本を読んで・映画を見て

本・映画・CD・美術などに触れて思ったこと

2018年9月26日 (水)

実写の力!広島を描いたドラマが秀逸でした。

 暑かった夏も秋に移りかわろうとしています。今年の夏はこうの史代氏原作の漫画が次々とドラマ化され、話題を呼びました。被爆73年目にして、このようなドラマが制作されることに新ためて映像の力を考えました。

ドラマは「夕凪の街 桜の国」「この世界の片隅に」の両作品で、単発と連続という形式でした。いずれもCGやセットで当時の様子が分かりやすく、役者さんたちの演技によって、あの時代を生きた方々がどのような気持ちで生き残ってきたのかを感じることができました。

 原作の漫画は拝読しており、今もどこかで上映され続けているアニメも見ていました。漫画もアニメも良作品でしたが、実写映像は漫画やアニメとは全く違った印象を受けました。まず役者さんがそれぞれ、設定の年齢に近い方がやっておられたのでイメージしやすかったことがあります。可愛らしい幼げな主人公が戦争の悲劇や無念さを一層、際立たせていたと感じました。実写のよさは何より表情です。役者さんが演じると役者さんの思いがそこに入るので、辛さや苦しみ、悲しみが生きた人間のそれとして観客に伝わってきます。主人公以外の登場人物もその時代を生きている人間なのだという厚みとして画面に現れます。実写映像の力を実感しました。

 これから被爆証言ができる方はどんどん少なくなり、いずれは被爆を語れる方はいなくなります。私は自分自身の映像を上映し、お話させていただく時「これは子供の話です」ということが多くあります。映像に映っている被爆者はお年寄りですが、被爆時は子供だったり、まだ20歳そこそこの若者だったからです。目の前の映像とのギャップをどうしても私の映像では埋めることはできないのです。その点創作物であれば、同年代の役者さんが演じることで、当時にすぐ戻れるというか、入り込むことができます。73年という年月も経過を辿れます。月日に込められた思いをほんの1シーンで表現することも可能です。そしてそれは観客がはっとする部分です。「気づき」が演出されることで、見る者の心に深く印象を残していくのです。創作物の醍醐味でもあります。

 被爆や被爆者はこれからも繰り返しテーマになると思いますし、なっていかなければいけないと思います。決して忘れてはいけないことだからです。映像化することで作る方は被爆に関して、被爆者に関して調べ考えます。役者さんも同様です。見る方も何かを心に残します。そうして原爆、被爆、被爆者が次の世代に引き継がれていくのだと思います。

 

 

 

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2018年6月24日 (日)

在日コリアンの戦後を描いた映画『焼肉ドラゴン』

先週から鄭義信監督の『焼肉ドラゴン』が公開となり初日に見てきました。監督ご自身の舞台の映画化で見たい作品でした。とても、とても、とてもリアリティのある内容で、上映中は私が今までお話を聞かせていただいた在日コリアンの方々の顔が浮かびました。本作品は戦中を経験した在日1世、2世の生き様を知る恐らく最後の世代としての監督の大事な仕事だったのではないかと感じました。

映画は大阪・伊丹空港の近くにある公有地で、そこに在日韓国朝鮮人の方たちが集落を作っている架空の地区が舞台となっています。そこに住む済州島から来た在日1世の父親と母親、娘3人、息子1人の6人家族の物語です。父親は先の戦争で日本軍の一員として参加し、片腕を失っています。焼肉店「ドラゴン」を営み、一家の大黒柱として懸命に働きながら子供を育てています。母親は日本語があまりできないながら夫を助け、子どもたちの頼もしいオンマ(韓国語でお母さんの意)として頑張っています。3人の娘はそれぞれ成人しており、末っ子の長男は進学校に通っています。この焼肉店に娘の婚約者や近所の人たち、韓国からやってきた人たちなどが集まり、様々な問題が起こってきます。悲劇しか起こらないといっても過言ではない内容なのですが、ひたむきで明るく前向きなセリフと、出演者さんたちの包み込むような大らかな存在感に、なぜか温かい気持ちにさせられます。

