです。先月末に横浜市で開催されたKIF主催の「神奈川の外国人コミュニティのこれから」では日本在住のネパール人、ベトナム人、日系人の方々による東北支援の様子が報告されていました。いずれも義援金だけではなく、炊き出しやタオルなどの物資支援などを行っていたのです。あるインドシナ難民のお年寄りは生活保護費をもらったその日に、「自分は何もできないから」と1万円を義援金として寄付したそうです。震災前は生活保護の相談が多いのだけれど、震災後はボランティアをしたいという人が増えたなど、こうした報告を聞き、日本に住む外国人の方々も日本を思ってくれているのだ、共に生きる方々なのだということを改めて知ることができ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。それと同時に自分にも何かできるかもしれない、へこたれていてはいけないという気持ちにもなりました。

復興には数多くの難題を乗り越えなければいけませんが、日本を助けてくれる外国人の方々が日本に大勢おり、世界中にもいるということを知ったことは日本に住む私たちには大きな力となります。応援してくれ、共に歩んでくれる方々がいるのですから、この難局を乗り切ることは可能だと思います。

 

 

 

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2011年4月15日 (金)

ある在日人権活動家の死を悼んで。

去る324日、親しくしていた在日のOさんが逝去されました。以前のブログに書いたインタビューをしていた在日2世の方です。大震災の混乱の最中で、連日の悲惨な報道に心がつぶされそうな時期での訃報に茫然としました。とてもとてもショックでした。大きな何かが無くなった気がしました。

実は入院中に毎日のように病院に行き、インタビューを撮影していました。日に日に弱って行く姿に、私の気持ちを見せてはいけないと笑顔しか向けませんでしたが、次第に声が小さくなっていく様子に私の方が耐えられなくなり「少し元気になってから、また来ますから」と言ったことも1度や2度ではありませんでした。しかしOさんは許してくれませんでした。「逆に悪いなあと思っている。自分は人と話すことで少しは気も紛れるからいいよ」と、か細い声で笑うのです。私はその言葉に促されるままにインタビューを続けました。

最後に会ったのは亡くなる1週間ほど前のことでした。病院に行く2日前にOさんから電話がかかってきたのです。見舞いの催促でした。地震や原発事故のことなど、かなり声はか細くなってはいましたが、いつも通り辛口批評家のOさんでした。

そして、その2日後に会った時、私は目を疑いました。その姿は私の知るOさんではなかったからです。私と話した翌日、容体が急変したとのことでした。Oさんと懇意の新聞記者のご夫婦と3人で行ったのですが、この時は会話も難しい状態でした。

意識も朦朧としているだろう状態でOさんは、新聞記者の方に「わしは海田の生まれじゃそうな、・・・」と出生を語りだしました。しかしその後に続く言葉は、その場にいた誰もが理解できませんでした。私はうわごとだと思いました。しかし後日、新聞記者の方のOさん追悼記事が新聞に掲載され、その言葉に意味があったであろうことを思い知らされ、襟を正しました。「あの「うわごと」には長い続きがあっただろう。語り尽くせなかったことをどうたどれるか。遺言と受け取っている。」と締めくくられていたからです。私は思い出しました。その新聞記者の方は言葉にならない言葉を聞きながら、Oさんの手をとってこう答えたのです。「うん。分かった。言いたいことは伝わった」と。

民族差別撤廃のために闘ったOさんは生前「僕の運動は中学から始まった」と言いました。それから亡くなる53歳までの長い長い間、様々な人と結びつき、また人と人を結び付けながら窮屈な日本の社会に風穴を開けてきました。指紋押捺拒否運動や人権に関することなどの講演活動、朝鮮半島と広島をめぐるフィールドワークとその活動は日本人にも在日の方々にも大きな刺激となりました。私個人としてもOさんがいたから、広島が持つ様々な歴史の側面や在日の方々の思いを知ることができました。私のような者にまで色々教えて下さったのは、Oさんの日本に対する思いだったように思います。Oさんは日本の社会をつくっていくことに全力をかけた方です。それは在日も日本人も関係ありません。「自由は自分でつかみとるもの」という信念で動いてきたのです。大震災の後の今だからこそ、日本の社会をどうつくっていくかを考える必要があります。日本に住む私たちが、これからやらなければいけない仕事はとても大きいものですが、Oさんから教わったことを糧にこれからの日本社会をつくっていかなければいけないと思っています。

さよならは言いません。ゆっくり休んでくださいともいいません。まだまだOさんにはしてもらわなければいけないことがあるからです。でも、これだけは言わせてください。 

Oさん、ありがとうございました。

 

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2011年2月24日 (木)

在日コリアン2世が語る広島を聞きとっています。

人の思いというのは、何十年経っても簡単には消えず、むしろ時間によってさらに増幅されるのかもしれないと思います。今週から在日コリアン2世のOさんに昔話しをお聞きしています。

Oさんとは8年くらいの付き合いで、フィールドワークなども一緒に行っている間柄です。Oさんのご両親は韓国の陜川出身。ご自身は広島で生まれています。若い頃から人権活動をされ、広島市内はもとより県内の朝鮮半島関連の遺跡などを調査しているため、私は知りたいことがあるとOさんを訪ねていました。しかしOさんご自身のこととなるとお聞きする機会がなかったため、一度きちんとインタビューしなければと思い、ようやく実現したのです。

Oさんのご両親のこと、ご自身のことなど時代を追ってお聞きしているのですが、なかなか前に進みません。一つ聞くと、それに関連してまた質問が出るといった状況だからです。戦前、戦後の在日コリアンの方々の本や資料などは多少なりとも読んでおり、お聞きしてもいるのですが、話をしながら分からない事が次々に出てきます。そして新たに知ることも出てきます。もちろん、本や資料などに書いてあることと同じような事もあり、それはそれで納得します。時折、うっすら涙を浮かべながら話される姿は、私が知っているいつもの明るいOさんではありません。昔話しではありますが、気持ちは過去のものではないということをOさんの潤んだ瞳が物語っています。楽しい過去も悲しい過去も苦しい過去もありますが、思いは今も変わらないのです。これから、まだまだインタビューは続きます。

 

 

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