広島から

広島での集会、イベント、広島で起こった出来事など広島から見たこと

2019年7月31日 (水)

ヒロシマとピースツーリズム

広島市は徒歩や自転車、バスなどで平和関連施設をめぐるルートをネットで紹介するピースツーリズムを行っています。スマホ片手に広島市内を回ってもらおうというものです。ピースツーリズムは一般の観光と何が違うのでしょう。ピースツーリズムを一言でいうと「考える観光」です。

 

去る7月20日に広島国際会議場で広島大学平和センター主催の「2019年度国際シンポジウム」が開催されました。テーマは「HIROSHIMAとピースツーリズム」です。国内外から研究者が来られ、様々な角度からピースツーリズムに関する話題が提供されました。

 

ヒロシマに来る観光客に関して、観光サイト「トリップアドバイザー」の口コミを分析された先生がおられました。広島に来る観光客にとって平和記念資料館や平和公園は「考える場所」だといいます。観光に来たのに現地に来たら見方が変わったというのです。平和について考えたのです。口コミは英語つまり外国人観光客でも日本人観光客でも同じ結果だったそうです。

 

また韓国の大学の先生は朝鮮半島の非武装地帯観光について話されました。当初、韓国政府は国民に対し保安意識を持たせるために安保観光を始めたそうです。北朝鮮が掘ったトンネルを見せ、そして北朝鮮の様子を見せるために展望台を設けたのです。果たして韓国の国民がその非武装地帯の観光地に行って何を感じたかというと、韓国政府の意図とは全く違うものでした。先生は「現状を見ながら、違う考え方をする。過去を見ながら暴力ではないものを見る。韓国の市民は考えるようになった。そこにある建物を見るのではなく、動員された人を見、声を聞くのだ。人々は和解と平和を見出した」と話されました。韓国国民の目に映った非武装地帯は北朝鮮の人たちは敵ではないということでした。現在の非武装地帯の目玉は丹頂鶴だといいます。人が住まないのが原因かどうかは分かりませんが、野生の丹頂鶴の生息地となっているため、鶴の生態を見るための公園が整備されたのだそうです。丹頂鶴が優雅に舞う光景はさらに平和意識を持たせる場所に変わっていったのです。

ピースツーリズムは歴史を目の前に見ながら、過去を感じ、未来を考えるツアーと言ってもいいかもしれません。

 

広島を訪れる外国人観光客は年々右肩上がりに増加しています。最近は市内の被爆樹や戦争遺跡を回るツアーにも外国人観光客からの関心が集まっているようです。被爆樹や戦争遺跡に触れると、そこに被爆前の人々の生活を感じることができます。ヒロシマのピースツーリズムは被爆者に会って話さなくても、被爆者の気持ちや体験を感じ取ることができる貴重な旅なのです。

 

そしてこれが一番大事なことなのですが、ピースツーリズムでは、観光客と被爆者の心の出会いが生まれます。なぜなら観光客が広島の過去を通じて平和や戦争を考え、自分たちの国の平和について考えた時、被爆者はヒロシマの心が伝わったと感じるからです。観光客は被爆者と会っていなくても、ヒロシマで自国の平和を考えた時、被爆者の心と触れ合ったも同然なのです。

 

 

 

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2019年7月17日 (水)

86の広島からの平和宣言に注目です

蝉が鳴きはじめました。そしてもうすぐ今年もあの日がやってきます。8月6日の平和記念式典です。毎年読み上げられる広島市長による平和宣言は注目されていますが、今年は特に関心を集めています。というのも、日本政府に対して、核兵器禁止条約の署名・批准を求める文言を盛り込む方針であることが分かったからです。

平和宣言は核兵器廃絶と恒久平和への願いを世界に向けて発信するメッセージです。そこには広島市民、被爆者の思いと願いが込められています。広島市のHPによると、広島市民の平和への願いから1947年から平和祭が行われることになり、式典の中で浜井信三市長が平和宣言を行ったことが始まりのようです。

歴代の広島市長は時代に合わせながら、ご自身の思いも込めて文言を作ってきました。特に1991年の平岡敬市長の平和宣言は画期的な内容でした。日本の侵略戦争と植民地の人々への謝罪が含まれたものとなったからです。「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」との言葉には、平岡市長ご自身が関わってこられた数多くの朝鮮半島の被爆者たちへの思いが込められていたと思います。