監督は物語にご自身の経験を盛り込んだと話されています。例えば焼肉店の場所が公有地であるため、立ち退きの話がでて言う父親の「醤油屋の佐藤さんから買った」というセリフは監督ご自身のお父様の言葉なのだそうです。実は私も以前、在日コリアンの方から似たようなことをお聞きしたことがあります。つまり日本人が在日コリアンの方に売買できる場所ではないはずの土地を売ったというのです。それは簡単に詐欺ということはできない複雑な事情があるのだと思いますが、映画の中に何度もこの「醤油屋の佐藤さんから買った」というセリフが出て来ます。監督のお父様の無念はこの映画で少しは消化されたのではないかと思いました。

また韓国語を話せない子供たちや逆に日本語がおぼつかない親たち、同胞を頼って韓国から働きに来る男性たちや、大学を出たけれども就職ができずブラブラしている在日韓国朝鮮人の男性といった登場人物は、広島でお話をお聞きしている方々のようで、心の中で「うん、うん。そうそう」とうなずきながら見ていました。日頃は寡黙な父親が最後の方で話す長いセリフは韓国人の俳優さんらしいたどたどしい日本語が、かえってリアリティを持って見る者に強く訴えました。繰り返される「働いて、働いて」という言葉を聞きながら、これまで出会った在日コリアンの方々の人生と重なり目頭が熱くなりました。

監督は「「日本の在日韓国人一家」という特殊な家族を書いた戯曲のつもりでしたが、韓国など他の国の観客には「故郷を捨てざるを得なかった人々の物語」「移民の悲劇」などのような、普遍的な物語として映っていたんです」と話します。この映画の舞台は日本です。日本人は在日コリアンの方たちのことをどのように思って生きてきたでしょうか。恥ずかしいことですが、私自身ほとんど思いを馳せることなく生活してきました。圧倒的多数の日本人の中で、マイノリティである在日コリアンの方たちが何を思いながら生きてきたのか。本作はそのことを知るうえで必要な1本になったと思います。映画の時代は70年代ですが、多文化社会になっている日本の今、もしくは少し先の未来の姿になるのかもしれません。

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2016年12月12日 (月)

今から71年前の呉で感じること

 映画「この世界の片隅に」について、もう少し書きたくなったのでおつきあいください。映画をご覧になった方にしかわかりにくい内容になるかもしれませんがお許しください。

本作は1943年から終戦後の19461月までの出来事です。広島で生まれ育った主人公のすずは海苔屋の娘です。国民学校初等科を卒業し5年後(おそらく16歳くらい)に親の勧めで見ず知らずの相手と結婚し呉で暮らし始めます。夫と両親、夫の姉とその子どもという大家族での生活ですが、当時としてはそう珍しいことではないと思います。夫は海軍軍法会議の録事、舅は海軍工廠に勤めています。舅は「お父ちゃんの科学話は止まらんけえね」という話から考えると技術系でしょう。つまり夫も舅もエリートだと推測されます。生活は貧しいけれど貧困ではありません。すずの周囲に住む人々も同様の生活を送っていると思われ、当時の多くの人がしていた暮らしぶりといってもいいでしょう。これが主人公すずの背景です。

現在からみると16歳はまだ子どもですが、当時はそれくらいで結婚した人が少なからずいます。知り合いの在韓被爆者の女性も16歳で結婚しています。「仕事もせずブラブラしていたら挺身隊でどこにいくかわからない。当時は産めよ増やせよの時代だから結婚した」と話していました。女子挺身隊は独身女性などを対象に集められ、職場を強制的に決められて働かされる奉仕組織です。この在韓被爆者のお母様は娘が挺身隊にとられて危険な場所で働かされるよりは結婚して自分の家の近所に住んだほうがましということで結婚させたのです。すずが結婚した理由は先方から申し込んできたために結婚をしたことになっています。すずの妹は挺身隊に行っています。もし結婚しなければすずも挺身隊に行っていたはずです。挺身隊の仕事場は主に軍需工場での作業です。兵器などを作っていたのです。戦闘員ではありませんが、少女たちも戦争を補佐していたのです。被爆者の沼田鈴子さんも少女時代に大砲の玉を磨きながら「日本が勝つためには敵を殺すのだ。自分はそのための名誉な仕事をしている」と思っていたそうです。沼田さんは「完全に軍国少女だった」と晩年、後悔の念を講演などで話されていました。

