広島から

広島での集会、イベント、広島で起こった出来事など広島から見たこと

2018年4月28日 (土)

4.26チェルノブイリデー座り込みに参加して

 チェルノブイリ原発事故が起きたのは1986年4月26日でした。その時の世界の驚きと恐怖は今でも覚えています。遠く離れた日本でも食品汚染などに敏感になっていたように思います。チェルノブイリ原発事故が起きた翌年から広島では原爆慰霊碑前で座り込み行動をしていたそうです。「核と人類は共存できない」として、被爆者を始めとする市民が訴え続けていたのです。この度、私も座り込みに参加しました。ヒバクシャは原爆被害者だけではないからです。

 

 座り込み行動は4月26日の午後1215分から30分間、平和公園の原爆慰霊碑前で行われました。暑い日差しの中、80人以上が参加しました。存知あげている方も初めてお見受けする方もいらっしゃいましたが、これほど多くの方が参加されているのかと思いました。そして座り込み行動を取材するマスコミの数が多いのにも驚きました。広島ではチェルノブイリ原発は過去の出来事ではないのです。

 

そもそも慰霊碑前の座り込み行動は学者で平和活動家の森滝市郎先生が始められたものです。森滝先生は被爆者で核兵器廃絶に尽力された日本の反核運動の先駆者です。森滝先生は非暴力の抗議として座り込みという行動をとり、「ヒロシマの心」として運動家の間に広がりました。この森滝先生の意思に賛同し継いだ方々が今日の座り込みを行っています。

 

この度の座り込み行動で「原発事故は新たなヒバクシャを作る。人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被った私たちヒロシマは、放射線被害の恐ろしさを最もよく知っている。原発の再稼働・新増設を許してはならない」とアピールが行われました。

おりしも修学旅行生が大勢来広していました。この座り込み行動も見ていました。声高に叫ぶことのない静かな抗議行動の意味を十分に感じ取ってくれたのではないかと思いました。非暴力の沈黙の抗議が持つ大きな力を心に刻んだ30分間となりました。

 

 

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2018年2月 6日 (火)

ヒロシマの怒り

今朝の中国新聞の社説は怒りに満ちたものでした。アメリカのトランプ政権が打ち出した核戦略見直し(NPR)に対し、日本政府が『「拡大抑止力が強化される」と歓迎した。(中国新聞2018年2月6日)』ということのためです。米国の小型核兵器開発は『抑止どころか、核使用のハードルを下げるだけであり、とんでもないことだ。(中国新聞2018年2月6日)』と怒りをあらわにしていました。  

 

戦争を放棄し非核三原則を掲げている日本の、新たな核兵器開発容認ともとれる対応に中国新聞の怒りの社説は当然のことだと思います。広島と長崎はたった1発の原爆で都市が消滅し、同年に合わせて20数万人の死亡者が出ました。地獄のような惨劇から生き残った被爆者は苦しみが今もなお続いています。私は被爆地に来て初めて原爆被害の実態を知りました。被爆者の平均年齢は82歳くらいですから、被爆時は10歳にも満たない子供でした。子供たちは70年以上、悲しみとトラウマの中、頑張って生き続けてきました。同時に被爆者は同じ苦しみを味わってほしくないと現在まで核廃絶を訴えてきたのです。それなのにどうして、というのが被爆地での素直でまっとうな反応だと思います。

 

中国新聞が広島の被爆者や市民の声を代弁しているというのを言いすぎとは思いません。中国新聞は毎日のように核兵器や米軍基地、被爆者を取り上げ、その問題点や課題などを被爆者や市民という被害者や弱者の目線で伝えているからです。原爆の被害を広島と長崎の二か所も受けた日本は核兵器被害の苦痛を忘れてしまったのでしょうか。日本国民のみならず植民地や外国の方たちに被害をもたらした核兵器の恐怖と非人道性を日本政府はいつ世界に伝えるのでしょうか。

