本を読んで・映画を見て

本・映画・CD・美術などに触れて思ったこと

2019年6月21日 (金)

映画「主戦場」を見ました。

ミキ・デザキ監督のドキュメンタリー『主戦場』を見ました。慰安婦問題をテーマに、慰安婦問題とは何なのかを直球で描いたドキュメンタリーです。慰安婦の方々が出てくるわけではありません。慰安婦をめぐり日本とアメリカ、韓国でどんな立場の人々がどのように考え、どう伝えているのかがまとめられています。「人数」や「強制連行」「性奴隷」などについて研究者や活動家、ジャーナリストがインタビューで答えています。言葉と言葉の応酬でつないでいるため、122分という長さですが時間があっという間にすぎてしまいます。社会問題を取り上げていますが、チラシに書いてある「スリリング」という通り、誤解を恐れずいうと面白い映画でした。

 

監督は日系アメリカ人で、内容は自身が抱いた慰安婦問題にまつわる疑問を日本、アメリカ、韓国で研究者や活動家、ジャーナリスト、政治家など様々な人に会い、質問を投げかけていくというものです。取材人数27人という数に感心しましたし、やはり最大の特徴である保守派の登場に興味を覚えました。日頃、ネットでは言動を目にしますが、はっきりと本人の口からその言葉を聞くと、やはりインパクトがあると感じました。慰安婦問題で対立する意見を持つ両者を取材することは日本にいる日本人のインタビュアーではできなかったことだと思います。日系アメリカ人という立場が取材の成功に導いたのだと感じました。

 

映画は先に上げた「人数」「強制連行」「性奴隷」といった論争を監督ならではの検証と分析で、慰安婦問題が抱える問題や保守派の詭弁をあぶりだしていきます。監督が情報を集め、知り得たことをまとめて、反証させながら伝えていくのです。個人的には顔を見て聞くに堪えられない発言もありましたが、思想の根本が垣間見えたことは日本で起こっている慰安婦問題を考える上で重要なことだと思いました。また私自身が知らなかったことも多くありました。特にアメリカの地方議会で話し合われている内容など初めて聞くものでした。本作品は慰安婦の何についてなぜ議論しているのかが、ざっくりと理解できるようになっていると思います。何も知らない人が見ても、なんとなく分かるような作りになっているので、議論に置いてけぼりになることはないと思います。

 

私自身の立場としては、人数はわかりませんが、慰安婦は「強制連行」された女性であり、「性奴隷」だったと思っています。強制連行とは、騙されたり、売られたりした女性も含まれます。理由は個人に仕事の内容の選択ができなかっただろうし、仕事を辞める自由がなかったと思われるからです。慰安婦問題を考えるきっかけにと思わずにエンターテインメントとして『主戦場』を楽しみ、その上で慰安婦問題を知るきっかけになればいいなあと思います。ちなみに監督は広島大学に留学経験があるようです。中国新聞の記事によると広島での経験が人生を変えたとインタビューに答えていました。

 

 

 

 

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2019年5月30日 (木)

日本の被爆者援護の根幹について書かれた意義深い論文~ 『原爆被害者対策基本問題懇談会(基本懇)についてー何が語られ、「報告」はどのようにつくられたか』田村和之・広島大学名誉教授

私は戦争犠牲者に関して受忍論はどうしても認められません。国民が戦争を望んだわけではないからです。『賃金と社会保障№1730』に掲載された田村和之先生の『原爆被害者対策基本問題懇談会(基本懇)についてー何が語られ、「報告」はどのようにつくられたか』を拝読しました。日本の被爆者支援がどういう理念で行われてきたのか経緯が詳細に書かれています。被爆者援護法の核心部分が分かる非常に意義のある論文だと思いました。

 

被爆二世裁判を傍聴する中で、この原爆被害者対策基本問題懇談会(以下、基本懇)のことは聞いてはいましたが、本論で基本懇の全体像が見えてきました。読み終わって最初に感じたことは、在韓被爆者の孫振斗が起こした裁判がいかに重要であったのかということでした。そして、この孫振斗裁判まで被爆者支援について理念なく行ってきた国の姿勢に驚きました。加えて、そもそも被爆者は国にとって戦争犠牲者であることを認めたくない存在だったということも明らかになりました。

 