 すずの嫁ぎ先では南方などへ兵隊として家族は行っていませんが、すずの実兄は戦死しています。兄の遺骨は戻らず石ころ1つが家族に渡されました。すずの両親にとってはたった一人の息子、すずたちにとっては、たった一人の兄です。家族は死の実感のないまますずの兄の戦死を受け入れなければいけませんでした。徴兵制度は本人の意思に関係なく兵士にならなければいけません。戦争をしていなければすずの兄は兵士にならなかったのです。

 ある日、絵を描くことが好きなすずは軍艦をスケッチしているところを憲兵に咎められます。憲兵は一般市民を監視するような役目で時には理不尽な行動もしました。現在のように警察が巡回しているのとは全く異なる状態です。スパイがいないか、もしくはスパイではないかと監視されているような状況は穏やかな日常とはいえません。

 呉は軍都でしたから空襲もありました。空から爆弾や銃弾が撃ち込まれる恐怖を平和な日常しか知らない私には想像もつきません。ご存知の方も多いと思いますが、原爆投下前の広島は空襲がなかったため、わざわざ広島に移り住んだ方もいました。

 少女が兵器をつくらされ、少年たちが海外に行き人を殺し、殺される。監視されながら日常生活をおくる。いつか分からないけれども自分たちを殺そうと兵器が空から落とされる。20歳にならない、子どもと言ってもいい主人公すずが暮らした当時の日本はそういう状況でした。子どもだからといって戦争に加担しないわけにはいかなかったのです。戦地ではないけれど、こうした状況は狂気といってもいいと思います。

 映画では別の表現になっていますが、漫画では終戦の日どこかの家に掲げられたテグッキを見たすずは「ああ、暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ」と大粒の涙をこぼします。これは日本が朝鮮半島を植民地にしていたことを指しています。すずが生まれた時には朝鮮半島は日本の国だったので、朝鮮人が近所に住んでいたことをすずは当然知っていたと思います。テグッキがはためくのを見ただけで「暴力で従えとったいう事か」というセリフが出てくるためには、それなりのエピソードを見聞きしていなければいけませんから。すずが何を見ていたのかを私たちは考えなければいけません。

映画「この世界の片隅に」からは、すずが暮らした日常に戦争の狂気を感じ取らなければいけないと思います。戦争中の日本と現在の日本は違います。いま日本はどこの国とも戦争をしていないため、少女や少年が銃を触ることはないからです。しかし戦後71年経った私たちの暮らしの中には狂気はないのか、あらためて周囲を見渡して考えなければなりません。

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2016年11月29日 (火)

映画「この世界の片隅に」を見てきました

 こうの史代作の漫画『この世界の片隅に』のアニメーションを見てきました。原作は出版された当初に購入し読んでいたので、主演ののんさんへの期待や、詳細に描かれた戦時中の呉や廣島の様子を楽しみに見に行きました。その期待は裏切られることなく、画面には廣島らしい光景があふれていました。

主人公すずは廣島から軍港として栄えていた呉市にお嫁入りし、誰も知り合いのいない嫁ぎ先で悪戦苦闘しながら戦時下で夫と夫の家族と暮らしています。

すずは物のない時代に、着物を利用したり、道端の草を使ったりしながら、笑顔を絶やさず日々の暮らしを紡いでいました。しかしその生活は空襲警報で避難を余儀なくされるものであり、飛行機からの機銃掃射にさらされるものでした。見知らぬ男性との結婚、舅や姑、小姑との同居と与えられた状況を受け止め、淡々と暮らしているようにみえるすずは、気づかぬうちに脱毛しています。しかしそれでも笑って生活しています。けなげなのです。しかし原爆投下、終戦ですずは胸の中をようやく表に表します。

