広島から

広島での集会、イベント、広島で起こった出来事など広島から見たこと

2021年1月26日 (火)

核兵器禁止条約が発効されました。시작이 반이다(始まりは半分)!

 2021年1月22日に核兵器禁止条約が発効されました。世界はいよいよ本格的な核兵器廃絶への道を歩み始めました。翌23日、地元紙である中国新聞では1面トップ記事で扱い、2面から4面までと、24面、28面、29面と大きな段組で関連記事が掲載されました。コロナ禍で集会などが中止になっているさなかですが、市内では条約発効の喜びにわく被爆者や市民団体の姿がありました。記念パレードや平和の集い、キャンドル集会、被爆者の映画公開など、コロナウイルス感染症に配慮しながらも広島の人々は思いを分かち合いました。また広島市長や広島県知事もメッセージを寄せ、広島の思いを訴えたのです。22日の各局のテレビ番組でも特集が組まれていました。被爆者はまさか自分が生きている間にこのような日が来るとは思わなかったと話していました。被爆から76年、広島にとって大きな喜びに満ちた日となったのです。

 中国新聞には条約の全文が掲載されていました。前文は特に読みごたえがありました。世界で運動してきた被爆者たちの役割がいかに大きかったかが伝わるものでした。被爆者の苦しみや、被爆者が長年にわたって核兵器廃絶に向けて闘ってきた成果が盛り込まれたのです。条約により被爆者はヒバクシャとなり、世界の共通語となりました。被爆者の思いが世界中に広がり、そしてこれからも広がるのだと感じました。その部分を一部抜粋します。

 

「核兵器廃絶への呼び掛けでも明らかなように、人道の原則を推進する市民の良心が果たす役割を強調する。国連や国際赤十字・赤新月運動、その他の国際・地域の機構、非政府組織、宗教指導者、国会議員、学会ならびにヒバクシャによる目標達成への努力を認識する。」

 

 条約発効でも世界中から核兵器を失くすには長く困難な道のりが待っているでしょう。しかし韓国には「시작이 반이다(始まりは半分)」という諺があります。「何かを始めたらそれは半分成し遂げたと同じこと」という意味です。核兵器禁止条約の発効はまさに核兵器廃絶の道筋をつけました。今はまだまだ細い道ですが、いつか王道になる日が来ると信じています。現在、批准した国は51の国と地域です。日本政府はこの条約に批准し、世界の国々、特に核保有国に対して核兵器は二度と使わせないという強い意志を表すことが始まりだと思います。核兵器は国民が持つものではありません。私たち国民は国が核兵器をもたないよう、核の傘に守られるという矛盾がないよう、これからも政府に働きかけなければなりません。

 

 

 

 

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2020年10月29日 (木)

NHK「1945ひろしまタイムライン」その後~日本人の課題として残りました

1945ひろしまタイムライン」はその後、私が知る限りですが次のような動きがありました。時系列でご紹介します。

 

923日~在日本大韓民国民団(民団)中央本部人権擁護委員会などが広島法務局に人権救済を申し立てる。「投稿は民族差別を扇動する」としてNHK広島放送局への勧告を求める。

102日~NHK広島放送局は8月までのツイッター投稿を削除し「1945ひろしまタイムライン」ホームページにまとめて投稿を移設。以前のツイートはそのまま掲載。

104日~広島市内で「ひろしまタイムラインと広島の民族差別の現在」というテーマで集会が開催される。オンラインも含め約120人が参加。

105日~「NHKひろしまタイムラインと広島の民族差別の現在」実行委員会メンバーらがNHK広島放送局に抗議文と、連名者名簿、コメント集を手渡す。

10月9日~「1945ひろしまタイムライン」HP上のブログ「原爆は国籍や民族の区別なくあらゆる人々を襲った」の中において在日コリアンの被爆者の話が掲載される。

  • NHKの対応

1945ひろしまタイムラインのホームページ(https://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibaku75/timeline/index.html)」・ひろしまタイムラインブログ内「舞台裏話」で、6月16日、820日のツイート自体の削除なし。ツイートに注を追加。「原爆は国籍や民族の区別なくあらゆる人々を襲った」の項目が新設され、朝鮮半島にルーツをもつ被爆者(李鐘根さん、朴南珠さん)、東南アジア留学生マレーシア・米国兵捕虜の被爆者の話が掲載される。