本論は「はじめにー基本懇とは」「基本懇の設置経緯と目的」「基本懇における主な議論」などの章に分かれ、基本懇は何のために設置され、何が話され、どのように報告されたのかが、達意に述べられています。公開された会議の速記録を基に、田村先生は被爆者支援に対する国の考えや、基本懇委員の思想を検証し、論考を進めていきます。

 

基本懇の始まりは在韓被爆者裁判でした。孫振斗裁判で最高裁が「原爆医療法が国家補償の趣旨をもつ」と下した判決により、被爆者援護の法律を再検討することになったのです。政府が被爆者援護の基本理念を明らかにするという目的で基本懇は設置されました。構成メンバーは「斯界の権威」と目される人物たちでした。基本懇では「原爆の人体影響」や「原爆による特別の犠牲」などが14回に渡って議論されました。基本懇と厚生省との攻防や各委員の思想など、田村先生は開示されている文書から読み解いていきます。そして基本懇から出された報告書が現在までの国の被爆者行政の指針になったとしています。

 

田村先生は末筆で、基本懇で「在外被爆者対策を視野の外においたこと」と、斯界の権威が集まっているにも関わらず「被爆者と原爆被害に関して不正確な認識や誤解に基づく発言があったこと」に言及し、これは問題であると結んでいます。

 

そもそも国は被爆者に対して積極的な支援を考えていませんでした。第五福竜丸事件によって国際問題化し、被爆者の対策を考え始めたという経緯があります。まず原爆医療法ができ、その後から社会保障的な「特別措置法」ができました。この2つの法律が1本化された被爆者援護法が施行されたのは1995年です。戦後50年近く経ってのことです。在外被爆者支援はご存知のように2000年以降です。田村先生は被爆者に対し国家補償であると認めると他の戦争被害者にも補償が広がるのを国や自民党が恐れていたと分析します。最高裁の判決をも認めない被爆者援護法とはどういうものなのか。是非、論文をお読みいただければと思います。

 

 

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2019年5月12日 (日)

ドキュメンタリー映画「アイたちの学校」を見ました。

私はこれまで札幌と広島の二か所の朝鮮学校にお伺いしたことがあります。広島では文化祭などのイベントにも伺ったことがあり、美味しい朝鮮料理を頂いたことが記憶にあります。札幌も広島も学生さんたちは礼儀正しくて仲が良さそうでした。父兄も含めて皆んなが家族のようで微笑ましく、羨ましく思いました。GW中にドキュメンタリー映画「アイたちの学校(髙賛侑・監督)」を見ました。日本全国にある朝鮮学校の歴史を描いたものです。朝鮮学校のドキュメンタリー映画はこれまでも「ウリハッキョ」や「60万回のトライ」を拝見し、これで3本目となります。今回は前2作とは少し違い、朝鮮学校の歴史がしっかりと描かれていました。

本作の朝鮮学校の舞台は大阪です。1910年の日韓併合から始まる朝鮮半島と日本、現在の朝鮮学校に繋がる歴史が分かりやすく述べられていました。特に「423阪神教育闘争」に時間が割かれており、当時の社会状況や在日コリアンの方たちの熱い熱い思い、日本側の理不尽な対応や差別が丁寧に映し出されていました。現在係争中の高校無償化裁判は戦後から何も変わっていない日本社会が浮き彫りになっており、日本人として考えさせられました。上映後はトークイベントがあり、この日は朝鮮学校の教員と卒業生が登壇しておられました。劇場にはかなり人が来られていましたが、上映後ほとんど席を立つことなく、最後まで話を聞いておられました。

子供たちから教育を奪う権利は誰にも無い筈です。ましてや自分のルーツである朝鮮半島のことを学ぶ場所を他民族の日本人が取りあげることが許されるのでしょうか。他民族社会の日本は、これまでも異文化を尊重し吸収して日本をつくりあげてきたのではなかったのかと思います。教員の方は「朝鮮学校は在日にとってなくてはならない場所。守らなければならない場所」だと訴え、映画の中では朝鮮学校から東大に入った男性が「朝鮮学校を自分を肯定してくれるものを入れてくれる袋だ。絶対なくてはならないもの」と言葉を強めました。朝鮮学校で人権教育を行っておられる司会進行の日本人の方が「子供たちから今も差別を受けていることを聞き驚いた」という言葉にぎょっとさせられました。日本人が朝鮮学校を知ることは、日本社会がどんな社会でできているのかを知ることになると思います。是非、ご覧いただきたい映画です。