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2018年1月12日 (金)

2018年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

折り鶴といえば世界的に平和のシンボルとなりましたが、恐らく広島発ではないかと思います。被爆した佐々木貞子さんが病気回復の願いを込めて作ったのが折り鶴でした。残念ながら佐々木貞子さんは亡くなりましたが、折り鶴は平和のシンボルとなったのです。広島の平和記念公園には折り鶴があちこちに飾られています。これは世界中の方々が戦争で亡くなった方への鎮魂の気持ちと平和を願って一つひとつ折ったものです。私は平和記念公園に来て初めてこれらの折り鶴を見た時、その数の多さに驚きました。そしてこの折り鶴はどこに収められているのだろうと思いました。「原爆の子の像」だけで年間約1,000万羽、10トン以上にも上る折り鶴があるそうですから、その扱いも大変なものだと思います。

 

以前はこの折り鶴は焼却処分されていたといいます。しかし再生利用できないかという声があがり、広島市は「折り鶴に託された思いを昇華させるための方策」として2011年から検討を始めました。広く市民からアイデアを募集し、現在まで様々な活用を行っています。現在まで、8月6日に行われる灯篭流しに使われる色紙への再生や折り鶴モザイクアート、展示など多様な方法で人々に活用され、多くの人々の目に触れられています。平和を希求する人々の思いが形となっているのです。

 

昨日、この折り鶴の新しい利用がニュースになりました。県中小企業家同友会の有志が再生紙を使ってノートを作り、海外の子どもたちに無償提供するというのです。すでに3ケ国から申し込みがあるようです。ノートには原爆の子の像のモデルとなった佐々木貞子さんの紹介や被爆直後の市内の様子も掲載されているといいます。原爆の恐ろしさと平和の尊さがノートを手に取った子どもたちに伝わるのです。ノートには折り紙が1枚入っているといいます。折り鶴が作れるように図入りで折り方が解説されているそうです。2018年が戦争のない平和な年になるよう折り鶴は世界に羽ばたこうとしています。

 

 

 

 

 

 

 

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2017年10月12日 (木)

ノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞!

「不断の努力を続けてきた数百万の活動家たち、そして広島と長崎、世界各地の実験場のヒバクシャたちへの賛辞だ。(中国新聞107日)」ICANのフィン事務局長の言葉が世界のヒバクシャたちに希望と勇気を与えました。

すでに御承知のように本年度のノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞しました。広島では大きな話題になり、被爆者の方たちや長年にわたって平和活動をされてきた方々から喜びの声があがりました。今回は中国新聞の記事を中心にご紹介し、広島の願いが世界に届いた瞬間の熱気をお伝えします。

ノーベル平和賞受賞後の翌107日の中国新聞は1面からノーベル賞の話題であふれました。全35ページ中7ページにノーベル賞関連の記事が掲載されていました。1面のタイトルは「ノーベル平和賞ICAN 核兵器禁止条約に貢献 国際NGO広島・長崎と連携」です。受賞の理由や県被団協の声などが載っていました。同時に松井広島市長と湯崎広島県知事から核兵器禁止条約発効の期待も述べられていました。

23面は「非人道性世界が共有 条約見参加 政府に圧力 「核の傘」転換促す」のタイトルで、核兵器禁止条約に対する受賞者の声と、日本政府や米政府の反応が比較されていました。『「世界の緊張が高まる今こそ、各国が核兵器反対を明確に宣言すべきだ」』というICANの声とともに、日本政府の『「反核の世論が高まり、日本政府は対応を考えることにはなるだろう」』というコメントは核兵器禁止条約への機運の高まりを感じさせる内容でした。