今年の平和宣言に関しては被爆者団体や反核団体などが松井市長に対し、核兵器禁止条約の署名・批准を日本政府に求めるよう強く要望していました。7月13日の中国新聞によると「1日も早い廃絶を目指して禁止条約を推進する被爆者たちの声を重んじ、政府による署名・批准を「被爆者の思い」と明言する方向。」と書かれていました。12日には有識者や被爆者の懇談会において文案が了承されたということなので、内容はほぼ決定されているということでしょう。1945年から74年間、被爆者が願い続けてきた核廃絶禁止条約が発効されようとしているのです。被爆地である広島市長が平和宣言で言わないでいつ言うのかと思います。

 

浜井信三市長の初めての平和宣言をご紹介して、今回は終わりたいと思います。

「今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。ここに平和塔の下、われわれはかくのごとく平和を宣言する」。

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2019年3月25日 (月)

無言の語り部たち②~被爆樹

  広島の街を歩くと、至る所で見られる被爆した樹木たち。普段はあまり身近すぎて、ついつい見過ごしてしまいがちですが、気が付くとふと立ち止まって見入ってしまいます。力強い生命力とともに美しさを感じる被爆樹は、人を惹きつける魅力があるのです。原爆による傷跡はケロイドのようにも見え、「よく頑張りました」と、思わず幹をさすりたくなります。あの原爆に耐え、風雪に耐え、猛暑に耐え、豪雨に耐えてきたのです。被爆者の生と死、めまぐるしく変わる街の景色を見守ってきたのです。被爆樹は原爆の被害者として広島市民と共に生きてきたのです。
 広島市の被爆樹リストは90カ所近くがあげられています。そのほかに民間などが管理する樹木も数多くあり、合わせると市内には170本ほどの被爆樹があるようです。ソメイヨシノやツバキ、ウメ、フジ、イチョウ、クスノキなど種類も様々です。被爆当時からそのままの場所に生えている木もありますが、移植されたものもあります。私が知る限りでは被爆樹と分かるプレートがついていますから、判別するのはそう難しくないと思います。ネットでも被爆樹の場所が分かるサイトがありますので、被爆樹を探すことは意外に簡単です。
 先週、広島も桜の開花が発表されました。市内の江波山は花見の名所として有名ですが、ここにも被爆樹のエバヤマザクラがあります。散歩するのにとても爽やかな気候になってきましたから、被爆樹を目当てに花見や散策はいかがですか。凛として空に伸びる被爆樹は、被爆の歴史を語ってくれるかもしれません。

 

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2019年3月21日 (木)

無言の語り部たち①~旧陸軍被服支廠の再利用

 桜の開花宣言が各地で発表されました。散歩が楽しい季節になってきました。いつもの街を少し違う角度から眺めてみるのはいかがでしょうか。
広島市内には被爆建物があります。原爆を受け、そのまま現在も残されている建物のことです。その被爆建物の中でも大きな規模で被爆時の姿をそのまま留めているものに旧陸軍被服支廠(南区出汐)があります。レンガ造りの重厚な趣は当時の陸軍がいかに膨大な予算を使って建設し、運営していたのかが一目で分かります。広島では近年この建物を平和学習の場にする計画が持ち上がっています。
 旧陸軍被服支廠では、かつて軍服や軍靴を製造していました。戦時中は在韓被爆者の方たちも働いていました。被爆後は避難所となり、被爆当時の様子は峠三吉の詩にも描かれています。広島市内に残る被爆建物が次々と壊されたり移築されたりする中で、当時の場所にそのままの姿で建っていることはとても貴重です。古い記事で恐縮ですが、今年1月6日の中国新聞の記事では「2017年度の来場者は1102人」と書かれており、多くの方が関心を示していることがわかります。また建築物としても価値が再考され、同記事では「巨大なコンクリートの屋根裏はほかに類がない。」と専門家からも注目を集めている様子が書かれていました。
 活用にあたって一番の課題は建物の耐震問題です。4棟が現存していますが、1棟当たり約33億円もの耐震費用がかかるようなのです。現在、建物の所有は広島県で、費用をどう集めるのか、具体的にどう活用していくのかといった検討は進んでいないようです。建物として本来持っている魅力が十分にありますから、平和学習としての資料館や民間企業による商業施設など、様々な方面の役割を併用すれば、人を呼ぶことができるでしょう。建物が活用されれば当然地域の活性化にもつながります。こうした被爆建物を活かしていくのも、やはり人ですから、旧陸軍被服支廠の再活用を広島市民一人一人が考えていく必要があります。そしてそのためには、まず多くの方が被爆建物を見に行くことが先決ではないでしょうか。行けば活用されていないもったいなさが、よくわかると思います。被爆建物は広島の財産です。是非、多くの方にご覧いただきたいと思います。

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2018年8月29日 (水)