以上のような動きがありました。結果からいうと、ツイートの炎上、社会問題化したにも関わらず、在日コリアンへの謝罪や掲載経緯などの説明がなく、ネット上での削除はしなかったということになります。ツイートのまとめをHPへ移設しましたが新聞記事によるとツイートを読みやすくするために元から予定していたものということでした。さらに「まとめツイート」に追加された注は資料を基に書いたことやリアリティを感じてほしかった旨のことが書かれていますが、説明は簡単すぎるほど簡単で、当時からあった朝鮮半島出身者への民族差別に関しては触れていません。またHP上で追加された「原爆は国籍や民族の区別なくあらゆる人々を襲った」に掲載された朝鮮半島にルーツを持つ被爆者の話は問題が大きくなってからの掲載のためアリバイ工作のように感じてしまいました。シュンさんのツイートはNHKの中で問題の本質への追及が行われなかったという、とても残念な結果になってしまいました。

戦争を考える企画で私たち日本人の中にある差別意識と向き合ってこなかった実態が浮き彫りになってしまいました。戦時中の朝鮮人差別が75年経った現在まで続いていたことが明確になったのです。シュンさんのツイート問題はNHKだけに突きつけられた課題ではありません。日本人自身がこのシュンさんのツイートについて考えなければいけないのですが、今だにあのツイートがなぜ問題なのかという声があります。私たち日本人は朝鮮半島にルーツを持つ人々に対して何をしてきたのか。今一度、歴史を振り返る必要があります。

 

 

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2020年10月28日 (水)

核兵器禁止条約3カ月後に発効!被爆者の75年間の行動が世界を動かしました。

すでに大きなニュースになっているのでご存じだとは思いますが、やはり嬉しくてブログに綴ることにしました。1024日、核兵器禁止条約の批准が50カ国・地域に達し、条約発効が決まりました。90日後の2021年1月から核なき世界への新たな道が開かれます。

26日の中国新聞は条約発効を一面で大きく紹介し、関連記事は5ページにもわたりました。条約発効までの過程、意義やポイント、広島市長や広島県知事、被爆者の喜びの声、そしていかに核兵器廃絶までの道のりが険しいかも論じていました。在韓被爆者の声がなかったのは残念でしたが、ブラジルの森田隆さんや渡部淳子さんといった在外被爆者のコメントがあり、お元気そうな様子に嬉しくなりました。

被爆者は喜びと共にこの条約に日本が批准していないことに対し憤りも隠していません。広島市中心部でのアピールや「ヒバクシャ国際署名」の延長など積極的な行動で日本政府に条約批准を求めています。長年にわたる被爆者の証言活動や平和運動が条約発効につながったのは確かだと思います。しかし被爆者の声が自国である日本政府に届いていないことは被爆者にとって悲しみに近いのかもしれません。条約に対しての「わが国のアプローチと異なる」という日本政府の言葉は条約に批准した国々に対する否定であり非難だと感じました。原子爆弾を2発も受けて国民が大虐殺され、75年経ったいまもなお被害が続いているという状況をどうとらえたら非核化に反対する立場になるのでしょうか。国家と国民は違うのだということをまざまざと思い知らされた言葉でした。

国家は国民がいないと成り立ちません。私たち国民は戦争をしたくなければ、核兵器を自分たちの上に三度も落としてほしくなければ、日本政府の核兵器禁止条約への批准を求めるべきだと思います。核兵器禁止条約は今の日本に関係のないものではありません。核兵器は1度でも使用されると被害が継続されていくのです。136000人以上いる被爆者は今も苦しんでいるのです。数十万人いる二世や三世は被爆者の苦しみを背負い自身も問題を抱えているのです。唯一の戦争被爆国の国民として傍観してはいけないのです。

 

 

 

 

 

 

 

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2020年8月17日 (月)

