広島から

広島での集会、イベント、広島で起こった出来事など広島から見たこと

2019年9月29日 (日)

ジョン・ハーシー著「ヒロシマ」を読んで

私にとって2019年の夏はヒロシマを振り返る年となりました。新しい原爆資料館や映画「ひろしま」の鑑賞、そして被爆の実相を伝えた書籍、8月5日の韓国人原爆犠牲者慰霊祭、6日の平和祈念式典は自分自身がなぜ今こうして映像をやっているのかをじっくりと見つめ直す機会となりました。今回はジョン・ハーシー著「ヒロシマ増補版」の感想です。

 

アメリカ人の記者ジョン・ハーシーは19465月と39年後の19854月の2回、広島を訪れました。そして原爆で被災した被爆者から話を聞きました。ニューヨーカー誌に掲載されたハーシーが書いたヒロシマの記事は欧米で話題を呼び、十数カ国に翻訳されるほどの大反響となりました。被爆後まもない被爆者たちは原爆を落とした国の記者に何を語り、何を訴えたのでしょうか。そしてハーシーは何を伝えたかったのでしょうか。

 

本作「ヒロシマ」に登場する主な被爆者は6人。教会の日本人男性牧師、ドイツ人男性神父、日本人の男性外科医2人、日本人の既婚女性2人です。ハーシーがヒロシマに来て出会った方々からお話を聞いています。被爆時の詳細な聞き取りも素晴らしいのですが、ハーシーの凄さは39年後の追加取材にあります。戦後、被爆者たちがどう生きてきたのかを丹念に聞き取っているのです。私は被爆時よりも、むしろ戦後からの生き方に心惹かれました。被爆をしていなければ、こうはならなかったと思われる一人一人の人生が、誤解を恐れずに言うとまるで小説のように描かれているのです。

 

本作を翻訳した一人は、まさにハーシーの取材対象者であった谷本清牧師でした。「インタビューの冒頭に「いままで原子爆弾の科学的被害調査は種々おこなわれたが、私はそれと違って人道主義の立場からその被害調査をしたいのだ」といいだしたものだから、私はすっかり気をゆるしてしまった。」と谷本牧師はあとがきに書いています。それまでいかに被爆者をないがしろにして調査や取材が行われてきたのかを伺うことができる言葉だと思いました。そして、ハーシー本人、被爆者たちがその被害がどのようなものであったのかを数字ではないところで伝えたかったということが分かります。

 

もちろん被爆の実相も貴重な事実ですが、私は戦争そして原爆の悲劇はむしろその後に来るものだと感じます。地獄のような原爆からなんとか生き延びても、そこからまた生きていかなければいけません。戦後の心身の困難をどう耐えながら生きてきたのかは、本作を是非お読みいただきたいと思います。ハーシーの足元にも及びませんが、人道主義の立場から作品を作ることをあらためて胸に刻んだ1冊となりました。

 

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2019年8月28日 (水)

リニューアルした広島平和記念資料館に行ってきました

今年4月にリニューアルオープンした広島平和記念資料館に行ってきました。行きたいと思いつつなかなか都合がつかなかったため結局、お盆に出かけることになりました。人気があると聞いていましたが、お盆の真っ最中だったためか入場待ちが1時間以上という行列で驚きました。閉館時間が午後8時まで延長されていたため夜に出直したことで、比較的ゆっくり見ることができました。入館者は気のせいか外国人と日本人の家族連れが多いような気がしました。

 

リニューアルした館内はとても見易い構成でした。資料館の元館長がある場所で「聞いたことは忘れる。見たことは覚える。体験したことは理解する。資料館は理解することを目的にリニューアルした。展示意図から説明すると、一人一人の苦しみ、背景を強調した。あの日、そこにあったものの展示をしている」と話されていたのですが、確かに原爆犠牲者の顔が見える展示になっていたと思います。顔写真と遺品が対となって丁寧に説明され、あの日あの時までは確かに生きていたことを感じさせます。被爆二世の友人は「見ていて涙がでてきた」と言っていました。今回、驚いたのは報道カメラマンの福島菊次郎さんが撮影したある一家の被爆から家庭崩壊までが展示されていたことでした。被爆者は被爆してからも辛い人生を生き続けています。それは壮絶な生き様です。その生き様も原爆の被害として訴えていました。