酷暑の86。今年も様々な方の思いがヒロシマに集まりました

 戦後73年目を迎える今年の8月6日は酷暑でした。広島は連日最高気温が35度を超えました。この暑さに加え豪雨災害もあってか、平和祈念式典の参加者は例年より少なく感じました。今年の86で見聞きしたことをドキュメント風にお伝えします。

 

まず前日8月5日に行われた韓国人原爆犠牲者慰霊祭はテレビ局がほとんど来ていなかったことに驚きました。私は十数年間、この慰霊祭を見ていますが今年ほどテレビ局の取材が来ていない年はなかったように感じます。災害のため取材が被災地に行っている可能性が高いと思いますが、それにしても日本のテレビ局の少なさにびっくりしました。そんな中で今年も韓国のテレビ局は来ており、在日コリアンの被爆者の方々にインタビューをされていました。韓国からどのような思いを持って来日されているのか、韓国国内でどのように放送されているのか、いつも気になっています。いつか機会があれば拝見したいものです。慰霊祭の来賓には国連の軍縮担当上級・中満泉代表がおられました。軍縮担当の方が韓国人被爆者に関心を持っておられることに、興味をひかれました。国連として韓国人被爆者をどう感じておられるのでしょうか。

この日の午後は被爆二世の会の集会もありました。原水禁広島大会の分科会「ひろば被爆二世・三世問題について」です。こちらも例年に比べ参加者が少なく寂しく感じました。しかし二世の方たちの体験や思いをしっかりと聞くことができました。二世運動は被爆者とは違い直接の被害者ではないため、一般には分かりにくい運動だと思います。二世の方が訴えた「二世運動は反戦、反核、反原発、そして二世の国家補償が4つの柱。それが歴史的使命だ」という言葉が強く心に響きました。

 

翌6日は早朝から出かけました。日が昇り暑くなる式典を避け、暗いうちに参拝する方が多いことは聞いていました。この早朝の参拝こそがヒロシマの被爆者や遺族たちの本音なのかもしれないとずっと思っていました。今年初めて早朝の慰霊碑を訪れることにしました。4時半頃、平和公園に着いたのですが、すでにマスコミの方々は取材の真っ最中でした。数多くのテレビカメラや新聞等のカメラが慰霊碑の前で待ち構えていました。マスコミの数に比べ、訪れる参拝客はそう多くはなく、物静かに参拝し帰っていかれます。夜が明けるにしたがって参拝客は次第に少なくなっていきました。マスコミの方からお聞きしたのですがここ数年、早朝の参拝者はめっきり減っているそうです。被爆者の平均年齢は82歳です。外に出ていくにもお辛くなってきておられるのだと思いました。

8時からの平和祈念式典は会場周辺の公園の中で見ていました。広島市内の方よりも国内各地、世界各国から参加されているという感じがするのは例年通りなのですが、ここでも人が少なく思えました。なぜなら式典を写すモニターをラッシュ時の電車のような状況で見るのが常だったのが、今年は隙間が空いていたからです。式では広島県知事の挨拶が印象的でした。核兵器を持つ国々を隣家にしかけた爆弾と比喩した言葉が非常に分かりやすく、世界の薄寒い状況をよく表していると感じました。

実は市内では住民や関係者主催の原爆慰霊祭が各地で行われています。私はなかなか行くことができないのですが、県外の方はご存知ない方もおられるのではないかと思います。機会があれば、是非こうした市民の手作りの慰霊祭も参加されてみてはと思います。表にでることはない広島市民の心根を知ることができるかもしれません。

広島の8月6日は特別な日です。亡くなった方を思い、平和をあらためて実感し、核兵器の廃絶への願いが街に満ち溢れる日です。一人でも多くの方が広島に来られ、あの日、起こったことを感じてほしいと願っています。

 

 

 

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2018年7月18日 (水)

西日本豪雨災害、お見舞い申し上げます。

 西日本豪雨災害から2週間近くなりましたが、被災地の復旧はまだ見通しが立たない状況です。被害にあわれた方々におかれましてはお見舞い申し上げます。また亡くなられた方々におかれましては心よりご冥福をお祈りいたします。ご不明の方が1日も早く見つかりますようお祈り申し上げます。

 猛暑の中、復旧作業やボランティアに尽力されている方々におかれましては安全に留意されることをお祈りいたします。

 

雨は降り始めの夜から延々と続き、スマホの避難警報が鳴りっぱなしでした。自分のところは大丈夫だと思いながらも、被害がどこかにでそうだと思いました。しかし、まさかこれほどの災害になるとは想像もつきませんでした。友人や知人に連絡したところ、帰宅困難になった方や水害にあわれた方がいました。断水地域の方は今も給水所から水を得ています。トイレも不便で、洗濯ができず、お風呂に入れないのが辛いとおっしゃっていました。