コロナ禍でもヒロシマは世界に訴えました

節目の86を広島は静かに迎えました。コロナウイルス感染防止のため今年は平和記念式典の縮小、オンライン集会など広島に人が集まらず、8月6日当日も平和公園は規制制限で入場することはできませんでした。しかし被爆者や平和運動の方々は世界に訴えました。広島の松井市長は平和宣言で核兵器禁止条約への批准を日本政府に要求しました。ヒロシマは核のない平和な世界を望む願いを呼びかけることをやめはしませんでした。

 

前日の5日は午前10時から平和公園で民団広島県地方本部主催の韓国人原爆犠牲者慰霊祭が行われました。参加者は例年よりはかなり小規模でしたが中満国際連合事務次長や平岡前広島市長、国会議員などが参列し、160人ほどが集まりました。毎年、韓国から在韓被爆者や韓国の大学生などが来ているのですが姿はありませんでした。慰霊碑には今年新たに13人が加わり75年前の犠牲者の名前が積み重ねられました。広島県地方本部団長は「今年は節目の年なので、どんなに小さくても慰霊祭はやろうと思っていた。縮小ではなくむしろ大きくやったほうがいいのではないかという意見もでた」と慰霊祭の重要性を話していました。例年と違いコロナ対策のため国歌を流すだけにし、婦人部による歌もないといった進行で少し寂しい気もしましたが、民団中央本部団長の「悲惨な広島の歴史と在日同胞の歴史を記憶し、次の世代に継承していきます」という決意を聞き、自分自身の気持ちも新たにしました。

 

式典当日の6日は朝5時から9時まで公園内に入れなかったため、9時過ぎに行きました。途中、式典警護から戻る大勢の警察官とすれ違いました。式典に参加する方々より多くの警察官がいたのではないかと思うくらい今年は目立ちました。平和公園に入りすぐ山口の2世の会が主催する「8・6広島青空式典」が行われる原爆ドームに向かいました。すると原爆ドームの周りを原水禁の方たちが囲み、人間の鎖を作っていました。今年の原水禁はユーチューブでネット配信し、原水協もオンライン会議などで大会を運営するなど直接、広島で行う行事をしていないと思っていたので驚きました。このような静かな運動は、座り込みに通じる運動と同じで時にはいいなと思いました。

 

「8・6広島青空式典」では基調報告や団体報告などが行われました。被爆二世を日本政府は1度も調査しておらず、実態すらわかっていない現状や二世の集団訴訟など被爆二世が置かれている現状を訴えました。また先月、アメリカのトリニティ・サイトで開かれた核実験75年の記念式典でトランプ大統領が発言した核実験に対する称賛に抗議と撤回を求めました。例年集会場所には必ず被爆のパネルが設置され、通行する人たちが気軽にみられるようになっています。今年も通る人は少ないながらも、パネルにしっかり見入っていました。1985年から続いているこの集会は、被爆二世だけではなく、学生や労働者、障碍者、反原発、反基地といった人々が集まっています。韓国の団体とも連携もしており毎年来日していますが、今年は日韓同時開催として同じ時間帯に韓国でも集会を行うといった試みがなされていました。ちなみにコロナ対策としてソーシャルディタンスは当然のこと、マイクに使い捨てカバーを一人ひとりに使用してもらうといった工夫がされていました。35年という長きにわたって続けられているこの集会は粘り強い努力と信念がなければできません。私は広島でこうした方々とお会いできて、本当によかったと思っています。今の日本はどうなっているのか、自分の立つ位置はどういうところなのか、教えてもらえるからです。

 

75年間、草木も生えないと言われた廣島。

緑豊かな平和都市となったヒロシマは今年も世界に訴えました。

「戦争反対」「核兵器はいらない」「核と人類は共存できない」と。

 

 

 

 

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2020年6月14日 (日)

コロナ禍で被爆75周年の平和記念式典が変わるようです

昨年12月から新型コロナウイルス感染症は世界中で猛威をふるい、今だ収束のめどがたっていません。日本でも4月に緊急事態宣言があり自粛要請がありました。このコロナ禍で様々な行事が中止や延期になっていますが、被爆75周年を迎える今年8月6日の式典も様変わりしそうです。広島では8月6日当日、市内各地で様々な団体による慰霊祭が開催されていますが、縮小や中止などの決断が余儀なくされているようです。そして世界から参列する「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」も大きく形を変えることが分かりました。