 

 

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2018年10月25日 (木)

ドキュメンタリー映画『ブラジルに生きるヒバクシャ』を見て

 広島と長崎の原爆被爆者は世界各国にいます。被爆者の大多数は日本で暮らしていますが、海外では2000人以上いる韓国が一番多く、その後に北米、南米が続きます。南北アメリカは移民政策で日本から渡っていった日本人たちです。ブラジルには100人以上の被爆者がいますが、ほとんどが日本人です。このドキュメンタリー映画『ブラジルに生きるヒバクシャ(ロベルト・フェルナンデス監督2014年日本公開)』はブラジルで被爆者運動をされている森田隆さんを中心にしたブラジル被爆者平和協会の活動をドキュメントしたものです。

 映像は広島に原爆が落とされた場面から始まります。森田隆さんはあの日、ご自身が経験されたことを淡々と語ります。私たちは固唾をのんで何が人々の身に起こったのかを知るのです。  

 外国にいるため日本の被爆者援護法から取り残されたブラジルの被爆者たち。森田さんは中心となってブラジル被爆者平和協会を作り、日本政府からの支援を勝ちとります。そして学校や地域を回り原爆の恐ろしさ、核廃絶、戦争反対を訴え、自分たちのような被爆者を2度と生み出してはいけないと訴えます。

 80歳をゆうに越えた森田さんの活動はとてもアクティブで、目で追うのが大変なほど各地に出かけていきます。時には大勢の前で、時には少ない人数の前で森田さんたちは話します。話して話して、ひたすら訴え続けます。どの人も真剣な表情で聞き入る姿は、森田さんたちの気持ちが確実に伝わっている証拠です。ブラジル国内はもとよりアメリカなどにも呼ばれている映像があり、森田さんたちの訴えが広がり始めていることが分かります。また森田さんたちはブラジルで起きたセシウム137事故の被害者を尋ね、共に活動することを約束します。森田さんたちの活動がセシウム137事故被害者たちの力にもなっているのです。

 本作品は海外でゼロから被爆者運動を始めた森田さんたちの貴重な歴史を教えてくれるものであり、日本から移民していった日系ブラジル人1世の生き様を伝えてくれる大切な記録です。私たちは知らなければいけない歴史がまだまだあります。

 

 

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2018年9月26日 (水)

実写の力!広島を描いたドラマが秀逸でした。

 暑かった夏も秋に移りかわろうとしています。今年の夏はこうの史代氏原作の漫画が次々とドラマ化され、話題を呼びました。被爆73年目にして、このようなドラマが制作されることに新ためて映像の力を考えました。

ドラマは「夕凪の街 桜の国」「この世界の片隅に」の両作品で、単発と連続という形式でした。いずれもCGやセットで当時の様子が分かりやすく、役者さんたちの演技によって、あの時代を生きた方々がどのような気持ちで生き残ってきたのかを感じることができました。

 原作の漫画は拝読しており、今もどこかで上映され続けているアニメも見ていました。漫画もアニメも良作品でしたが、実写映像は漫画やアニメとは全く違った印象を受けました。まず役者さんがそれぞれ、設定の年齢に近い方がやっておられたのでイメージしやすかったことがあります。可愛らしい幼げな主人公が戦争の悲劇や無念さを一層、際立たせていたと感じました。実写のよさは何より表情です。役者さんが演じると役者さんの思いがそこに入るので、辛さや苦しみ、悲しみが生きた人間のそれとして観客に伝わってきます。主人公以外の登場人物もその時代を生きている人間なのだという厚みとして画面に現れます。実写映像の力を実感しました。

 これから被爆証言ができる方はどんどん少なくなり、いずれは被爆を語れる方はいなくなります。私は自分自身の映像を上映し、お話させていただく時「これは子供の話です」ということが多くあります。映像に映っている被爆者はお年寄りですが、被爆時は子供だったり、まだ20歳そこそこの若者だったからです。目の前の映像とのギャップをどうしても私の映像では埋めることはできないのです。その点創作物であれば、同年代の役者さんが演じることで、当時にすぐ戻れるというか、入り込むことができます。73年という年月も経過を辿れます。月日に込められた思いをほんの1シーンで表現することも可能です。そしてそれは観客がはっとする部分です。「気づき」が演出されることで、見る者の心に深く印象を残していくのです。創作物の醍醐味でもあります。

