広島から

広島での集会、イベント、広島で起こった出来事など広島から見たこと

2018年8月29日 (水)

酷暑の86。今年も様々な方の思いがヒロシマに集まりました

 戦後73年目を迎える今年の8月6日は酷暑でした。広島は連日最高気温が35度を超えました。この暑さに加え豪雨災害もあってか、平和祈念式典の参加者は例年より少なく感じました。今年の86で見聞きしたことをドキュメント風にお伝えします。

 

まず前日8月5日に行われた韓国人原爆犠牲者慰霊祭はテレビ局がほとんど来ていなかったことに驚きました。私は十数年間、この慰霊祭を見ていますが今年ほどテレビ局の取材が来ていない年はなかったように感じます。災害のため取材が被災地に行っている可能性が高いと思いますが、それにしても日本のテレビ局の少なさにびっくりしました。そんな中で今年も韓国のテレビ局は来ており、在日コリアンの被爆者の方々にインタビューをされていました。韓国からどのような思いを持って来日されているのか、韓国国内でどのように放送されているのか、いつも気になっています。いつか機会があれば拝見したいものです。慰霊祭の来賓には国連の軍縮担当上級・中満泉代表がおられました。軍縮担当の方が韓国人被爆者に関心を持っておられることに、興味をひかれました。国連として韓国人被爆者をどう感じておられるのでしょうか。

この日の午後は被爆二世の会の集会もありました。原水禁広島大会の分科会「ひろば被爆二世・三世問題について」です。こちらも例年に比べ参加者が少なく寂しく感じました。しかし二世の方たちの体験や思いをしっかりと聞くことができました。二世運動は被爆者とは違い直接の被害者ではないため、一般には分かりにくい運動だと思います。二世の方が訴えた「二世運動は反戦、反核、反原発、そして二世の国家補償が4つの柱。それが歴史的使命だ」という言葉が強く心に響きました。

 

翌6日は早朝から出かけました。日が昇り暑くなる式典を避け、暗いうちに参拝する方が多いことは聞いていました。この早朝の参拝こそがヒロシマの被爆者や遺族たちの本音なのかもしれないとずっと思っていました。今年初めて早朝の慰霊碑を訪れることにしました。4時半頃、平和公園に着いたのですが、すでにマスコミの方々は取材の真っ最中でした。数多くのテレビカメラや新聞等のカメラが慰霊碑の前で待ち構えていました。マスコミの数に比べ、訪れる参拝客はそう多くはなく、物静かに参拝し帰っていかれます。夜が明けるにしたがって参拝客は次第に少なくなっていきました。マスコミの方からお聞きしたのですがここ数年、早朝の参拝者はめっきり減っているそうです。被爆者の平均年齢は82歳です。外に出ていくにもお辛くなってきておられるのだと思いました。

8時からの平和祈念式典は会場周辺の公園の中で見ていました。広島市内の方よりも国内各地、世界各国から参加されているという感じがするのは例年通りなのですが、ここでも人が少なく思えました。なぜなら式典を写すモニターをラッシュ時の電車のような状況で見るのが常だったのが、今年は隙間が空いていたからです。式では広島県知事の挨拶が印象的でした。核兵器を持つ国々を隣家にしかけた爆弾と比喩した言葉が非常に分かりやすく、世界の薄寒い状況をよく表していると感じました。

実は市内では住民や関係者主催の原爆慰霊祭が各地で行われています。私はなかなか行くことができないのですが、県外の方はご存知ない方もおられるのではないかと思います。機会があれば、是非こうした市民の手作りの慰霊祭も参加されてみてはと思います。表にでることはない広島市民の心根を知ることができるかもしれません。

広島の8月6日は特別な日です。亡くなった方を思い、平和をあらためて実感し、核兵器の廃絶への願いが街に満ち溢れる日です。一人でも多くの方が広島に来られ、あの日、起こったことを感じてほしいと願っています。

 

 

 

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2018年7月18日 (水)

西日本豪雨災害、お見舞い申し上げます。

 西日本豪雨災害から2週間近くなりましたが、被災地の復旧はまだ見通しが立たない状況です。被害にあわれた方々におかれましてはお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々におかれましては心よりご冥福をお祈りいたします。ご不明の方が1日も早く見つかりますようお祈り申し上げます。