 

広島市のHPによると式次第や所要時間は例年と変わらず8時から850分の予定のようですが、会場の様子が大きく変わります。ソーシャルディスタンスを守る形にするため一般席を設けず、公園内への入場規制もあるようです。式典参列者の席は例年の1割ほどの最大880席で、公園内の混雑した光景もなくなります。これがどういう感じになるのか想像しにくいというのが正直な思いです。

招待客は内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、外務大臣、 厚生労働大臣で、海外からは国際連合事務総長、駐日大使などが候補に挙がっています。被爆者や被爆者遺族は被爆者 6 団体から推薦された方や被爆者代表、遺族代表、都道府県遺族代表などが挙げられています。去る6月5日には国連のグレテス事務総長が参列する意向を示し、訪問ができない場合もビデオメッセージを送るということが広島市から発表されました。他の国の来賓の方々はまだ分かっていません。このまま新型コロナ感染症が収束しなければ、他国の来賓者の参列は難しいと思います。ビデオメッセージに意味がないとはいいませんし、やむを得ないかもしれませんが、被爆地に来て放つ言葉の重み、献花はやはり特別な意味を持つと思います。

 

また平和宣言の内容も変わるかもしれません。平和宣言の文案を検討する懇談会委員の間でコロナ禍についての言及があったようです。6月6日の中国新聞によると、懇談会委員から「新型コロナウイルスは自然の脅威だが、核兵器は人間の作った脅威で自らの意志で除けると訴えるべき」「感染拡大で自国第一主義が広がっていることへの警鐘が必要」といった意見が出たといいます。コロナ禍という世界が直面している脅威と核兵器廃絶は命を救うために各国が協力しあわなければいけないものです。懇談会委員の方の言う通り、核兵器は人間が自らの意志で排除できます。今は新型コロナウイルスですが、新たなウイルスが出てくる可能性も予想されています。人類は核兵器という無駄なものに時間もお金も労力も費やす暇はないのです。コロナ禍は核兵器社会にとって一つの分岐点になるかもしれません。

 

平和記念式典は海外の来賓にとっては非核平和の意思表示であり、被爆者や遺族にとってはお葬式の意味を持っています。一般の参加者は被爆地に来て核兵器のおぞましさを体感できる機会となります。今年は新型コロナウイルス感染拡大予防のため仕方ありませんが、参列者の限定はとても残念です。平和宣言は世界の核兵器廃絶が大前提です。それを踏まえて、その時々の世界情勢下で平和の真の意味を唱えることが未来の来るべき惨禍に対して重要なメッセージとなるはずです。世界中の人々の価値観が変わりつつあるコロナ禍において、松井市長には反戦を謳い核兵器廃絶が一刻も早く行われなければいけないことを、具体的に力強い言葉で世界に訴えていただけるよう願っています。

 

 

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2020年3月26日 (木)

春風に吹かれて碑巡りはいかがですか?

広島もそろそろ桜のシーズンで、外に出て花を愛でる季節になってきました。新型コロナウイルスで自宅待機している方も多いと思います。いまのところ日本では密閉された空間・人が密集する場所・人と密接する場面などがクラスター感染の発生リスクが高いと言われています。ですから外で人と接することがない散歩でのコロナウイルス感染リスクは比較的、低いのではないかと思われます。気分転換に春の日差しを浴びて川岸を歩きながら碑巡りはいかがでしょうか。

 

広島で被爆した方々の慰霊碑は平和公園を中心に市内各地にあります。平和公園では碑にまつわるエピソードを聞く碑巡りのフィールドワークが盛んです。また平和公園以外にも市内各地に慰霊碑があり、毎年8月6日には地域に慰霊祭が行われています。今回は韓国人原爆犠牲者慰霊碑以外の外国人の碑を2つご紹介します。

 