 被爆や被爆者はこれからも繰り返しテーマになると思いますし、なっていかなければいけないと思います。決して忘れてはいけないことだからです。映像化することで作る方は被爆に関して、被爆者に関して調べ考えます。役者さんも同様です。見る方も何かを心に残します。そうして原爆、被爆、被爆者が次の世代に引き継がれていくのだと思います。

 

 

 

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2018年6月24日 (日)

在日コリアンの戦後を描いた映画『焼肉ドラゴン』

先週から鄭義信監督の『焼肉ドラゴン』が公開となり初日に見てきました。監督ご自身の舞台の映画化で見たい作品でした。とても、とても、とてもリアリティのある内容で、上映中は私が今までお話を聞かせていただいた在日コリアンの方々の顔が浮かびました。本作品は戦中を経験した在日1世、2世の生き様を知る恐らく最後の世代としての監督の大事な仕事だったのではないかと感じました。

映画は大阪・伊丹空港の近くにある公有地で、そこに在日韓国朝鮮人の方たちが集落を作っている架空の地区が舞台となっています。そこに住む済州島から来た在日1世の父親と母親、娘3人、息子1人の6人家族の物語です。父親は先の戦争で日本軍の一員として参加し、片腕を失っています。焼肉店「ドラゴン」を営み、一家の大黒柱として懸命に働きながら子供を育てています。母親は日本語があまりできないながら夫を助け、子どもたちの頼もしいオンマ(韓国語でお母さんの意)として頑張っています。3人の娘はそれぞれ成人しており、末っ子の長男は進学校に通っています。この焼肉店に娘の婚約者や近所の人たち、韓国からやってきた人たちなどが集まり、様々な問題が起こってきます。悲劇しか起こらないといっても過言ではない内容なのですが、ひたむきで明るく前向きなセリフと、出演者さんたちの包み込むような大らかな存在感に、なぜか温かい気持ちにさせられます。

監督は物語にご自身の経験を盛り込んだと話されています。例えば焼肉店の場所が公有地であるため、立ち退きの話がでて言う父親の「醤油屋の佐藤さんから買った」というセリフは監督ご自身のお父様の言葉なのだそうです。実は私も以前、在日コリアンの方から似たようなことをお聞きしたことがあります。つまり日本人が在日コリアンの方に売買できる場所ではないはずの土地を売ったというのです。それは簡単に詐欺ということはできない複雑な事情があるのだと思いますが、映画の中に何度もこの「醤油屋の佐藤さんから買った」というセリフが出て来ます。監督のお父様の無念はこの映画で少しは消化されたのではないかと思いました。

また韓国語を話せない子供たちや逆に日本語がおぼつかない親たち、同胞を頼って韓国から働きに来る男性たちや、大学を出たけれども就職ができずブラブラしている在日韓国朝鮮人の男性といった登場人物は、広島でお話をお聞きしている方々のようで、心の中で「うん、うん。そうそう」とうなずきながら見ていました。日頃は寡黙な父親が最後の方で話す長いセリフは韓国人の俳優さんらしいたどたどしい日本語が、かえってリアリティを持って見る者に強く訴えました。繰り返される「働いて、働いて」という言葉を聞きながら、これまで出会った在日コリアンの方々の人生と重なり目頭が熱くなりました。

監督は「「日本の在日韓国人一家」という特殊な家族を書いた戯曲のつもりでしたが、韓国など他の国の観客には「故郷を捨てざるを得なかった人々の物語」「移民の悲劇」などのような、普遍的な物語として映っていたんです」と話します。この映画の舞台は日本です。日本人は在日コリアンの方たちのことをどのように思って生きてきたでしょうか。恥ずかしいことですが、私自身ほとんど思いを馳せることなく生活してきました。圧倒的多数の日本人の中で、マイノリティである在日コリアンの方たちが何を思いながら生きてきたのか。本作はそのことを知るうえで必要な1本になったと思います。映画の時代は70年代ですが、多文化社会になっている日本の今、もしくは少し先の未来の姿になるのかもしれません。