 

在外被爆者も以前と比べてスペースが広がりました。郭貴勲さんが提供した朝鮮半島出身者の軍隊手帳や除隊証明書などの資料は普段なかなか見ることはできないものだと思います。郭貴勲さんの大きな顔写真を見て、ようやく在韓被爆者の存在、その姿が実態として見えてきたように感じました。

 

ここからは少し辛口になります。リニューアル展示は文学的には成功しているといえますが、実相となると私は首をかしげてしまいます。被爆時の様子が分かるものは被爆者が描いた絵です。被爆後、記憶に残った風景が絵で表現されているのです。絵画はリアルに伝わります。しかし、これだけでいいのでしょうか。

 

まず前々から言われていた被爆時の様子を再現した人形。これは人形そのものが「怖い」という声があったというのはよく聞いていました。そしてリニューアルの際に残すか残さないかで、かなり議論されていました。結果、残していませんでした。残さない理由がどこにあったのか、説明がされていたのかもしれませんが、私には分かりません。私は残した方がいいと思っていました。なぜなら人形は被爆の実相を表現していたからです。そもそも原爆の被害の大きさは他に類をみないものです。たった1発で1つの街が全滅してしまうのです。その被害のすさまじさをどう表現するのか。人形は見ると「怖い」かもしれませんが、原爆によりボロボロになった被害者のリアルな姿でした。

 

想像できるでしょうか。原爆が投下された時の様子を。

 

1発の原爆投下により街は建物が全て破壊され、手足頭胴体がバラバラになり、内臓は飛び出し、皮膚は焼けただれどろどろになり、人の形すらしていない遺体が地面を覆いつくしました。生き残った数千もの人たちは裸同然で遺体の上を歩きながら、どこかに向かったのです(それは様々な場所です)。なぜ遺体の上を歩いたのかというと、地面が熱いからです。遺体の上は熱くないので遺体を選んで歩いたのです。

 

そして何日も経たないうちに遺体や生きている人に蛆がわきました。遺体にあふれた街中の匂いはそれはそれはひどいもので、何とも形容しがたいものだったと言います。被爆者の話を聞いていつも感じるのは、この「匂い」のひどさです。救援に入った兵隊の方はこの匂いでおにぎりを食べられず吐いたと話していました。

 

本来、その被害は文字では伝えきれない惨状でしょう。リニューアルした展示内容にはこうした「原爆特有の酷さ」「被害の大きさ」が感じられないのです。これでは、空襲で焼け出された人々との「差」をどこでつけるのかと思います。原爆の被害は圧倒的な規模とその特殊性です。原爆によるすさまじい熱線、爆風、放射線。人々の体に現れた嘔吐、下痢、脱毛、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、口内炎などの症状。今の展示ではこれらを感じることはできません。いくらガラス瓶が曲がっていても、瓦がぶくぶくになっていても、それが人間に、自分に起こるとどうなるのか、想像するのは困難です。もちろんパネルでの説明はありますが、今の展示では原爆を勉強していない人には体験、理解は難しいと思います。今の技術であればVR体験も可能でしょうが、まともに再現されれば一目みただけで大人でも卒倒すると思います。しかし被爆者はそこにいたのです。せっかくの原爆の資料館ですから、経験された方々の1万分の1でいいから、視覚的に見せてほしいと思います。「怖い体験」が必要なのです。体験することで、原爆は人道に反する爆弾、核兵器は絶対使用禁止だということを初めて理解することができるのです。

 

入り口の原爆投下の状況は上から、つまり投下した側からの視点です。原爆が上から下に向かって落ちていく様子が映し出されているのを見て、私たちは何を感じればいいのでしょう。落とした人の気持ちなのでしょうか。そうではないはずです。雲の下から私たちは感じなければいけません。地面の上で熱線、爆風を感じなければいけないのです。一人一人の人生があったのは分かりましたが、あの時どのような恐ろしい目にあっていたのかは、残念ながら今回の展示では理解することはできないと感じました。