1つめは中区加古町の本川岸にある「祈平和BRASIL」です。これはブラジル広島県人会・在伯長崎県人会・在ブラジル原爆被害者協会・ブラジル相互協会が1990年に建てたものです。広島は移民を多く出し、被爆後もブラジルに渡った被爆者が数多くいます。碑はブラジルの国土がかたどられ、平和の象徴である鳩が1羽とまっています。碑文には「ヒロシマの悲劇を再び繰り返さないという決意と世界の恒久平和への願いをこめて この碑を広島日伯協会を通じ ひろしまの地に贈る」と書かれています。ブラジル在住の広島県人会や長崎県人会などが募金して碑を造り、広島市に送ったもののようです。第二の故郷ブラジルの地と故郷広島を思う気持ちが伝わります。

 

2つめは中区大手町の元安川岸にある「興南寮跡」碑です。これは「南方特別留学生」として広島文理科大学や広島高等師範学校に留学していた東南アジアの留学生が住んでいた寮の跡碑です。日本は大東亜共栄圏の占領戦略の一環としてブルネイやマレーシア、インドネシア、ビルマ、フィリピンなどから地元の有力者の子弟を集めました。日本の占領地で指導的役割を担ってもらうための人材育成として国費で日本に招いたのです。広島には20数名の留学生が来ていたようです。86日、原爆により寮は消失し、留学生も被爆しました。ブルネイのペンギラン・ユソフ元首相も南方特別留学生として広島文理科大学に来ていました。ユソフ元首相は講義中に被爆し、救助活動も行ったようです。帰国後は英国の保護領だったブルネイで首相になり、駐日大使も務めたようです。ブルネイ唯一の被爆者で、2016年に94歳で逝去されました。ユソフ元首相は広島での被爆体験を子供たちに語っていたといいます。またマレーシアから来ていたニック・ユソフさんは広島文理科大学の学生で興南寮で被爆し亡くなりました。ニック・ユソフさんは今も五日市の光禅寺の御墓でひっそりと眠っています。

 

在外被爆者は厚労省の手帳取得者数によると約2,966人(20193月現在)に上ります。その大半は韓国におられますが、30カ国近い国々にお住まいです。新しくなった広島平和記念資料館には日本人以外の被爆者のコーナーも少しですが設けられています。なぜ日本人以外の方々が被爆したのか。日本がおこした戦争で犠牲にならざるを得なかった方々の存在を、被爆被爆したのは日本人だけではないことを私たちは忘れてはいけないと思います。

 

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2020年2月27日 (木)

世界最大の被爆遺構。広島市内にある戦争遺跡の行方

軍都廣島時代の戦争遺跡であり、原爆に耐えた被爆建物の旧陸軍被服支廠の保存をめぐって昨年から広島では議論が繰り広げられています。貴重な遺構ですが劣化や耐震性の問題などにより住民や通行人に被害が及ぶ可能性があるということで解体の話が数年前から出ていました。補強するにも費用が高額になるため当初は解体の方向で進められていましたが、このたび解体が見送られることになりました。一安心ではありますが、解体が先送りになっただけで中止になったわけではないためまだまだ予断を許さない状況ではあります。

 

旧陸軍被服支廠は明治時代に建てられた南区にあるレンガ作りの建物で、当時のまま現存するものは4棟あります。広島県が3棟、中国財務局が1棟それぞれ所有しています。原爆の爆風により曲がった鉄の扉など被爆のすさまじさをそのまま伝え、被爆建物の中では一番規模の大きい遺構です。つまり世界最大の被爆建物というわけです。市民団体や被爆者団体は原爆を伝える貴重な遺構であると保存を要望し、署名活動や関連行事などを開催し市民や県内外に保存をアピールしてきました。署名は2700人にものぼり広島県民の被爆建物に対する思いの強さが表れました。その成果としてこの度の解体先送りとなりました。

 

かなり前に本ブログでも旧陸軍被服支廠の利用について書いたことがあります。その際は「戦争博物館にしてはどうか」ということを書きました。博物館は軍都広島時代を中心に、倉庫及び図書室として戦後補償裁判などの裁判資料も閲覧できるようにするものです。裁判資料は膨大であり、且つ非常に貴重な内容のものばかりです。戦争被害者である原告の生の声がありますから、一般も利用できるといいと書きました。また近くには旧糧秣支廠や宇品港などもあるため、軍都廣島のフィールドワークができるように博物館に案内人を置き、ピースツーリズムの拠点とすると歴史を身近に感じられるのではないかと思いました。