 猛暑の中、復旧作業やボランティアに尽力されている方々におかれましては安全に留意されることをお祈りいたします。

 

雨は降り始めの夜から延々と続き、スマホの避難警報が鳴りっぱなしでした。自分のところは大丈夫だと思いながらも、被害がどこかにでそうだと思いました。しかし、まさかこれほどの災害になるとは想像もつきませんでした。友人や知人に連絡したところ、帰宅困難になった方や水害にあわれた方がいました。断水地域の方は今も給水所から水を得ています。トイレも不便で、洗濯ができず、お風呂に入れないのが辛いとおっしゃっていました。

 

現在も国道が分断され、JR不通区間の復旧は場所によっては1年以上かかる見込みのようです。交通機関のダメージは、流通に大きな影響を与え、郵便や宅配便は止まってしまいました。当初はコンビニエンスストアやスーパーに物が入らず、特に水などの棚は空っぽでした。場所によっては水のみならず、カップ麺の購入数も限定されたという話を聞きました。先週まではテレビや新聞などのマスコミでも一部の被災地しか取り上げていなかったため、どうなっているのか全容が皆目見当もつきませんでした。

今回、被災地の状況をいち早く伝えたのはネットでした。被災された方の大きな力となったのもツイッターやフェイスブックなどのSNSだったようです。リアルタイムで被害映像を伝え、救済を求める声が命を助けたケースもありました。ボランティアもSNSで集まっているようです。ネットという災害に比較的強い手段が被災者の味方になったのです。

被災地ではまだまだ人手が必要です。広範囲にわたる被災地のため土砂の撤去作業、災害ゴミの撤去作業だけも長期間にわたることでしょう。高齢者の多く住む地域は情報すら入らず、発信できず、困っているようです。デマや過去情報の拡散といったトラブルもあるため、情報をあげる際の確認、注意は必須ですが、SNSの活用をしていきたいと思っています。

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2018年6月 8日 (金)

若者は何を見るのか~高校生平和大使決定

今年の高校生平和大使が先週6月1日に決まりました。全国から応募があった約500人の中から15都道府県の20人が選ばれました。高校生平和大使は核兵器廃絶を求める署名を集め、毎年スイスのジュネーブの国連欧州本部に届けています。この活動は1998年から始まり、今年のノーベル平和賞候補にもなりました。選ばれた平和大使は8月下旬に国連欧州本部軍縮部門などを訪問する予定となっているようです。今日の中国新聞によると昨日7日には、国会内で平和大使の活動報告会があり、経験者らが自身の経験を語ったということです。

昨年までに平和大使が国連欧州本部に届けた署名は1677000人分以上といいますから、単純計算で毎年8万3000人以上の署名を集めていることになります。私も広島市内で高校生たちが署名活動をしている姿を幾度となく見ました。街中、大きな声で署名のお願いをしている高校生たちをみると、とても頼もしく感じました。

署名は地道な活動です。誰もが喜んで署名してくれるわけではありません。時には嫌がられることもあるでしょう。高校生たちはそうした大人たちをどう感じるのでしょうか。国連欧州本部では英語でスピーチも行います。また国内で様々な場面で報告会も行います。こうした経験が高校生の平和意識に与える影響は計り知れません。

「核兵器廃絶」というと大人の平和運動と思いがちですが、このように高校生も活動しています。20年間という長きに渡ってこの活動に参加した高校生は、決して少なくない数で世の中に旅立っています。以前出会った元高校生平和大使はマスコミに入っていました。順番でいうと、マスコミとして出会った方が元高校生平和大使でした。今年、決まった高校生たちにとって平和大使がどのような形になって人生に結びついていくのか。日本の若い方たちへの希望が膨らみます。

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2018年4月28日 (土)

4.26チェルノブイリデー座り込みに参加して

 チェルノブイリ原発事故が起きたのは1986年4月26日でした。その時の世界の驚きと恐怖は今でも覚えています。遠く離れた日本でも食品汚染などに敏感になっていたように思います。チェルノブイリ原発事故が起きた翌年から広島では原爆慰霊碑前で座り込み行動をしていたそうです。「核と人類は共存できない」として、被爆者を始めとする市民が訴え続けていたのです。この度、私も座り込みに参加しました。ヒバクシャは原爆被害者だけではないからです。