私は戦争体験をしていませんが、戦争を体験した方々と出会っています。どんな生活をしてきたのか、どんな思いをしていたのかを、本当にわずかばかりの、個人的な話をお聞きしています。しかし恐らく本当の苦しみや悲しみをお聞きしていないと思います。私の想像力が足りないのかもしれませんが、映画「この世界の片隅に」を見て、そんな気持ちになりました。

 映画は原作を忠実に映像化しており、世界観を損なわないように表現されています。大人も子どもも見ることができるものであると思いますが、やはりどちらかに対象を絞ってもよかったのではないかと思います。そして、それはやはり大人だったのではないでしょうか。すず以外の別の生活、具体的にいうと遊郭に勤めているりんの生活を描いてほしかったからです。戦争がなくても貧困はありますが、戦時下での貧困は平和な時代とは違うものだったのではないかと思うからです。学校に通い、海軍に勤務する男性と結婚するすずと、子どもの頃から一人で生きてきたと思われる遊郭に勤めるりん、その違いは何だったのか。原作でもりんの過去については殆ど描かれていませんが、今を生きる私たちが知らなければいけないことが、そこにあるような気がします。環境は違えども、すずとりんは時に出会います。映画ではほんのわずかなシーンですが、原作ではもっと深い因縁が描かれています。せっかく映画として新しく命が吹き込まれるのですから、原作には描かれていないけれど、裏で起こっていた出来事を入れてもよかったのではないかと思います。映画ならではの空間にすずを生きさせてあげてもよかったのではないかと。それはひょっとしたら厳しいものになるかもしれないけれど、「この世界」は、すずだけの世界ではないはずだから。

 

 

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2016年7月27日 (水)

『被爆者はどこにいても被爆者 郭貴勲・回想録』(郭貴勲・著)を読んで

 

今回も被爆者の方の本の紹介をします。韓国原爆被害者協会の元会長だった郭貴勲さんが書かれた『被爆者はどこにいても被爆者 郭貴勲・回想録』です。まずタイトルの「被爆者はどこにいても被爆者」は、日本にいる時しか被爆者健康手帳の効力がないことに対して裁判を起こした際の郭貴勲さんの言葉で、その後の多くの在外被爆者裁判のスローガンとなりました。

 

「植民地下で生まれて」「日本軍生活」「被爆」「戦争は終わったけれども」「帰国」「教育者の道」「山に登る」「捨てられた韓国人原爆被爆者」「人道的支援の虚と実」「被爆者はどこにいても被爆者」「韓国人被爆者とともに歩んだ日本人」「韓国原爆被害者協会と私」

 

本書はこのような構成になっており、郭貴勲さんが生まれてから在韓被爆者運動で活動するまでの人生が書かれています。それぞれの章に植民地下の朝鮮半島の方々の生活や思いが丁寧に描かれ、口には出せない気持ちを抱きながら生きてこられたのだなあと感じます。

 

一つひとつあげるとキリがないのですが特に被爆者運動に関してお話すると、初めて知ることも多く、ある程度は理解していたつもりの運動の詳細が伝わりました。郭貴勲さんの無念さがページをめくるごとに重くのしかかってきて、よくぞ郭貴勲さんが運動を続けられたと、心底から思いました。そして日本人支援者の執念にも似た強力な後押しに同じ日本人として感謝と安堵を感じました。

 

日本と韓国は1910年から45年まで同じ国でした。朝鮮半島の方々は日本人で、日本人として戦いました。そんな朝鮮半島の方々に日本は何をしたのでしょうか。韓国人の立場から見る日本を感じて頂きたいと思います。本書は2013年に韓国語で出版されました。そして20163月、日本語での出版となりました。図書館や大学などの図書館で見ることができます。最後に郭貴勲さんの冒頭の言葉で終わりにしたいと思います。