 

以前は建物を一部だけ残してはどうかと書きましたが、世界最大の被爆建物なので、そのままの状態で残すことに大きな意義があると今は思います。4棟保存となると補強費用及び維持費用が膨大になります。そこでまず世界にこうした原爆遺構がある事を知ってもらうことが重要です。カープの市民球場のように樽募金やクラウドファンディングなどで、世界中の注目とお金を集めることが最初かなと思います。広島からの平和発信基地としての戦争博物館は、原爆で終焉した第二次世界大戦の遺構という世界唯一のものとなります。原爆ドームほどまだまだ知られてはいませんから、旧陸軍被服支廠にも来てもらえば、原爆ドームからの流れで広島市内の美しい街並みも知ってもらえると思います。原爆ドーも当初は取り壊しの方向でしたが、強い市民の声で保存となり現在は世界遺産です。旧陸軍被服支廠も同じように保存そして世界遺産となるように政治家の方々どうか議論をお願いします。

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2019年10月30日 (水)

「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会」に参加しました

去る1019日、広島市内で「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会」が開催されました。会場には100人以上が集まり、強制連行に関心のある方々の多さを実感しました。集会には当時中国から強制連行され、安野発電所で強制労働させられた被害者(中国の表現で受難者)のご遺族も来日されました。集会では裁判や和解が持つ意味について、弁護士の先生や支援者、遺族がそれぞれの立場から話され、戦後補償が持つ未来の可能性が示唆されました。

 

西松建設中国人強制連行・強制労働事件(以下、西松裁判)は戦時中、中国人を広島県の中国電力安野発電所に強制連行し強制労働させたことなどに対し、中国人被害者が当時、工事を行っていた西松建設を相手に裁判を起こしたものです。2007年最高裁で原告は敗訴しましたが、最高裁は付言をつけ西松建設に対し原告への救済を促しました。その後、両者で話し合いを行い、勝訴した西松建設が原告に金銭補償を行うことになりました。この補償金の一部で2010年に強制連行・強制労働の現場である安野発電所に碑が建立されました。

 

元・西松安野友好基金運営委員会委員長の内田雅敏弁護士は「西松は和解をする中で中身が深まっていった。中電が安芸高田町に土地を譲渡し、地域の人たちに協力を求めた。地域の人たちは理解を示し碑の建立となった。式典にも町長が参加するようになった。そして安野の現場に行った遺族はいつか友好の碑に変わってほしいと願ったのだ。戦後補償は和解によって終了するのではない。西松の和解は日中の歴史に大きな道を切り拓いた」と語り、西松裁判がもたらした意義を伝えました。

 

ご遺族の方々は親御さんや祖父様のご苦労を語りました。トンネル掘削時に水に浸かった足を切断せざるを得なくなり、そのせいで仕事ができなくなってしまったこと。日本にいたことで反乱分子視されたり、また批判され就職も思うようにできなかったことなど、帰国後も大きな苦しみがあった人生について伝えていただきました。お孫さんからの「祖父から茶碗や箸の言い方とか、食前の「いただきます」といった作法とか、日本語の言い方を教えてくれた」という話には、わずかの期間で覚えなければいけなかった日本語や、その言葉が長い間にわたって身に染みていたことが伝わり痛々しく感じました。

 

日本に強制連行され、苛酷な状況で働かされ、やっと故郷に帰っても今度は身近な人たちから敵視されるという、想像を絶する被害者の苦難は戦争だったからという理由にはなりません。加害者が誠意を持って解決していくことではじめてご本人の尊厳が回復され気持ちも安堵し、またご家族の苦しみも和らぎます。日本が国として過去の加害をどう考え、どのように補償していけばいいのかは、まず和解し、そして相互理解が始まりなのだと思いました。

 

 

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2019年9月29日 (日)