 

 座り込み行動は4月26日の午後1215分から30分間、平和公園の原爆慰霊碑前で行われました。暑い日差しの中、80人以上が参加しました。存知あげている方も初めてお見受けする方もいらっしゃいましたが、これほど多くの方が参加されているのかと思いました。そして座り込み行動を取材するマスコミの数が多いのにも驚きました。広島ではチェルノブイリ原発は過去の出来事ではないのです。

 

そもそも慰霊碑前の座り込み行動は学者で平和活動家の森滝市郎先生が始められたものです。森滝先生は被爆者で核兵器廃絶に尽力された日本の反核運動の先駆者です。森滝先生は非暴力の抗議として座り込みという行動をとり、「ヒロシマの心」として運動家の間に広がりました。この森滝先生の意思に賛同し継いだ方々が今日の座り込みを行っています。

 

この度の座り込み行動で「原発事故は新たなヒバクシャを作る。人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被った私たちヒロシマは、放射線被害の恐ろしさを最もよく知っている。原発の再稼働・新増設を許してはならない」とアピールが行われました。

おりしも修学旅行生が大勢来広していました。この座り込み行動も見ていました。声高に叫ぶことのない静かな抗議行動の意味を十分に感じ取ってくれたのではないかと思いました。非暴力の沈黙の抗議が持つ大きな力を心に刻んだ30分間となりました。

 

 

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2018年2月 6日 (火)

ヒロシマの怒り

今朝の中国新聞の社説は怒りに満ちたものでした。アメリカのトランプ政権が打ち出した核戦略見直し(NPR)に対し、日本政府が『「拡大抑止力が強化される」と歓迎した。(中国新聞2018年2月6日)』ということのためです。米国の小型核兵器開発は『抑止どころか、核使用のハードルを下げるだけであり、とんでもないことだ。(中国新聞2018年2月6日)』と怒りをあらわにしていました。  

 

戦争を放棄し非核三原則を掲げている日本の、新たな核兵器開発容認ともとれる対応に中国新聞の怒りの社説は当然のことだと思います。広島と長崎はたった1発の原爆で都市が消滅し、同年に合わせて20数万人の死亡者が出ました。地獄のような惨劇から生き残った被爆者は苦しみが今もなお続いています。私は被爆地に来て初めて原爆被害の実態を知りました。被爆者の平均年齢は82歳くらいですから、被爆時は10歳にも満たない子供でした。子供たちは70年以上、悲しみとトラウマの中、頑張って生き続けてきました。同時に被爆者は同じ苦しみを味わってほしくないと現在まで核廃絶を訴えてきたのです。それなのにどうして、というのが被爆地での素直でまっとうな反応だと思います。

 

中国新聞が広島の被爆者や市民の声を代弁しているというのを言いすぎとは思いません。中国新聞は毎日のように核兵器や米軍基地、被爆者を取り上げ、その問題点や課題などを被爆者や市民という被害者や弱者の目線で伝えているからです。原爆の被害を広島と長崎の二か所も受けた日本は核兵器被害の苦痛を忘れてしまったのでしょうか。日本国民のみならず植民地や外国の方たちに被害をもたらした核兵器の恐怖と非人道性を日本政府はいつ世界に伝えるのでしょうか。

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2018年1月12日 (金)

2018年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

折り鶴といえば世界的に平和のシンボルとなりましたが、恐らく広島発ではないかと思います。被爆した佐々木貞子さんが病気回復の願いを込めて作ったのが折り鶴でした。残念ながら佐々木貞子さんは亡くなりましたが、折り鶴は平和のシンボルとなったのです。広島の平和記念公園には折り鶴があちこちに飾られています。これは世界中の方々が戦争で亡くなった方への鎮魂の気持ちと平和を願って一つひとつ折ったものです。私は平和記念公園に来て初めてこれらの折り鶴を見た時、その数の多さに驚きました。そしてこの折り鶴はどこに収められているのだろうと思いました。「原爆の子の像」だけで年間約1,000万羽、10トン以上にも上る折り鶴があるそうですから、その扱いも大変なものだと思います。

 