 

地獄だと言いました。

光が怖いと言いました。

大きな音が怖いと言いました。

毎年8月6日は家から出ないと言いました。

被爆者の声です。

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2019年8月26日 (月)

ヒロシマ2019年8月6日

朝焼けが山の稜線を美しく見せている空でした。私は5時すぎに家を出て平和公園に向かいました。公園に着くと、いつものように大勢のマスコミがカメラを構える中、参拝者が花や線香を持ってお参りにきていました。しかし、参拝者はそう多くなく、心なしか人が少ないように感じました。6時すぎからの宗教者たちによる慰霊祭の頃にはすでに雨がぽつりぽつりと降り始めていました。

平和祈念式はテントの下にある席ではなく、公園内に設置されているモニターの前に行き、カメラを構えました。いつもはモニターの前でも大勢の人であふれる状態なのですが、今年は少し離れた場所にいたせいか、こちらも人が少ない感じがしました。式典が始まる頃にはポツポツと大粒の雨が降り、時間を追うごとに強くなりました。挨拶の頃になると傘がなければべしょ濡れになるほどの雨となりました。アメリカが原爆を投下してから74年目の広島、86の式典は最初から最後まで雨の中で行われました。

 

松井広島市長による平和宣言は事前に報道されていたように、日本政府に対し、核兵器禁止条約への署名・批准を訴える言葉が入っていました。以下は平和宣言の一部です。

 

「日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現に更に一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。」

 

なぜ広島市民ではなく「被爆者の思い」という表現を使ったのかわかりません。松井市長の平和宣言は毎年どこか他人事のような内容だと感じます。松井市長は被爆二世ですから、もっとご自身の立場からの、踏み込んだ発言でもよかったのではないかと感じました。

「日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。」に加えて「そして被爆者の命をかけた思いは被爆二世である私自身の強い思い、広島市民の心からの願い、そのものです。」という言葉があれば、被爆地ヒロシマの、被爆二世である松井市長の肉声として、世界の人々の心に伝わったのではないかと思うのです。

 

9日の長崎市長の平和宣言はいつものように強く具体的に日本政府に訴えていました。

「日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けています。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください。そのためにも朝鮮半島非核化の動きを捉え、「核の傘」ではなく、「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯の検討を始めてください。そして何よりも「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮することを求めます。」

私はこの「唯一の戦争被爆国の責任」「一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください」の2つの言葉が、何より被爆者の思いを表していると感じます。

 

被爆者の平均年齢は82歳を超えました。家族や参拝者が少なく感じたのは、決して天候や気のせいではないと思っています。被爆者が生きているうちに核のない世界を見せてあげたいのです。日本政府の核兵器禁止条約への署名、批准は長崎市長の宣言通り「唯一の戦争被爆国の責任」だと思います。原爆の被害国としての役割は確かにあるのです。日本政府が署名・批准すれば、各国が後をついていくと信じています。

7月8日中国新聞によると核兵器禁止条約への署名70カ国、批准国23のようです。批准があと27増えれば条約は90日後に発効になります。被爆した人たちは水を求め続けました。式典で雨が降ったのも、空からの願いだったのかもしれません。

 

 

 

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2019年7月31日 (水)

ヒロシマとピースツーリズム

広島市は徒歩や自転車、バスなどで平和関連施設をめぐるルートをネットで紹介するピースツーリズムを行っています。スマホ片手に広島市内を回ってもらおうというものです。ピースツーリズムは一般の観光と何が違うのでしょう。ピースツーリズムを一言でいうと「考える観光」です。

 

去る7月20日に広島国際会議場で広島大学平和センター主催の「2019年度国際シンポジウム」が開催されました。テーマは「HIROSHIMAとピースツーリズム」です。国内外から研究者が来られ、様々な角度からピースツーリズムに関する話題が提供されました。

 