ジョン・ハーシー著「ヒロシマ」を読んで

私にとって2019年の夏はヒロシマを振り返る年となりました。新しい原爆資料館や映画「ひろしま」の鑑賞、そして被爆の実相を伝えた書籍、8月5日の韓国人原爆犠牲者慰霊祭、6日の平和祈念式典は自分自身がなぜ今こうして映像をやっているのかをじっくりと見つめ直す機会となりました。今回はジョン・ハーシー著「ヒロシマ増補版」の感想です。

 

アメリカ人の記者ジョン・ハーシーは19465月と39年後の19854月の2回、広島を訪れました。そして原爆で被災した被爆者から話を聞きました。ニューヨーカー誌に掲載されたハーシーが書いたヒロシマの記事は欧米で話題を呼び、十数カ国に翻訳されるほどの大反響となりました。被爆後まもない被爆者たちは原爆を落とした国の記者に何を語り、何を訴えたのでしょうか。そしてハーシーは何を伝えたかったのでしょうか。

 

本作「ヒロシマ」に登場する主な被爆者は6人。教会の日本人男性牧師、ドイツ人男性神父、日本人の男性外科医2人、日本人の既婚女性2人です。ハーシーがヒロシマに来て出会った方々からお話を聞いています。被爆時の詳細な聞き取りも素晴らしいのですが、ハーシーの凄さは39年後の追加取材にあります。戦後、被爆者たちがどう生きてきたのかを丹念に聞き取っているのです。私は被爆時よりも、むしろ戦後からの生き方に心惹かれました。被爆をしていなければ、こうはならなかったと思われる一人一人の人生が、誤解を恐れずに言うとまるで小説のように描かれているのです。

 

本作を翻訳した一人は、まさにハーシーの取材対象者であった谷本清牧師でした。「インタビューの冒頭に「いままで原子爆弾の科学的被害調査は種々おこなわれたが、私はそれと違って人道主義の立場からその被害調査をしたいのだ」といいだしたものだから、私はすっかり気をゆるしてしまった。」と谷本牧師はあとがきに書いています。それまでいかに被爆者をないがしろにして調査や取材が行われてきたのかを伺うことができる言葉だと思いました。そして、ハーシー本人、被爆者たちがその被害がどのようなものであったのかを数字ではないところで伝えたかったということが分かります。

 

もちろん被爆の実相も貴重な事実ですが、私は戦争そして原爆の悲劇はむしろその後に来るものだと感じます。地獄のような原爆からなんとか生き延びても、そこからまた生きていかなければいけません。戦後の心身の困難をどう耐えながら生きてきたのかは、本作を是非お読みいただきたいと思います。ハーシーの足元にも及びませんが、人道主義の立場から作品を作ることをあらためて胸に刻んだ1冊となりました。

 

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2019年8月28日 (水)

リニューアルした広島平和記念資料館に行ってきました

今年4月にリニューアルオープンした広島平和記念資料館に行ってきました。行きたいと思いつつなかなか都合がつかなかったため結局、お盆に出かけることになりました。人気があると聞いていましたが、お盆の真っ最中だったためか入場待ちが1時間以上という行列で驚きました。閉館時間が午後8時まで延長されていたため夜に出直したことで、比較的ゆっくり見ることができました。入館者は気のせいか外国人と日本人の家族連れが多いような気がしました。

 

リニューアルした館内はとても見易い構成でした。資料館の元館長がある場所で「聞いたことは忘れる。見たことは覚える。体験したことは理解する。資料館は理解することを目的にリニューアルした。展示意図から説明すると、一人一人の苦しみ、背景を強調した。あの日、そこにあったものの展示をしている」と話されていたのですが、確かに原爆犠牲者の顔が見える展示になっていたと思います。顔写真と遺品が対となって丁寧に説明され、あの日あの時までは確かに生きていたことを感じさせます。被爆二世の友人は「見ていて涙がでてきた」と言っていました。今回、驚いたのは報道カメラマンの福島菊次郎さんが撮影したある一家の被爆から家庭崩壊までが展示されていたことでした。被爆者は被爆してからも辛い人生を生き続けています。それは壮絶な生き様です。その生き様も原爆の被害として訴えていました。

 