「授賞理由の要旨」と「ICANと核兵器禁止条約実現への歩み」が掲載された10面は平和賞としての基本的な理念が示されていました。受賞理由の中に『「一、核なき世界実現に向けた次の一歩を踏み出すには、核兵器保有国の参加が不可欠ということを強調したい。核保有国には、核兵器削減に向けた真剣な交渉を始めるよう求める。」』という一文があり、この受賞は栄誉を称えるためだけのものではなく、人類が未来に向かって行動するためのものでもあることが分かりました。11面の受賞者や識者のコメントからは核兵器廃絶へ向けた新たな決意が伝わり、受賞して終わりではなく世界が核廃絶へ踏み出す第一歩なのだということを感じさせる内容になっていました。

最終ページに近い社会面の3233面は受賞の喜びを分かち合う広島市民の様子が掲載されていました。『「ヒロシマにも勇気 被団協など歓迎 市民ら国際的うねり期待」「市民の力共感広がる 禁止条約連携促す 広島の加盟団体喜び 「活動進める励みになる」」』のタイトルはこれまで“ヒロシマの心”として反核・平和を叫び続けてきた広島市民の思いがあふれていました。広島平和文化センター理事長だったスティーブン・リーパーさんの『「広島をはじめ日本国内に住む人たちが核の問題を考え、核の傘に入る日本政府の姿勢に怒りが沸くよう意識を変えないといけない」』というコメントは核兵器に対して、私たち一人一人が考えていかなければいけない問題なのだということを教えてくれました。この度の平和賞受賞は私たち自身への大きな問いかけなのかもしれません。

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2017年9月30日 (土)

無言館の画家たちが語るもの

皆さんは無言館をご存知ですか?無言館は長野県上田市にある美術館で、1997年に開館しました。ここには戦争のため画家になる夢を叶えることができなかった美術家たちの作品が日本各地から収集され展示されています。先日、呉市立美術館で開催されている「無言館 遺された絵画展」を見てきました。呉市立美術館には無言館から約130点の絵画や遺品が寄せられています。作者は北海道から九州まで様々な出身地で中には朝鮮出身者もいました。戦時中、呉市は戦艦大和など多くの軍艦を建造した軍港を抱え、日本でも有数の海軍工廠のまちでした。広島市内にある宇品港は海外派兵の拠点でした。広島は戦時中、多くの兵隊となった若者が集まる場所でした。そう考えると、今回の絵画展は作者たちが再び広島に戻ってきたといえるかもしれません。私は無言館のことを知らず、正直なことを言うと、戦争で亡くなっていった若者の作品をみるのは少し辛いなあと思っていました。しかし見終わって行ってよかったと思いました。

作品は美術館の1階と2階の部屋を使用して展示されていました。絵画と共に作者一人一人のプロフィールと召集年時や最後の場所、どのような理由で亡くなっていったのかなどが丁寧に説明されていました。見終わると絵画を鑑賞するというのではなく、作者一人一人の人生を描いた映画や小説を鑑賞したような気持ちになりました。若く才能豊かで絵画をこよなく愛する若者たち。この表現が決して誇張ではないのが、殆どが今の美大にあたる学校の学生であったり、絵画教師であったり、広告など商業分野でその腕を発揮していた方たちばかりだからです。作品はどれも見ごたえがありました。特に召集前夜に描かれた絵や家族を描いた絵には悲しみや、その奥の奥にある静かな怒りを感じずにはおれませんでした。

展示の中には広島出身の作家もいました。宇品で出港を待っている時に被爆した手島守之輔の作品が一部屋を使い特別展示されていました。手島は竹原に生まれ東京の美術学校をでたあと、地元に戻り教師をしていた際に召集されました。優しく穏やかな絵が多い中、暗い色で描かれた自画像はまるで自身の行く末を暗示するようでした。

戦争がどれだけ多くの芸術家の将来を奪い、人類の遺産となったかもしれない傑作の誕生をつぶしたのか。無言館の作品は戦争の無意味さを痛感させます。「あと10分、あと5分でいいから描かせてくれ」と筆を握っていた芸術家たちの命を私たちはどのようにつないでいくのか。それは平和しかありません。いつか、長野県にある無言館に行きたいと思っています。無言館の絵画展は1119日まで、呉市立美術館で開催されています。