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2016年12月12日 (月)

今から71年前の呉で感じること

 映画「この世界の片隅に」について、もう少し書きたくなったのでおつきあいください。映画をご覧になった方にしかわかりにくい内容になるかもしれませんがお許しください。

本作は1943年から終戦後の19461月までの出来事です。広島で生まれ育った主人公のすずは海苔屋の娘です。国民学校初等科を卒業し5年後(おそらく16歳くらい)に親の勧めで見ず知らずの相手と結婚し呉で暮らし始めます。夫と両親、夫の姉とその子どもという大家族での生活ですが、当時としてはそう珍しいことではないと思います。夫は海軍軍法会議の録事、舅は海軍工廠に勤めています。舅は「お父ちゃんの科学話は止まらんけえね」という話から考えると技術系でしょう。つまり夫も舅もエリートだと推測されます。生活は貧しいけれど貧困ではありません。すずの周囲に住む人々も同様の生活を送っていると思われ、当時の多くの人がしていた暮らしぶりといってもいいでしょう。これが主人公すずの背景です。

現在からみると16歳はまだ子どもですが、当時はそれくらいで結婚した人が少なからずいます。知り合いの在韓被爆者の女性も16歳で結婚しています。「仕事もせずブラブラしていたら挺身隊でどこにいくかわからない。当時は産めよ増やせよの時代だから結婚した」と話していました。女子挺身隊は独身女性などを対象に集められ、職場を強制的に決められて働かされる奉仕組織です。この在韓被爆者のお母様は娘が挺身隊にとられて危険な場所で働かされるよりは結婚して自分の家の近所に住んだほうがましということで結婚させたのです。すずが結婚した理由は先方から申し込んできたために結婚をしたことになっています。すずの妹は挺身隊に行っています。もし結婚しなければすずも挺身隊に行っていたはずです。挺身隊の仕事場は主に軍需工場での作業です。兵器などを作っていたのです。戦闘員ではありませんが、少女たちも戦争を補佐していたのです。被爆者の沼田鈴子さんも少女時代に大砲の玉を磨きながら「日本が勝つためには敵を殺すのだ。自分はそのための名誉な仕事をしている」と思っていたそうです。沼田さんは「完全に軍国少女だった」と晩年、後悔の念を講演などで話されていました。

 すずの嫁ぎ先では南方などへ兵隊として家族は行っていませんが、すずの実兄は戦死しています。兄の遺骨は戻らず石ころ1つが家族に渡されました。すずの両親にとってはたった一人の息子、すずたちにとっては、たった一人の兄です。家族は死の実感のないまますずの兄の戦死を受け入れなければいけませんでした。徴兵制度は本人の意思に関係なく兵士にならなければいけません。戦争をしていなければすずの兄は兵士にならなかったのです。

 ある日、絵を描くことが好きなすずは軍艦をスケッチしているところを憲兵に咎められます。憲兵は一般市民を監視するような役目で時には理不尽な行動もしました。現在のように警察が巡回しているのとは全く異なる状態です。スパイがいないか、もしくはスパイではないかと監視されているような状況は穏やかな日常とはいえません。

 呉は軍都でしたから空襲もありました。空から爆弾や銃弾が撃ち込まれる恐怖を平和な日常しか知らない私には想像もつきません。ご存知の方も多いと思いますが、原爆投下前の広島は空襲がなかったため、わざわざ広島に移り住んだ方もいました。

 少女が兵器をつくらされ、少年たちが海外に行き人を殺し、殺される。監視されながら日常生活をおくる。いつか分からないけれども自分たちを殺そうと兵器が空から落とされる。20歳にならない、子どもと言ってもいい主人公すずが暮らした当時の日本はそういう状況でした。子どもだからといって戦争に加担しないわけにはいかなかったのです。戦地ではないけれど、こうした状況は狂気といってもいいと思います。

 映画では別の表現になっていますが、漫画では終戦の日どこかの家に掲げられたテグッキを見たすずは「ああ、暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ」と大粒の涙をこぼします。これは日本が朝鮮半島を植民地にしていたことを指しています。すずが生まれた時には朝鮮半島は日本の国だったので、朝鮮人が近所に住んでいたことをすずは当然知っていたと思います。テグッキがはためくのを見ただけで「暴力で従えとったいう事か」というセリフが出てくるためには、それなりのエピソードを見聞きしていなければいけませんから。すずが何を見ていたのかを私たちは考えなければいけません。