ヒロシマに来る観光客に関して、観光サイト「トリップアドバイザー」の口コミを分析された先生がおられました。広島に来る観光客にとって平和記念資料館や平和公園は「考える場所」だといいます。観光に来たのに現地に来たら見方が変わったというのです。平和について考えたのです。口コミは英語つまり外国人観光客でも日本人観光客でも同じ結果だったそうです。

 

また韓国の大学の先生は朝鮮半島の非武装地帯観光について話されました。当初、韓国政府は国民に対し保安意識を持たせるために安保観光を始めたそうです。北朝鮮が掘ったトンネルを見せ、そして北朝鮮の様子を見せるために展望台を設けたのです。果たして韓国の国民がその非武装地帯の観光地に行って何を感じたかというと、韓国政府の意図とは全く違うものでした。先生は「現状を見ながら、違う考え方をする。過去を見ながら暴力ではないものを見る。韓国の市民は考えるようになった。そこにある建物を見るのではなく、動員された人を見、声を聞くのだ。人々は和解と平和を見出した」と話されました。韓国国民の目に映った非武装地帯は北朝鮮の人たちは敵ではないということでした。現在の非武装地帯の目玉は丹頂鶴だといいます。人が住まないのが原因かどうかは分かりませんが、野生の丹頂鶴の生息地となっているため、鶴の生態を見るための公園が整備されたのだそうです。丹頂鶴が優雅に舞う光景はさらに平和意識を持たせる場所に変わっていったのです。

ピースツーリズムは歴史を目の前に見ながら、過去を感じ、未来を考えるツアーと言ってもいいかもしれません。

 

広島を訪れる外国人観光客は年々右肩上がりに増加しています。最近は市内の被爆樹や戦争遺跡を回るツアーにも外国人観光客からの関心が集まっているようです。被爆樹や戦争遺跡に触れると、そこに被爆前の人々の生活を感じることができます。ヒロシマのピースツーリズムは被爆者に会って話さなくても、被爆者の気持ちや体験を感じ取ることができる貴重な旅なのです。

 

そしてこれが一番大事なことなのですが、ピースツーリズムでは、観光客と被爆者の心の出会いが生まれます。なぜなら観光客が広島の過去を通じて平和や戦争を考え、自分たちの国の平和について考えた時、被爆者はヒロシマの心が伝わったと感じるからです。観光客は被爆者と会っていなくても、ヒロシマで自国の平和を考えた時、被爆者の心と触れ合ったも同然なのです。

 

 

 

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2019年7月17日 (水)

86の広島からの平和宣言に注目です

蝉が鳴きはじめました。そしてもうすぐ今年もあの日がやってきます。8月6日の平和記念式典です。毎年読み上げられる広島市長による平和宣言は注目されていますが、今年は特に関心を集めています。というのも、日本政府に対して、核兵器禁止条約の署名・批准を求める文言を盛り込む方針であることが分かったからです。

平和宣言は核兵器廃絶と恒久平和への願いを世界に向けて発信するメッセージです。そこには広島市民、被爆者の思いと願いが込められています。広島市のHPによると、広島市民の平和への願いから1947年から平和祭が行われることになり、式典の中で浜井信三市長が平和宣言を行ったことが始まりのようです。

歴代の広島市長は時代に合わせながら、ご自身の思いも込めて文言を作ってきました。特に1991年の平岡敬市長の平和宣言は画期的な内容でした。日本の侵略戦争と植民地の人々への謝罪が含まれたものとなったからです。「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」との言葉には、平岡市長ご自身が関わってこられた数多くの朝鮮半島の被爆者たちへの思いが込められていたと思います。

今年の平和宣言に関しては被爆者団体や反核団体などが松井市長に対し、核兵器禁止条約の署名・批准を日本政府に求めるよう強く要望していました。7月13日の中国新聞によると「1日も早い廃絶を目指して禁止条約を推進する被爆者たちの声を重んじ、政府による署名・批准を「被爆者の思い」と明言する方向。」と書かれていました。12日には有識者や被爆者の懇談会において文案が了承されたということなので、内容はほぼ決定されているということでしょう。1945年から74年間、被爆者が願い続けてきた核廃絶禁止条約が発効されようとしているのです。被爆地である広島市長が平和宣言で言わないでいつ言うのかと思います。