以前はこの折り鶴は焼却処分されていたといいます。しかし再生利用できないかという声があがり、広島市は「折り鶴に託された思いを昇華させるための方策」として2011年から検討を始めました。広く市民からアイデアを募集し、現在まで様々な活用を行っています。現在まで、8月6日に行われる灯篭流しに使われる色紙への再生や折り鶴モザイクアート、展示など多様な方法で人々に活用され、多くの人々の目に触れられています。平和を希求する人々の思いが形となっているのです。

 

昨日、この折り鶴の新しい利用がニュースになりました。県中小企業家同友会の有志が再生紙を使ってノートを作り、海外の子どもたちに無償提供するというのです。すでに3ケ国から申し込みがあるようです。ノートには原爆の子の像のモデルとなった佐々木貞子さんの紹介や被爆直後の市内の様子も掲載されているといいます。原爆の恐ろしさと平和の尊さがノートを手に取った子どもたちに伝わるのです。ノートには折り紙が1枚入っているといいます。折り鶴が作れるように図入りで折り方が解説されているそうです。2018年が戦争のない平和な年になるよう折り鶴は世界に羽ばたこうとしています。

 

 

 

 

 

 

 

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2017年10月12日 (木)

ノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞!

「不断の努力を続けてきた数百万の活動家たち、そして広島と長崎、世界各地の実験場のヒバクシャたちへの賛辞だ。(中国新聞107日)」ICANのフィン事務局長の言葉が世界のヒバクシャたちに希望と勇気を与えました。

すでに御承知のように本年度のノーベル平和賞にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞しました。広島では大きな話題になり、被爆者の方たちや長年にわたって平和活動をされてきた方々から喜びの声があがりました。今回は中国新聞の記事を中心にご紹介し、広島の願いが世界に届いた瞬間の熱気をお伝えします。

ノーベル平和賞受賞後の翌107日の中国新聞は1面からノーベル賞の話題であふれました。全35ページ中7ページにノーベル賞関連の記事が掲載されていました。1面のタイトルは「ノーベル平和賞ICAN 核兵器禁止条約に貢献 国際NGO広島・長崎と連携」です。受賞の理由や県被団協の声などが載っていました。同時に松井広島市長と湯崎広島県知事から核兵器禁止条約発効の期待も述べられていました。

23面は「非人道性世界が共有 条約見参加 政府に圧力 「核の傘」転換促す」のタイトルで、核兵器禁止条約に対する受賞者の声と、日本政府や米政府の反応が比較されていました。『「世界の緊張が高まる今こそ、各国が核兵器反対を明確に宣言すべきだ」』というICANの声とともに、日本政府の『「反核の世論が高まり、日本政府は対応を考えることにはなるだろう」』というコメントは核兵器禁止条約への機運の高まりを感じさせる内容でした。

「授賞理由の要旨」と「ICANと核兵器禁止条約実現への歩み」が掲載された10面は平和賞としての基本的な理念が示されていました。受賞理由の中に『「一、核なき世界実現に向けた次の一歩を踏み出すには、核兵器保有国の参加が不可欠ということを強調したい。核保有国には、核兵器削減に向けた真剣な交渉を始めるよう求める。」』という一文があり、この受賞は栄誉を称えるためだけのものではなく、人類が未来に向かって行動するためのものでもあることが分かりました。11面の受賞者や識者のコメントからは核兵器廃絶へ向けた新たな決意が伝わり、受賞して終わりではなく世界が核廃絶へ踏み出す第一歩なのだということを感じさせる内容になっていました。

最終ページに近い社会面の3233面は受賞の喜びを分かち合う広島市民の様子が掲載されていました。『「ヒロシマにも勇気 被団協など歓迎 市民ら国際的うねり期待」「市民の力共感広がる 禁止条約連携促す 広島の加盟団体喜び 「活動進める励みになる」」』のタイトルはこれまで“ヒロシマの心”として反核・平和を叫び続けてきた広島市民の思いがあふれていました。広島平和文化センター理事長だったスティーブン・リーパーさんの『「広島をはじめ日本国内に住む人たちが核の問題を考え、核の傘に入る日本政府の姿勢に怒りが沸くよう意識を変えないといけない」』というコメントは核兵器に対して、私たち一人一人が考えていかなければいけない問題なのだということを教えてくれました。この度の平和賞受賞は私たち自身への大きな問いかけなのかもしれません。