 

 

顧みれば、私がこの本を著すまで、広島・長崎で被爆して帰国した多くの仲間が無念のうちに亡くなりました。援護を手にするまでには、在韓被爆者の訴えを受け止めた日本の市民団体をはじめ良心的な政治家、言論人らの支援がありました。

 

原爆がもたらした人間的悲惨や、世界に拡散する核兵器の非人道性を、韓日にまたがる歴史を知ってほしい。真に友好な両国関係を築きたい。そう願い、「被爆者はどこにいても被爆者」と題して日本語版を刊行することにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年7月25日 (月)

『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』(関千枝子著)を読みました

13歳だった関さんは1945年8月、建物疎開作業をしていました。建物疎開とは空襲の際の防火地帯をつくるために家を倒し空き地を作る作業です。関さんは引き倒された家を片付け、瓦や材木、電線など使えるものを整理し、地ならしをしていました。その作業は中学校1年生2年生の子供たちが手作業で行っていました。8月6日、関さんは前の晩にお腹をこわしたため作業を休むことになりました。そして死をまぬがれました。いつもと同じように建物疎開作業に出たクラスメートは亡くなりました。

関さんの『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』は被爆証言ですが、証言だけにはとどまらない鋭い指摘があります。それは朝鮮半島出身者の被爆についてです。まず関さんは「日本教育史上最大の悲劇と言われている建物疎開作業で亡くなった少年少女たちのことを皆が知らなすぎる」と訴えています。そして2004年に広島平和記念資料館が作成した建物疎開作業を行っていた学校の動員数と死亡者、死亡率の数が合わないというのです。各学校で数人から10人以上の数が合わないのです。関さんはこの合わない人数こそが朝鮮人被爆者だと推測されています。

親しくさせて頂いている在日コリアンの被爆者も建物疎開作業をしていました。その方はずる休みをして助かっており、関さんと同じようにわずかな運でのサバイバーでした。建物疎開で亡くなったのは大多数が子供たちであることは理解しているつもりでしたし、帰ってこなかった朝鮮人の子供が大勢いることも想像がつきます。原爆戦災誌は何度も目にしているのに、数に関しては疑問を持たずに見ていました。そもそも朝鮮人被爆者数に関してはどう調べると正確な数に近づくのか、いつも困っていたのにです。関さんのご指摘は目からウロコでした。関さんの推測は非常に説得力がありました。なぜこうした数字の中に朝鮮人が隠されていることを考えなかったのか、と反省しました。

本著は長年、ジャーナリストとして活躍されている関さんの鋭い視点が貴重な歴史の資料として、朝鮮人被爆者に関しての問題提起となっていると思いました。関さんは毎年8月、平和公園内でフィールドワークを開催し、建物疎開の子供たちの悲劇を伝えています。また広島平和記念資料館の展示に建物疎開の子供たちについて展示するようにも訴えています。もちろん、その中に朝鮮人の子供たちがいたことも加えるようにです。戦後71年経っていますが、まだまだ考えてみることがあるのではないか。発見されることもあるのではないかと思見ました。名著でした。

 

 

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2015年11月 4日 (水)

チェルノブイリ原発事故の被害者は何を体験したのか~『チェルノブイリの祈り 未来の物語』スベトラーナ・アレクシエービッチ著を読んで

 ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチ氏の著書『チェルノブイリの祈り 未来の物語』を読みました。受賞当時、書店になかったのですが重版されると聞き、書店に並ぶのを待って購入しました。ページをめくるたび溜息がでて、それが最後まで続きました。衝撃的な内容でした。福島原発事故を起こした日本、日本に住む人は今も渦中です。タイトルの副題“未来の物語”は今日を生きる私たちへの警鐘であり、明日から続く将来への警告と受け止めるべきでしょう。今年のノーベル文学賞がもしスベトラーナ・アレクシエービッチ氏でなかったとしたら、この本が再度書店に並ぶことは難しかったかもしれません。だとしたら、この度のノーベル賞がいかに大きな意義を持ったのか、はかり知れません。私の気持ちとしては内容を抜粋してご紹介したいのですが、やはり手に取って読んでいただくことが最善ですので抜粋はしないことにします。