 

浜井信三市長の初めての平和宣言をご紹介して、今回は終わりたいと思います。

「今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。ここに平和塔の下、われわれはかくのごとく平和を宣言する」。

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2019年3月25日 (月)

無言の語り部たち②~被爆樹

  広島の街を歩くと、至る所で見られる被爆した樹木たち。普段はあまり身近すぎて、ついつい見過ごしてしまいがちですが、気が付くとふと立ち止まって見入ってしまいます。力強い生命力とともに美しさを感じる被爆樹は、人を惹きつける魅力があるのです。原爆による傷跡はケロイドのようにも見え、「よく頑張りました」と、思わず幹をさすりたくなります。あの原爆に耐え、風雪に耐え、猛暑に耐え、豪雨に耐えてきたのです。被爆者の生と死、めまぐるしく変わる街の景色を見守ってきたのです。被爆樹は原爆の被害者として広島市民と共に生きてきたのです。
 広島市の被爆樹リストは90カ所近くがあげられています。そのほかに民間などが管理する樹木も数多くあり、合わせると市内には170本ほどの被爆樹があるようです。ソメイヨシノやツバキ、ウメ、フジ、イチョウ、クスノキなど種類も様々です。被爆当時からそのままの場所に生えている木もありますが、移植されたものもあります。私が知る限りでは被爆樹と分かるプレートがついていますから、判別するのはそう難しくないと思います。ネットでも被爆樹の場所が分かるサイトがありますので、被爆樹を探すことは意外に簡単です。
 先週、広島も桜の開花が発表されました。市内の江波山は花見の名所として有名ですが、ここにも被爆樹のエバヤマザクラがあります。散歩するのにとても爽やかな気候になってきましたから、被爆樹を目当てに花見や散策はいかがですか。凛として空に伸びる被爆樹は、被爆の歴史を語ってくれるかもしれません。

 

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2019年3月21日 (木)

無言の語り部たち①~旧陸軍被服支廠の再利用

 桜の開花宣言が各地で発表されました。散歩が楽しい季節になってきました。いつもの街を少し違う角度から眺めてみるのはいかがでしょうか。
広島市内には被爆建物があります。原爆を受け、そのまま現在も残されている建物のことです。その被爆建物の中でも大きな規模で被爆時の姿をそのまま留めているものに旧陸軍被服支廠(南区出汐)があります。レンガ造りの重厚な趣は当時の陸軍がいかに膨大な予算を使って建設し、運営していたのかが一目で分かります。広島では近年この建物を平和学習の場にする計画が持ち上がっています。
 旧陸軍被服支廠では、かつて軍服や軍靴を製造していました。戦時中は在韓被爆者の方たちも働いていました。被爆後は避難所となり、被爆当時の様子は峠三吉の詩にも描かれています。広島市内に残る被爆建物が次々と壊されたり移築されたりする中で、当時の場所にそのままの姿で建っていることはとても貴重です。古い記事で恐縮ですが、今年1月6日の中国新聞の記事では「2017年度の来場者は1102人」と書かれており、多くの方が関心を示していることがわかります。また建築物としても価値が再考され、同記事では「巨大なコンクリートの屋根裏はほかに類がない。」と専門家からも注目を集めている様子が書かれていました。
 活用にあたって一番の課題は建物の耐震問題です。4棟が現存していますが、1棟当たり約33億円もの耐震費用がかかるようなのです。現在、建物の所有は広島県で、費用をどう集めるのか、具体的にどう活用していくのかといった検討は進んでいないようです。建物として本来持っている魅力が十分にありますから、平和学習としての資料館や民間企業による商業施設など、様々な方面の役割を併用すれば、人を呼ぶことができるでしょう。建物が活用されれば当然地域の活性化にもつながります。こうした被爆建物を活かしていくのも、やはり人ですから、旧陸軍被服支廠の再活用を広島市民一人一人が考えていく必要があります。そしてそのためには、まず多くの方が被爆建物を見に行くことが先決ではないでしょうか。行けば活用されていないもったいなさが、よくわかると思います。被爆建物は広島の財産です。是非、多くの方にご覧いただきたいと思います。