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2017年9月30日 (土)

無言館の画家たちが語るもの

皆さんは無言館をご存知ですか?無言館は長野県上田市にある美術館で、1997年に開館しました。ここには戦争のため画家になる夢を叶えることができなかった美術家たちの作品が日本各地から収集され展示されています。先日、呉市立美術館で開催されている「無言館 遺された絵画展」を見てきました。呉市立美術館には無言館から約130点の絵画や遺品が寄せられています。作者は北海道から九州まで様々な出身地で中には朝鮮出身者もいました。戦時中、呉市は戦艦大和など多くの軍艦を建造した軍港を抱え、日本でも有数の海軍工廠のまちでした。広島市内にある宇品港は海外派兵の拠点でした。広島は戦時中、多くの兵隊となった若者が集まる場所でした。そう考えると、今回の絵画展は作者たちが再び広島に戻ってきたといえるかもしれません。私は無言館のことを知らず、正直なことを言うと、戦争で亡くなっていった若者の作品をみるのは少し辛いなあと思っていました。しかし見終わって行ってよかったと思いました。

作品は美術館の1階と2階の部屋を使用して展示されていました。絵画と共に作者一人一人のプロフィールと召集年時や最後の場所、どのような理由で亡くなっていったのかなどが丁寧に説明されていました。見終わると絵画を鑑賞するというのではなく、作者一人一人の人生を描いた映画や小説を鑑賞したような気持ちになりました。若く才能豊かで絵画をこよなく愛する若者たち。この表現が決して誇張ではないのが、殆どが今の美大にあたる学校の学生であったり、絵画教師であったり、広告など商業分野でその腕を発揮していた方たちばかりだからです。作品はどれも見ごたえがありました。特に召集前夜に描かれた絵や家族を描いた絵には悲しみや、その奥の奥にある静かな怒りを感じずにはおれませんでした。

展示の中には広島出身の作家もいました。宇品で出港を待っている時に被爆した手島守之輔の作品が一部屋を使い特別展示されていました。手島は竹原に生まれ東京の美術学校をでたあと、地元に戻り教師をしていた際に召集されました。優しく穏やかな絵が多い中、暗い色で描かれた自画像はまるで自身の行く末を暗示するようでした。

戦争がどれだけ多くの芸術家の将来を奪い、人類の遺産となったかもしれない傑作の誕生をつぶしたのか。無言館の作品は戦争の無意味さを痛感させます。「あと10分、あと5分でいいから描かせてくれ」と筆を握っていた芸術家たちの命を私たちはどのようにつないでいくのか。それは平和しかありません。いつか、長野県にある無言館に行きたいと思っています。無言館の絵画展は1119日まで、呉市立美術館で開催されています。

 

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2017年8月20日 (日)

今年の8月6日の過ごし方

 被爆72年目のヒロシマの86日は暑さが私たちを迎えました。6日の広島市の最低気温は29度。原爆が落とされた日の朝の気温は27度くらいだったようですから、2度ほど暑いようです。私も朝から動いていたのですが、知り合いに会うたびに「暑いですね」という挨拶を交わしました。平和祈念式典に参列された方々もお体が大変だったと思います。お疲れ様でございました。毎年のこととはいえ85日と6日はどこに行こうか困ってしまいます。集会が多く時間も重複しているからです。私の今年の86の過ごし方をご紹介します。

まず5日は早朝から平和公園周辺を撮影し、10時から開催される韓国人原爆犠牲者慰霊祭を撮影しました。午後からは原水禁世界大会広島大会の被爆二世の分科会に参加。分科会が終わると同時に「86ヒロシマ平和へのつどい2017」に移動し、記念講演などを聴きました。帰宅後は撮影した映像のバックアップを行いました。バックアップには結構時間がかかります。2時間程度かけて終わり、ようやくこの日の作業は終了です。

 翌6日は朝から「グラウンド・ゼロのつどい」や「追悼のダイイン」、原爆ドーム周辺を撮影し、その後は山口の被爆二世の会が行っている「86広島青空式典」に参加、撮影もしました。午後からは放射線影響研究所のオープンハウスに行き、閉館時間の4時までじっくり見学を行いました。