 

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2017年8月20日 (日)

今年の8月6日の過ごし方

 被爆72年目のヒロシマの86日は暑さが私たちを迎えました。6日の広島市の最低気温は29度。原爆が落とされた日の朝の気温は27度くらいだったようですから、2度ほど暑いようです。私も朝から動いていたのですが、知り合いに会うたびに「暑いですね」という挨拶を交わしました。平和祈念式典に参列された方々もお体が大変だったと思います。お疲れ様でございました。毎年のこととはいえ85日と6日はどこに行こうか困ってしまいます。集会が多く時間も重複しているからです。私の今年の86の過ごし方をご紹介します。

まず5日は早朝から平和公園周辺を撮影し、10時から開催される韓国人原爆犠牲者慰霊祭を撮影しました。午後からは原水禁世界大会広島大会の被爆二世の分科会に参加。分科会が終わると同時に「86ヒロシマ平和へのつどい2017」に移動し、記念講演などを聴きました。帰宅後は撮影した映像のバックアップを行いました。バックアップには結構時間がかかります。2時間程度かけて終わり、ようやくこの日の作業は終了です。

 翌6日は朝から「グラウンド・ゼロのつどい」や「追悼のダイイン」、原爆ドーム周辺を撮影し、その後は山口の被爆二世の会が行っている「86広島青空式典」に参加、撮影もしました。午後からは放射線影響研究所のオープンハウスに行き、閉館時間の4時までじっくり見学を行いました。

 今年は気温だけではなく、運動団体の活動も熱気に満ちていたように感じます。「86ヒロシマ平和へのつどい2017」の記念講演は日本を代表する社会運動家で政治評論家の武藤一羊氏が行いました。広い会場には全国各地から様々な方が集まり、熱心に聞き入っていました。武藤氏がこれからの日本について「日本社会が社会的に自立性を持った時、多民族社会はいいことだと認めるようになる。大陸や半島が開かれる状況を作っていくと面白い」と述べていた言葉が印象に残りました。

 また被爆二世の会のチラシを配っていた時のことです。チラシを受け取られた一人の男性が被爆二世に強い関心を寄せました。聞くとご自身は入市被爆者だけれど被爆者手帳を持っていないということでした。その方の周囲には被爆二世もおられ、やはり健康面での不安をお持ちのようでした。二世の運動を全面的に応援していると力強い言葉をかけてくださいました。被爆二世のチラシは通行人に配っていたのですが、あっという間になくなってしまいました。皆さんの関心が被爆二世にも向いていることを信じたくなる出来事でした。

 ざっとですが、だいたい毎年このような感じで過ごしています。今年は陜川の原爆資料館が開館するということで、そちらにも行きたい気持ちはあったのですが体は一つ。陜川へは折を見つけて行くことにしました。今年の広島市長の平和宣言では日本政府に対し「日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と強く要望しました。今年の平和宣言には心なしか被爆体験を多く盛り込んでいたような気がします。被爆者は、ヒロシマは72年経っても原爆投下の悲劇を忘れることはありません。そして私たちは原爆を過去のものにしてはいけないのです。

 

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2017年4月25日 (火)

広島平和記念資料館東館が明日、リニューアルオープンします

明日、広島平和記念資料館東館がリニューアルオープンします。一足早く、24日の内覧会に行ってきましたので、どのような展示だったのかご紹介します。

まず目を引いたのが「ホワイトパノラマ」です。被爆前と後の光景をCGで映していく映像はリアリティがあり、86日に何が起こったのかを目の前に再現してくれます。広島市内を上空から見ているため、爆発の瞬間は吸い込まれそうになります。わずか2分弱の映像時間に原爆の破壊力がいかにすごかったかが凝縮されていました。