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2018年8月29日 (水)

酷暑の86。今年も様々な方の思いがヒロシマに集まりました

 戦後73年目を迎える今年の8月6日は酷暑でした。広島は連日最高気温が35度を超えました。この暑さに加え豪雨災害もあってか、平和祈念式典の参加者は例年より少なく感じました。今年の86で見聞きしたことをドキュメント風にお伝えします。

 

まず前日8月5日に行われた韓国人原爆犠牲者慰霊祭はテレビ局がほとんど来ていなかったことに驚きました。私は十数年間、この慰霊祭を見ていますが今年ほどテレビ局の取材が来ていない年はなかったように感じます。災害のため取材が被災地に行っている可能性が高いと思いますが、それにしても日本のテレビ局の少なさにびっくりしました。そんな中で今年も韓国のテレビ局は来ており、在日コリアンの被爆者の方々にインタビューをされていました。韓国からどのような思いを持って来日されているのか、韓国国内でどのように放送されているのか、いつも気になっています。いつか機会があれば拝見したいものです。慰霊祭の来賓には国連の軍縮担当上級・中満泉代表がおられました。軍縮担当の方が韓国人被爆者に関心を持っておられることに、興味をひかれました。国連として韓国人被爆者をどう感じておられるのでしょうか。

この日の午後は被爆二世の会の集会もありました。原水禁広島大会の分科会「ひろば被爆二世・三世問題について」です。こちらも例年に比べ参加者が少なく寂しく感じました。しかし二世の方たちの体験や思いをしっかりと聞くことができました。二世運動は被爆者とは違い直接の被害者ではないため、一般には分かりにくい運動だと思います。二世の方が訴えた「二世運動は反戦、反核、反原発、そして二世の国家補償が4つの柱。それが歴史的使命だ」という言葉が強く心に響きました。

 

翌6日は早朝から出かけました。日が昇り暑くなる式典を避け、暗いうちに参拝する方が多いことは聞いていました。この早朝の参拝こそがヒロシマの被爆者や遺族たちの本音なのかもしれないとずっと思っていました。今年初めて早朝の慰霊碑を訪れることにしました。4時半頃、平和公園に着いたのですが、すでにマスコミの方々は取材の真っ最中でした。数多くのテレビカメラや新聞等のカメラが慰霊碑の前で待ち構えていました。マスコミの数に比べ、訪れる参拝客はそう多くはなく、物静かに参拝し帰っていかれます。夜が明けるにしたがって参拝客は次第に少なくなっていきました。マスコミの方からお聞きしたのですがここ数年、早朝の参拝者はめっきり減っているそうです。被爆者の平均年齢は82歳です。外に出ていくにもお辛くなってきておられるのだと思いました。

8時からの平和祈念式典は会場周辺の公園の中で見ていました。広島市内の方よりも国内各地、世界各国から参加されているという感じがするのは例年通りなのですが、ここでも人が少なく思えました。なぜなら式典を写すモニターをラッシュ時の電車のような状況で見るのが常だったのが、今年は隙間が空いていたからです。式では広島県知事の挨拶が印象的でした。核兵器を持つ国々を隣家にしかけた爆弾と比喩した言葉が非常に分かりやすく、世界の薄寒い状況をよく表していると感じました。

実は市内では住民や関係者主催の原爆慰霊祭が各地で行われています。私はなかなか行くことができないのですが、県外の方はご存知ない方もおられるのではないかと思います。機会があれば、是非こうした市民の手作りの慰霊祭も参加されてみてはと思います。表にでることはない広島市民の心根を知ることができるかもしれません。

広島の8月6日は特別な日です。亡くなった方を思い、平和をあらためて実感し、核兵器の廃絶への願いが街に満ち溢れる日です。一人でも多くの方が広島に来られ、あの日、起こったことを感じてほしいと願っています。

 

 

 