 今年は気温だけではなく、運動団体の活動も熱気に満ちていたように感じます。「86ヒロシマ平和へのつどい2017」の記念講演は日本を代表する社会運動家で政治評論家の武藤一羊氏が行いました。広い会場には全国各地から様々な方が集まり、熱心に聞き入っていました。武藤氏がこれからの日本について「日本社会が社会的に自立性を持った時、多民族社会はいいことだと認めるようになる。大陸や半島が開かれる状況を作っていくと面白い」と述べていた言葉が印象に残りました。

 また被爆二世の会のチラシを配っていた時のことです。チラシを受け取られた一人の男性が被爆二世に強い関心を寄せました。聞くとご自身は入市被爆者だけれど被爆者手帳を持っていないということでした。その方の周囲には被爆二世もおられ、やはり健康面での不安をお持ちのようでした。二世の運動を全面的に応援していると力強い言葉をかけてくださいました。被爆二世のチラシは通行人に配っていたのですが、あっという間になくなってしまいました。皆さんの関心が被爆二世にも向いていることを信じたくなる出来事でした。

 ざっとですが、だいたい毎年このような感じで過ごしています。今年は陜川の原爆資料館が開館するということで、そちらにも行きたい気持ちはあったのですが体は一つ。陜川へは折を見つけて行くことにしました。今年の広島市長の平和宣言では日本政府に対し「日本国憲法が掲げる平和主義を体現するためにも、核兵器禁止条約の締結促進を目指して核保有国と非核保有国との橋渡しに本気で取り組んでいただきたい」と強く要望しました。今年の平和宣言には心なしか被爆体験を多く盛り込んでいたような気がします。被爆者は、ヒロシマは72年経っても原爆投下の悲劇を忘れることはありません。そして私たちは原爆を過去のものにしてはいけないのです。

 

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2017年4月25日 (火)

広島平和記念資料館東館が明日、リニューアルオープンします

明日、広島平和記念資料館東館がリニューアルオープンします。一足早く、24日の内覧会に行ってきましたので、どのような展示だったのかご紹介します。

まず目を引いたのが「ホワイトパノラマ」です。被爆前と後の光景をCGで映していく映像はリアリティがあり、86日に何が起こったのかを目の前に再現してくれます。広島市内を上空から見ているため、爆発の瞬間は吸い込まれそうになります。わずか2分弱の映像時間に原爆の破壊力がいかにすごかったかが凝縮されていました。

今までと大きく変わったのは「メディアセンター」というタッチパネル式の検索画面があることです。2、3階の各階にタッチパネル画面があり、様々なテーマで情報を探すことができます。文字や写真のみならず動画もあり、ほとんど見ることのない昔の広島の動く風景が見られます。

在韓被爆者関連の展示で言えば「広島の歩み」のコーナーに、三菱徴用工の写真パネルが展示されていました。またメディアセンターで「戦時下の広島」や「被爆者と援護」の中に朝鮮人被爆者についての記述がありました。以前と比較すると在韓被爆者に関する記述が少ないように感じました。

全体的な感想は、洗練された博物館のようでした。原爆を実際に受けたら人間がどれくらいの血を流し体もボロボロになるのか、被爆者が受けた生身の体験を感じるところがなかったのが残念でした。また展示パネルの文字が小さく読みづらさを感じました。タッチパネルではワードでの検索機能がないため、在韓被爆者関連、朝鮮人被爆者関連の項目を探すのに苦労しました。検索ボックスまでとは言いませんが五十音順の検索項目を作ってほしいところです。

被爆直後の人形(被爆再現人形)は今日で役目を終えるそうです。撤去に関しては賛否両論あり、残すよう市民から強く要望があったのも事実です。一緒に内覧会に参加した被爆者の方が「人形はあった方がよかった。私は子供たちに証言する時「実際はあの人形よりひどかったんだよ」と話していた。あれがなければ実感としてわかりづらいのではないか」と言っておられました。原爆で町や行政機能などに被害がでましたが、やはり一番の被害は人間です。人間がどんな状況になったのか、生身に何が起こったのかを分かりやすく伝えなければ、原爆の恐ろしさや非人道性を実感することは難しいのではないかと思います。

 

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