今までと大きく変わったのは「メディアセンター」というタッチパネル式の検索画面があることです。2、3階の各階にタッチパネル画面があり、様々なテーマで情報を探すことができます。文字や写真のみならず動画もあり、ほとんど見ることのない昔の広島の動く風景が見られます。

在韓被爆者関連の展示で言えば「広島の歩み」のコーナーに、三菱徴用工の写真パネルが展示されていました。またメディアセンターで「戦時下の広島」や「被爆者と援護」の中に朝鮮人被爆者についての記述がありました。以前と比較すると在韓被爆者に関する記述が少ないように感じました。

全体的な感想は、洗練された博物館のようでした。原爆を実際に受けたら人間がどれくらいの血を流し体もボロボロになるのか、被爆者が受けた生身の体験を感じるところがなかったのが残念でした。また展示パネルの文字が小さく読みづらさを感じました。タッチパネルではワードでの検索機能がないため、在韓被爆者関連、朝鮮人被爆者関連の項目を探すのに苦労しました。検索ボックスまでとは言いませんが五十音順の検索項目を作ってほしいところです。

被爆直後の人形(被爆再現人形)は今日で役目を終えるそうです。撤去に関しては賛否両論あり、残すよう市民から強く要望があったのも事実です。一緒に内覧会に参加した被爆者の方が「人形はあった方がよかった。私は子供たちに証言する時「実際はあの人形よりひどかったんだよ」と話していた。あれがなければ実感としてわかりづらいのではないか」と言っておられました。原爆で町や行政機能などに被害がでましたが、やはり一番の被害は人間です。人間がどんな状況になったのか、生身に何が起こったのかを分かりやすく伝えなければ、原爆の恐ろしさや非人道性を実感することは難しいのではないかと思います。

 

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2017年1月30日 (月)

ネバダデーの座り込み

去る1月27日は「1.27ネバダデー」で、平和記念公園で座り込みが行われました。私は遅れて行ったため、直接参加することはできなかったのですが、間近にいさせていただきました。

 そもそもこの運動は1951127日にアメリカ・ネバダ州の核実験場で初めて核実験が実施され、全米各地で反核集会が行われたことがきっかけでした。イギリスやカナダ、マーシャル諸島などとともに日本にも伝わり、「ネバダ・デー・国際共同行動日」として世界各地で反核運動の取り組みが行われました。広島では広島県原水禁が平和公園の原爆慰霊碑前で座り込みをしています。

この日、原爆慰霊碑前には被爆者や被爆二世など趣旨に賛同した60人近くが集まりました。平和記念公園は原爆で犠牲になった方々が眠る場所です。犠牲となった方々と共にという思いで座り込みをしているのです。目に見える人数は60人ですが、背後に何万人という原爆犠牲者がいるのです。座り込みでは1.27ネバダ・デー核実験全面禁止 核兵器廃絶を求める市民行動」の横断幕が掲げられました。雲がかかり風が吹く寒空の元での30分ほどの座り込み行動は決して楽なものではありませんが、沈黙の中に一人一人の熱い思いがあふれている気がしました。

ヒロシマからのアピールは

・ネバダ核実験場を閉鎖させよう

・例外なき核実験全面禁止・核兵器禁止条例を実現しよう

・東北アジアの非核地帯と非核三原則の法制化を実現しよう

・世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう

・原発の再稼働、新増設に反対し、核に頼らないエネルギーに転換しよう

・ノーモノアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモア ウォー

です。これはヒロシマの心です。

終了後、参加された方は「雨が降らなくてよかった」と少しほっとされていました。雨が降っても風が強くても寒くても毎年、原爆慰霊碑前で行われます。世界中から核がなくなるまで、被爆地ヒロシマからアピールは続けられるのです。

 

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2016年8月22日 (月)