映画「この世界の片隅に」からは、すずが暮らした日常に戦争の狂気を感じ取らなければいけないと思います。戦争中の日本と現在の日本は違います。いま日本はどこの国とも戦争をしていないため、少女や少年が銃を触ることはないからです。しかし戦後71年経った私たちの暮らしの中には狂気はないのか、あらためて周囲を見渡して考えなければなりません。

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2016年11月29日 (火)

映画「この世界の片隅に」を見てきました

 こうの史代作の漫画『この世界の片隅に』のアニメーションを見てきました。原作は出版された当初に購入し読んでいたので、主演ののんさんへの期待や、詳細に描かれた戦時中の呉や廣島の様子を楽しみに見に行きました。その期待は裏切られることなく、画面には廣島らしい光景があふれていました。

主人公すずは廣島から軍港として栄えていた呉市にお嫁入りし、誰も知り合いのいない嫁ぎ先で悪戦苦闘しながら戦時下で夫と夫の家族と暮らしています。

すずは物のない時代に、着物を利用したり、道端の草を使ったりしながら、笑顔を絶やさず日々の暮らしを紡いでいました。しかしその生活は空襲警報で避難を余儀なくされるものであり、飛行機からの機銃掃射にさらされるものでした。見知らぬ男性との結婚、舅や姑、小姑との同居と与えられた状況を受け止め、淡々と暮らしているようにみえるすずは、気づかぬうちに脱毛しています。しかしそれでも笑って生活しています。けなげなのです。しかし原爆投下、終戦ですずは胸の中をようやく表に表します。

私は戦争体験をしていませんが、戦争を体験した方々と出会っています。どんな生活をしてきたのか、どんな思いをしていたのかを、本当にわずかばかりの、個人的な話をお聞きしています。しかし恐らく本当の苦しみや悲しみをお聞きしていないと思います。私の想像力が足りないのかもしれませんが、映画「この世界の片隅に」を見て、そんな気持ちになりました。

 映画は原作を忠実に映像化しており、世界観を損なわないように表現されています。大人も子どもも見ることができるものであると思いますが、やはりどちらかに対象を絞ってもよかったのではないかと思います。そして、それはやはり大人だったのではないでしょうか。すず以外の別の生活、具体的にいうと遊郭に勤めているりんの生活を描いてほしかったからです。戦争がなくても貧困はありますが、戦時下での貧困は平和な時代とは違うものだったのではないかと思うからです。学校に通い、海軍に勤務する男性と結婚するすずと、子どもの頃から一人で生きてきたと思われる遊郭に勤めるりん、その違いは何だったのか。原作でもりんの過去については殆ど描かれていませんが、今を生きる私たちが知らなければいけないことが、そこにあるような気がします。環境は違えども、すずとりんは時に出会います。映画ではほんのわずかなシーンですが、原作ではもっと深い因縁が描かれています。せっかく映画として新しく命が吹き込まれるのですから、原作には描かれていないけれど、裏で起こっていた出来事を入れてもよかったのではないかと思います。映画ならではの空間にすずを生きさせてあげてもよかったのではないかと。それはひょっとしたら厳しいものになるかもしれないけれど、「この世界」は、すずだけの世界ではないはずだから。

 

 

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2016年7月27日 (水)

『被爆者はどこにいても被爆者 郭貴勲・回想録』(郭貴勲・著)を読んで

 

今回も被爆者の方の本の紹介をします。韓国原爆被害者協会の元会長だった郭貴勲さんが書かれた『被爆者はどこにいても被爆者 郭貴勲・回想録』です。まずタイトルの「被爆者はどこにいても被爆者」は、日本にいる時しか被爆者健康手帳の効力がないことに対して裁判を起こした際の郭貴勲さんの言葉で、その後の多くの在外被爆者裁判のスローガンとなりました。

 

「植民地下で生まれて」「日本軍生活」「被爆」「戦争は終わったけれども」「帰国」「教育者の道」「山に登る」「捨てられた韓国人原爆被爆者」「人道的支援の虚と実」「被爆者はどこにいても被爆者」「韓国人被爆者とともに歩んだ日本人」「韓国原爆被害者協会と私」