 『チェルノブイリの祈り 未来の物語』はチェルノブイリ原発事故の被害者たちのインタビューが綴られています。事故の時どこにいて何をしたのか、その後どうなったのか、どんな気持ちなのかがモノローグ形式で書かれています。目の前に本人がいるような感じで読んでしまうため、どうすることもできない救いのない状況や持って行き場のない気持ちに、やるせなさとなぜが後から後から湧いてきます。最後まで答えはありません。作者は事故後すぐに汚染地に入り様々な人と会ったといいます。取材は子供からお年寄りまで300人にも及びましたが、発表したのは事故後10年経ってからだったそうです。取材した人数、文章にするまでの歳月がこの著書が完成するまで抱えた葛藤のすさまじさの一端を物語っていると思います。一人一人が体験したことを読者が自分の身に置き換えた時、登場人物の姿は私たちの未来となって浮かび上がってきます。

 私はこの本に登場する一人一人が広島や長崎で被爆した人々と重なって仕方がありませんでした。原爆投下直後の情報はプレスコードがあり、新聞は検閲が行われ規制されていた時期がありました。自分や周囲の被害については目の前で見えているので分かっていても、全体の状況として一般の人が把握することは困難でした。自分に起こっていることが何なのか知らされず、分からないまま原爆が落ちたその場所に被爆者が住み、被爆者自らが街の復興を成し遂げました。被爆者の生存者調査は1950年、実態調査が実施されたのは1965年です。それまでの過程で被爆者に何が起こっていたのか、日本政府も把握していないといっていいと思います。あくまでも私の個人的な意見ですが、この原爆被爆者の調査されていない隙間を埋める記憶がチェルノブイリ原発事故被害ではないかと思っています。チェルノブイリ原発事故後に起こった被害者の姿がヒロシマ・ナガサキの被爆者の姿なのではないか。そしてチェルノブイリの被害者の未来が、今生きているヒロシマ・ナガサキの被爆者の姿なのではないかと。『チェルノブイリの祈り 未来の物語』を是非ご一読ください。

 

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2015年6月23日 (火)

映画「あん」見ました。いい映画でした。

映画「あん」(河瀨直美監督)を見ました。いわゆるシネマコンプレックスで上映していたことと、若干年齢は高めですが様々な方が見に来られていることに驚きました。ハンセン病という社会問題を扱った内容で、大きな映画館で上映というのは邦画ではなかなか難しいのではないかというイメージがあったため、私の方が映画に対して偏見を持っていたことを思い知らされました。

映画は公園の一角にある小さなどら焼き屋が舞台です。そこで黙々とどら焼きを売る主人公と、そこに通うハンセン病回復者、女子高生の小さなお話です。内容はフィクションですが、扱っているハンセン病や差別意識は事実です。悲しみや怒りといった感情を高ぶらせることのない表情から、私たちはその奥に隠された思いを知るのです。ハンセン病回復者の言葉の一つひとつが心にしみ、宝物のように感じます。静かに静かに始まり、穏やかに終わりますが、その中には悲しみや幸せが詰まっています。私たちが見て感じたことを心にしまいこむのではなく出していく。その時初めて、この映画はエンドマークを掲げるのかもしれません。

 

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2015年3月26日 (木)

日常と非日常を無くした兵士は何を夢みるのか 「アメリカンスナイパー」を見ました

大ヒット作品となっているクリント・イーストウッド監督の「アメリカンスナイパー」を見てきました。私はアメリカが行っている戦争に対する疑念をアメリカ内部から訴えた作品だと思いました。