平和に向けて~被爆三世の写真展

 この夏、被爆三世の姿を撮影した写真展を見てきました。被爆者に続く「生」の存在である被爆三世は被爆者にとっての希望、平和の象徴です。どのような写真なのか見たいと思っていた矢先に知人が行くというので付いて行きました。電停を降りたすぐ前に新しいビルがあり、その1階で展示が行われていました。おしゃれな空間で写真家や書道家たちが「被爆三世」をテーマに写真、書、映像作品と様々な形で表現していました。展示された写真には笑顔があふれ、写真と並んだタイポグラフィのような書はとても素敵でした。テーマを知らなければ家族の微笑ましいスナップ写真展のようです。

 写真は広島に住む写真家・堂畝紘子さんという方の作品で昨年から被爆三世の写真展を実施していました。学生時代から平和活動に関心を持ち、広島と長崎の原爆の日、沖縄の慰霊の日には毎年、参加されているそうです。平和のために何かできないかと写真の題材を探している時、見つけたのが被爆三世だったといいます。きっかけは堂畝さんの友人が被爆三世で「自分を撮ったらどうか」と提案されたことでした。

 「最初は被爆三世でもない自分が撮影することに躊躇しましたが、お願いすると意外にすんなり撮影に応じていただけました。中には親御さんに反対された方もいましたが、皆さんこだわりはありませんでした」。人づてに紹介してもらい写真が増えていったといいます。普通のスナップショットを心がけているという堂畝さんの肩ひじ張らない姿勢が、被爆三世たちの心をほぐしたのだと思います。自然な家族写真は平和そのものです。添えられている被爆証言に過去と現在が対比され、平和の尊さが伝わってきます。

「昨年の1回目の写真展では非難を受けショックを受けたこともありましたが、活動をやめようとは思いませんでした。昨年は写真展示だけでしたので、今年は被爆証言を入れました。原稿用紙に何枚も書いてくださったお婆さんもおられました。長い文章ですが来場された方の大部分はじっくりと読んでくださいます。来年はもっと違った形でやりたい」と次回への意欲を話されていました。

広島県内の学校では平和学習という科目があり、小学校から高校まで平和について様々な形で学んでいきます。堂畝さんも平和学習を受け、現在の活動に繋がっています。広島では色々な形で様々な方が平和活動をされていますので、是非、探してみてください。きっといい出会いがあります。 

 

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2016年8月20日 (土)

原爆投下から71年目の8月6日断章

暑い日でした

蝉すら暑さにまいっていたようでした

いつもはあまりの数の多さにうるさいと感じる蝉の声が

今年は気にならないほどでした

 

アメリカのオバマ大統領が来広したせいでしょうか

多くの外国人が平和公園に足を運んでくれました

そして公園内を歩き、資料館を訪れ、原爆について考えてくれました

 

原爆を「絶対悪」と表現し、オバマ大統領の言葉を引用した

広島市長の平和宣言が行われました

 

核のない世界を

 

被爆者の思いが込められた宣言は

それぞれの思いに呼応し

白鳩と共に真夏の青空に広がっていきました

(世界中に届け)

 

被爆の語り

それは被爆者にとってあまりに残酷なことです

しかし戦争を止めるために、日本が戦争を始めないようにするために

被爆者は原爆後障害の体で涙を流し、自らの心を痛めても

原爆の体験を語り続けてきました

 

被爆の継承

それは過去を振り返ることではなく平和な未来を作ることだと

被爆者は考えています

 

被爆の継承

それは被爆二世三世の方々の肉親の物語であると同時に、

日本人の物語、人類の物語であると私は思っています

忘れてはいけない残酷な戦争の真実です

(世界中に届け)

 

今年も放射能影響研究所に行ってきました

今も続く被爆者の調査は二世にも引き継がれ

原爆の影響について最新の研究がなされています

原爆は投下だけでは終わらなかったのです

(世界中に届け)

 

当時2発だった原爆は威力を増し

71年経った今、1万5千発を超える数になっています

一人でも多くの日本人が広島、長崎に来ますように

世界中の人が広島、長崎に来ますように

 残忍でむごく、おぞましい被爆の実相をその心に・・・・

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