 

本書はこのような構成になっており、郭貴勲さんが生まれてから在韓被爆者運動で活動するまでの人生が書かれています。それぞれの章に植民地下の朝鮮半島の方々の生活や思いが丁寧に描かれ、口には出せない気持ちを抱きながら生きてこられたのだなあと感じます。

 

一つひとつあげるとキリがないのですが特に被爆者運動に関してお話すると、初めて知ることも多く、ある程度は理解していたつもりの運動の詳細が伝わりました。郭貴勲さんの無念さがページをめくるごとに重くのしかかってきて、よくぞ郭貴勲さんが運動を続けられたと、心底から思いました。そして日本人支援者の執念にも似た強力な後押しに同じ日本人として感謝と安堵を感じました。

 

日本と韓国は1910年から45年まで同じ国でした。朝鮮半島の方々は日本人で、日本人として戦いました。そんな朝鮮半島の方々に日本は何をしたのでしょうか。韓国人の立場から見る日本を感じて頂きたいと思います。本書は2013年に韓国語で出版されました。そして20163月、日本語での出版となりました。図書館や大学などの図書館で見ることができます。最後に郭貴勲さんの冒頭の言葉で終わりにしたいと思います。

 

 

顧みれば、私がこの本を著すまで、広島・長崎で被爆して帰国した多くの仲間が無念のうちに亡くなりました。援護を手にするまでには、在韓被爆者の訴えを受け止めた日本の市民団体をはじめ良心的な政治家、言論人らの支援がありました。

 

原爆がもたらした人間的悲惨や、世界に拡散する核兵器の非人道性を、韓日にまたがる歴史を知ってほしい。真に友好な両国関係を築きたい。そう願い、「被爆者はどこにいても被爆者」と題して日本語版を刊行することにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年7月25日 (月)

『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』(関千枝子著)を読みました

13歳だった関さんは1945年8月、建物疎開作業をしていました。建物疎開とは空襲の際の防火地帯をつくるために家を倒し空き地を作る作業です。関さんは引き倒された家を片付け、瓦や材木、電線など使えるものを整理し、地ならしをしていました。その作業は中学校1年生2年生の子供たちが手作業で行っていました。8月6日、関さんは前の晩にお腹をこわしたため作業を休むことになりました。そして死をまぬがれました。いつもと同じように建物疎開作業に出たクラスメートは亡くなりました。

関さんの『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』は被爆証言ですが、証言だけにはとどまらない鋭い指摘があります。それは朝鮮半島出身者の被爆についてです。まず関さんは「日本教育史上最大の悲劇と言われている建物疎開作業で亡くなった少年少女たちのことを皆が知らなすぎる」と訴えています。そして2004年に広島平和記念資料館が作成した建物疎開作業を行っていた学校の動員数と死亡者、死亡率の数が合わないというのです。各学校で数人から10人以上の数が合わないのです。関さんはこの合わない人数こそが朝鮮人被爆者だと推測されています。

親しくさせて頂いている在日コリアンの被爆者も建物疎開作業をしていました。その方はずる休みをして助かっており、関さんと同じようにわずかな運でのサバイバーでした。建物疎開で亡くなったのは大多数が子供たちであることは理解しているつもりでしたし、帰ってこなかった朝鮮人の子供が大勢いることも想像がつきます。原爆戦災誌は何度も目にしているのに、数に関しては疑問を持たずに見ていました。そもそも朝鮮人被爆者数に関してはどう調べると正確な数に近づくのか、いつも困っていたのにです。関さんのご指摘は目からウロコでした。関さんの推測は非常に説得力がありました。なぜこうした数字の中に朝鮮人が隠されていることを考えなかったのか、と反省しました。

本著は長年、ジャーナリストとして活躍されている関さんの鋭い視点が貴重な歴史の資料として、朝鮮人被爆者に関しての問題提起となっていると思いました。関さんは毎年8月、平和公園内でフィールドワークを開催し、建物疎開の子供たちの悲劇を伝えています。また広島平和記念資料館の展示に建物疎開の子供たちについて展示するようにも訴えています。もちろん、その中に朝鮮人の子供たちがいたことも加えるようにです。戦後71年経っていますが、まだまだ考えてみることがあるのではないか。発見されることもあるのではないかと思見ました。名著でした。

 

 

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