 ご存知の方も多いと思いますが、映画はイラク戦争に出征し、アメリカ軍で最も有名な狙撃手であるクリス・カイルの自叙伝に基づいて制作されているものです。主人公はアメリカ海軍特殊部隊・ネイビーシールズの狙撃手です。イラクで仲間を援護するために敵を狙撃し、その腕は伝説と言われるまでになりますが、本人は心が蝕まれていってしまいます。戦時中の日本でいうところの軍神の自伝ですが本作品では主人公を英雄視していません。同じ軍隊の仲間からは神のように尊敬されますが、妻や弟といった家族からは否定されるのです。あなたのやっていることは本当に必要なことなのかと。主人公は4回の派兵で日常と非日常の境界をなくしてしまいました。一方的なほどのアメリカ目線から描いている内容にも関わらず、主人公が戦地に行けば行くほど、戦地から家庭に戻り安らいでいればいるほど、戦場での英雄的行為が愚かなものに見えてくるのです。上映時間のほとんどを銃撃戦に費やし主人公が狙撃するイラクの人々は、その様子から民間人や子供、かつてはオリンピック選手だったアスリートと戦争の犠牲者たちです。モノローグがないため主人公へ感情移入することなく、狙撃されるイラクの人々の姿がはっきりと浮かび上がってくるのです。反対に冗談を言い合い、戦地から戻れば安らぎの家庭が待つアメリカ兵の姿を目の当たりにします。戦場はなぜ戦地になっているのでしょうか。兵隊がいくからです。行って銃を撃つからなのです。

イーストウッド監督の戦争ものは「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」を鑑賞しており、今回が3本目です。前者は日本軍の目線で後者はアメリカ軍の目線からとらえており、戦争は人間同士の戦いであり、かつてアメリカ軍と戦った日本軍も同じ人間であったことを、両方の視点から描くことで伝えていました。また星条旗の方ではマイノリティーにも少し触れていて、アメリカが抱える人種問題も描いていました。

私はイーストウッド監督の映画は行間を見る映画だと思っています。アメリカ社会に強烈なメッセージを持ちながらもエンターテインメントとして完成されている本作品が、本国でどのように受け入れられヒットとなったのか残念ながら知るよしもないのですが、アメリカが行っている戦争について考えるために見ておくべき1本だと思います。

 

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2015年1月21日 (水)

相原由美・歌集『鶴見橋』を読んで

 鶴見橋は広島駅から続く京橋川の下流、陸軍墓地がある比治山のふもとにある橋です。被爆樹のシダレヤナギが橋のたもとにあり、いつも千羽鶴がかけられています。その橋がタイトルになっている歌集『鶴見橋』を読みました。「抑留死名簿」「徴用工被爆者裁判最終陳述」「徴用工被爆者裁判勝訴」など、短歌とは思えないタイトルが並び、在韓被爆者支援などを行っている活動家でもある作者の生き様が詠われています。

「四十年口にせざりし日本語にあふるるごとく被爆を語る」

「座り込みも辞さぬと気負う老い人を企業の論理は易やすと刺す」

「抗議文 申し入れ書 嘆願書 文案を練るそれぞれ黙して」

「松本と創氏改名されし日のくやしみの声法廷に沁む」

 

在韓被爆者の方々を長い間、支えてきた相原さんの思いがよく伝わってきます。30年間の歌人生活で気がつくと活動のことを詠っていたの。裁判のことなんて歌にする人はいないでしょ」と相原さんは笑いました。

「戦争にはどうしてもこだわっていきたいの。私の年代がやらなければ、もうこだわる人がいなくなるでしょう」いつも穏やかな相原さんが少し、強い口調になりました。そして「運動をしている人や研究者は、戦争のことはよく分かっているかもしれないけれど、関心のない人には広がっていかない。私が歌集をだすことで、歌人にも知られることになると思うの」。

本著で初めて知ったのが相原さんのお父様がシベリア抑留者であったということです。お父様はシベリアでお亡くなりになったそうです。ご自身の活動の原点と源が戦争だったのです。

 

 

 

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