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2018年7月18日 (水)

西日本豪雨災害、お見舞い申し上げます。

 西日本豪雨災害から2週間近くなりましたが、被災地の復旧はまだ見通しが立たない状況です。被害にあわれた方々におかれましてはお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々におかれましては心よりご冥福をお祈りいたします。ご不明の方が1日も早く見つかりますようお祈り申し上げます。

 猛暑の中、復旧作業やボランティアに尽力されている方々におかれましては安全に留意されることをお祈りいたします。

 

雨は降り始めの夜から延々と続き、スマホの避難警報が鳴りっぱなしでした。自分のところは大丈夫だと思いながらも、被害がどこかにでそうだと思いました。しかし、まさかこれほどの災害になるとは想像もつきませんでした。友人や知人に連絡したところ、帰宅困難になった方や水害にあわれた方がいました。断水地域の方は今も給水所から水を得ています。トイレも不便で、洗濯ができず、お風呂に入れないのが辛いとおっしゃっていました。

 

現在も国道が分断され、JR不通区間の復旧は場所によっては1年以上かかる見込みのようです。交通機関のダメージは、流通に大きな影響を与え、郵便や宅配便は止まってしまいました。当初はコンビニエンスストアやスーパーに物が入らず、特に水などの棚は空っぽでした。場所によっては水のみならず、カップ麺の購入数も限定されたという話を聞きました。先週まではテレビや新聞などのマスコミでも一部の被災地しか取り上げていなかったため、どうなっているのか全容が皆目見当もつきませんでした。

今回、被災地の状況をいち早く伝えたのはネットでした。被災された方の大きな力となったのもツイッターやフェイスブックなどのSNSだったようです。リアルタイムで被害映像を伝え、救済を求める声が命を助けたケースもありました。ボランティアもSNSで集まっているようです。ネットという災害に比較的強い手段が被災者の味方になったのです。

被災地ではまだまだ人手が必要です。広範囲にわたる被災地のため土砂の撤去作業、災害ゴミの撤去作業だけも長期間にわたることでしょう。高齢者の多く住む地域は情報すら入らず、発信できず、困っているようです。デマや過去情報の拡散といったトラブルもあるため、情報をあげる際の確認、注意は必須ですが、SNSの活用をしていきたいと思っています。

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2018年6月 8日 (金)

若者は何を見るのか~高校生平和大使決定

今年の高校生平和大使が先週6月1日に決まりました。全国から応募があった約500人の中から15都道府県の20人が選ばれました。高校生平和大使は核兵器廃絶を求める署名を集め、毎年スイスのジュネーブの国連欧州本部に届けています。この活動は1998年から始まり、今年のノーベル平和賞候補にもなりました。選ばれた平和大使は8月下旬に国連欧州本部軍縮部門などを訪問する予定となっているようです。今日の中国新聞によると昨日7日には、国会内で平和大使の活動報告会があり、経験者らが自身の経験を語ったということです。

昨年までに平和大使が国連欧州本部に届けた署名は1677000人分以上といいますから、単純計算で毎年8万3000人以上の署名を集めていることになります。私も広島市内で高校生たちが署名活動をしている姿を幾度となく見ました。街中、大きな声で署名のお願いをしている高校生たちをみると、とても頼もしく感じました。

署名は地道な活動です。誰もが喜んで署名してくれるわけではありません。時には嫌がられることもあるでしょう。高校生たちはそうした大人たちをどう感じるのでしょうか。国連欧州本部では英語でスピーチも行います。また国内で様々な場面で報告会も行います。こうした経験が高校生の平和意識に与える影響は計り知れません。

「核兵器廃絶」というと大人の平和運動と思いがちですが、このように高校生も活動しています。20年間という長きに渡ってこの活動に参加した高校生は、決して少なくない数で世の中に旅立っています。以前出会った元高校生平和大使はマスコミに入っていました。順番でいうと、マスコミとして出会った方が元高校生平和大使でした。今年、決まった高校生たちにとって平和大使がどのような形になって人生に結びついていくのか。日本の若い方たちへの希望が膨らみます。

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