在外被爆者も以前と比べてスペースが広がりました。郭貴勲さんが提供した朝鮮半島出身者の軍隊手帳や除隊証明書などの資料は普段なかなか見ることはできないものだと思います。郭貴勲さんの大きな顔写真を見て、ようやく在韓被爆者の存在、その姿が実態として見えてきたように感じました。

 

ここからは少し辛口になります。リニューアル展示は文学的には成功しているといえますが、実相となると私は首をかしげてしまいます。被爆時の様子が分かるものは被爆者が描いた絵です。被爆後、記憶に残った風景が絵で表現されているのです。絵画はリアルに伝わります。しかし、これだけでいいのでしょうか。

 

まず前々から言われていた被爆時の様子を再現した人形。これは人形そのものが「怖い」という声があったというのはよく聞いていました。そしてリニューアルの際に残すか残さないかで、かなり議論されていました。結果、残していませんでした。残さない理由がどこにあったのか、説明がされていたのかもしれませんが、私には分かりません。私は残した方がいいと思っていました。なぜなら人形は被爆の実相を表現していたからです。そもそも原爆の被害の大きさは他に類をみないものです。たった1発で1つの街が全滅してしまうのです。その被害のすさまじさをどう表現するのか。人形は見ると「怖い」かもしれませんが、原爆によりボロボロになった被害者のリアルな姿でした。

 

想像できるでしょうか。原爆が投下された時の様子を。

 

1発の原爆投下により街は建物が全て破壊され、手足頭胴体がバラバラになり、内臓は飛び出し、皮膚は焼けただれどろどろになり、人の形すらしていない遺体が地面を覆いつくしました。生き残った数千もの人たちは裸同然で遺体の上を歩きながら、どこかに向かったのです(それは様々な場所です)。なぜ遺体の上を歩いたのかというと、地面が熱いからです。遺体の上は熱くないので遺体を選んで歩いたのです。

 

そして何日も経たないうちに遺体や生きている人に蛆がわきました。遺体にあふれた街中の匂いはそれはそれはひどいもので、何とも形容しがたいものだったと言います。被爆者の話を聞いていつも感じるのは、この「匂い」のひどさです。救援に入った兵隊の方はこの匂いでおにぎりを食べられず吐いたと話していました。

 

本来、その被害は文字では伝えきれない惨状でしょう。リニューアルした展示内容にはこうした「原爆特有の酷さ」「被害の大きさ」が感じられないのです。これでは、空襲で焼け出された人々との「差」をどこでつけるのかと思います。原爆の被害は圧倒的な規模とその特殊性です。原爆によるすさまじい熱線、爆風、放射線。人々の体に現れた嘔吐、下痢、脱毛、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、口内炎などの症状。今の展示ではこれらを感じることはできません。いくらガラス瓶が曲がっていても、瓦がぶくぶくになっていても、それが人間に、自分に起こるとどうなるのか、想像するのは困難です。もちろんパネルでの説明はありますが、今の展示では原爆を勉強していない人には体験、理解は難しいと思います。今の技術であればVR体験も可能でしょうが、まともに再現されれば一目みただけで大人でも卒倒すると思います。しかし被爆者はそこにいたのです。せっかくの原爆の資料館ですから、経験された方々の1万分の1でいいから、視覚的に見せてほしいと思います。「怖い体験」が必要なのです。体験することで、原爆は人道に反する爆弾、核兵器は絶対使用禁止だということを初めて理解することができるのです。

 

入り口の原爆投下の状況は上から、つまり投下した側からの視点です。原爆が上から下に向かって落ちていく様子が映し出されているのを見て、私たちは何を感じればいいのでしょう。落とした人の気持ちなのでしょうか。そうではないはずです。雲の下から私たちは感じなければいけません。地面の上で熱線、爆風を感じなければいけないのです。一人一人の人生があったのは分かりましたが、あの時どのような恐ろしい目にあっていたのかは、残念ながら今回の展示では理解することはできないと感じました。

 

地獄だと言いました。

光が怖いと言いました。

大きな音が怖いと言いました。

毎年8月6日は家から出ないと言いました。

被爆者の声です。

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