 

現在も国道が分断され、JR不通区間の復旧は場所によっては1年以上かかる見込みのようです。交通機関のダメージは、流通に大きな影響を与え、郵便や宅配便は止まってしまいました。当初はコンビニエンスストアやスーパーに物が入らず、特に水などの棚は空っぽでした。場所によっては水のみならず、カップ麺の購入数も限定されたという話を聞きました。先週まではテレビや新聞などのマスコミでも一部の被災地しか取り上げていなかったため、どうなっているのか全容が皆目見当もつきませんでした。

今回、被災地の状況をいち早く伝えたのはネットでした。被災された方の大きな力となったのもツイッターやフェイスブックなどのSNSだったようです。リアルタイムで被害映像を伝え、救済を求める声が命を助けたケースもありました。ボランティアもSNSで集まっているようです。ネットという災害に比較的強い手段が被災者の味方になったのです。

被災地ではまだまだ人手が必要です。広範囲にわたる被災地のため土砂の撤去作業、災害ゴミの撤去作業だけも長期間にわたることでしょう。高齢者の多く住む地域は情報すら入らず、発信できず、困っているようです。デマや過去情報の拡散といったトラブルもあるため、情報をあげる際の確認、注意は必須ですが、SNSの活用をしていきたいと思っています。

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2018年6月 8日 (金)

若者は何を見るのか~高校生平和大使決定

今年の高校生平和大使が先週6月1日に決まりました。全国から応募があった約500人の中から15都道府県の20人が選ばれました。高校生平和大使は核兵器廃絶を求める署名を集め、毎年スイスのジュネーブの国連欧州本部に届けています。この活動は1998年から始まり、今年のノーベル平和賞候補にもなりました。選ばれた平和大使は8月下旬に国連欧州本部軍縮部門などを訪問する予定となっているようです。今日の中国新聞によると昨日7日には、国会内で平和大使の活動報告会があり、経験者らが自身の経験を語ったということです。

昨年までに平和大使が国連欧州本部に届けた署名は1677000人分以上といいますから、単純計算で毎年8万3000人以上の署名を集めていることになります。私も広島市内で高校生たちが署名活動をしている姿を幾度となく見ました。街中、大きな声で署名のお願いをしている高校生たちをみると、とても頼もしく感じました。

署名は地道な活動です。誰もが喜んで署名してくれるわけではありません。時には嫌がられることもあるでしょう。高校生たちはそうした大人たちをどう感じるのでしょうか。国連欧州本部では英語でスピーチも行います。また国内で様々な場面で報告会も行います。こうした経験が高校生の平和意識に与える影響は計り知れません。

「核兵器廃絶」というと大人の平和運動と思いがちですが、このように高校生も活動しています。20年間という長きに渡ってこの活動に参加した高校生は、決して少なくない数で世の中に旅立っています。以前出会った元高校生平和大使はマスコミに入っていました。順番でいうと、マスコミとして出会った方が元高校生平和大使でした。今年、決まった高校生たちにとって平和大使がどのような形になって人生に結びついていくのか。日本の若い方たちへの希望が膨らみます。

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2018年4月28日 (土)

4.26チェルノブイリデー座り込みに参加して

 チェルノブイリ原発事故が起きたのは1986年4月26日でした。その時の世界の驚きと恐怖は今でも覚えています。遠く離れた日本でも食品汚染などに敏感になっていたように思います。チェルノブイリ原発事故が起きた翌年から広島では原爆慰霊碑前で座り込み行動をしていたそうです。「核と人類は共存できない」として、被爆者を始めとする市民が訴え続けていたのです。この度、私も座り込みに参加しました。ヒバクシャは原爆被害者だけではないからです。

 

 座り込み行動は4月26日の午後1215分から30分間、平和公園の原爆慰霊碑前で行われました。暑い日差しの中、80人以上が参加しました。存知あげている方も初めてお見受けする方もいらっしゃいましたが、これほど多くの方が参加されているのかと思いました。そして座り込み行動を取材するマスコミの数が多いのにも驚きました。広島ではチェルノブイリ原発は過去の出来事ではないのです。

 

そもそも慰霊碑前の座り込み行動は学者で平和活動家の森滝市郎先生が始められたものです。森滝先生は被爆者で核兵器廃絶に尽力された日本の反核運動の先駆者です。森滝先生は非暴力の抗議として座り込みという行動をとり、「ヒロシマの心」として運動家の間に広がりました。この森滝先生の意思に賛同し継いだ方々が今日の座り込みを行っています。

 

この度の座り込み行動で「原発事故は新たなヒバクシャを作る。人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被った私たちヒロシマは、放射線被害の恐ろしさを最もよく知っている。原発の再稼働・新増設を許してはならない」とアピールが行われました。

おりしも修学旅行生が大勢来広していました。この座り込み行動も見ていました。声高に叫ぶことのない静かな抗議行動の意味を十分に感じ取ってくれたのではないかと思いました。非暴力の沈黙の抗議が持つ大きな力を心に刻んだ30分間となりました。

 

 

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2018年2月 6日 (火)

ヒロシマの怒り

今朝の中国新聞の社説は怒りに満ちたものでした。アメリカのトランプ政権が打ち出した核戦略見直し(NPR)に対し、日本政府が『「拡大抑止力が強化される」と歓迎した。(中国新聞2018年2月6日)』ということのためです。米国の小型核兵器開発は『抑止どころか、核使用のハードルを下げるだけであり、とんでもないことだ。(中国新聞2018年2月6日)』と怒りをあらわにしていました。  

 

戦争を放棄し非核三原則を掲げている日本の、新たな核兵器開発容認ともとれる対応に中国新聞の怒りの社説は当然のことだと思います。広島と長崎はたった1発の原爆で都市が消滅し、同年に合わせて20数万人の死亡者が出ました。地獄のような惨劇から生き残った被爆者は苦しみが今もなお続いています。私は被爆地に来て初めて原爆被害の実態を知りました。被爆者の平均年齢は82歳くらいですから、被爆時は10歳にも満たない子供でした。子供たちは70年以上、悲しみとトラウマの中、頑張って生き続けてきました。同時に被爆者は同じ苦しみを味わってほしくないと現在まで核廃絶を訴えてきたのです。それなのにどうして、というのが被爆地での素直でまっとうな反応だと思います。

 

中国新聞が広島の被爆者や市民の声を代弁しているというのを言いすぎとは思いません。中国新聞は毎日のように核兵器や米軍基地、被爆者を取り上げ、その問題点や課題などを被爆者や市民という被害者や弱者の目線で伝えているからです。原爆の被害を広島と長崎の二か所も受けた日本は核兵器被害の苦痛を忘れてしまったのでしょうか。日本国民のみならず植民地や外国の方たちに被害をもたらした核兵器の恐怖と非人道性を日本政府はいつ世界に伝えるのでしょうか。

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2018年1月12日 (金)

2018年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

折り鶴といえば世界的に平和のシンボルとなりましたが、恐らく広島発ではないかと思います。被爆した佐々木貞子さんが病気回復の願いを込めて作ったのが折り鶴でした。残念ながら佐々木貞子さんは亡くなりましたが、折り鶴は平和のシンボルとなったのです。広島の平和記念公園には折り鶴があちこちに飾られています。これは世界中の方々が戦争で亡くなった方への鎮魂の気持ちと平和を願って一つひとつ折ったものです。私は平和記念公園に来て初めてこれらの折り鶴を見た時、その数の多さに驚きました。そしてこの折り鶴はどこに収められているのだろうと思いました。「原爆の子の像」だけで年間約1,000万羽、10トン以上にも上る折り鶴があるそうですから、その扱いも大変なものだと思います。

 

以前はこの折り鶴は焼却処分されていたといいます。しかし再生利用できないかという声があがり、広島市は「折り鶴に託された思いを昇華させるための方策」として2011年から検討を始めました。広く市民からアイデアを募集し、現在まで様々な活用を行っています。現在まで、8月6日に行われる灯篭流しに使われる色紙への再生や折り鶴モザイクアート、展示など多様な方法で人々に活用され、多くの人々の目に触れられています。平和を希求する人々の思いが形となっているのです。

 

昨日、この折り鶴の新しい利用がニュースになりました。県中小企業家同友会の有志が再生紙を使ってノートを作り、海外の子どもたちに無償提供するというのです。すでに3ケ国から申し込みがあるようです。ノートには原爆の子の像のモデルとなった佐々木貞子さんの紹介や被爆直後の市内の様子も掲載されているといいます。原爆の恐ろしさと平和の尊さがノートを手に取った子どもたちに伝わるのです。ノートには折り紙が1枚入っているといいます。折り鶴が作れるように図入りで折り方が解説されているそうです。2018年が戦争のない平和な年になるよう折り鶴は世界に羽ばたこうとしています。

 

 

 

 

 

 

 

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