本を読んで・映画を見て

本・映画・CD・美術などに触れて思ったこと

2016年12月12日 (月)

今から71年前の呉で感じること

 映画「この世界の片隅に」について、もう少し書きたくなったのでおつきあいください。映画をご覧になった方にしかわかりにくい内容になるかもしれませんがお許しください。

本作は1943年から終戦後の19461月までの出来事です。広島で生まれ育った主人公のすずは海苔屋の娘です。国民学校初等科を卒業し5年後(おそらく16歳くらい)に親の勧めで見ず知らずの相手と結婚し呉で暮らし始めます。夫と両親、夫の姉とその子どもという大家族での生活ですが、当時としてはそう珍しいことではないと思います。夫は海軍軍法会議の録事、舅は海軍工廠に勤めています。舅は「お父ちゃんの科学話は止まらんけえね」という話から考えると技術系でしょう。つまり夫も舅もエリートだと推測されます。生活は貧しいけれど貧困ではありません。すずの周囲に住む人々も同様の生活を送っていると思われ、当時の多くの人がしていた暮らしぶりといってもいいでしょう。これが主人公すずの背景です。

現在からみると16歳はまだ子どもですが、当時はそれくらいで結婚した人が少なからずいます。知り合いの在韓被爆者の女性も16歳で結婚しています。「仕事もせずブラブラしていたら挺身隊でどこにいくかわからない。当時は産めよ増やせよの時代だから結婚した」と話していました。女子挺身隊は独身女性などを対象に集められ、職場を強制的に決められて働かされる奉仕組織です。この在韓被爆者のお母様は娘が挺身隊にとられて危険な場所で働かされるよりは結婚して自分の家の近所に住んだほうがましということで結婚させたのです。すずが結婚した理由は先方から申し込んできたために結婚をしたことになっています。すずの妹は挺身隊に行っています。もし結婚しなければすずも挺身隊に行っていたはずです。挺身隊の仕事場は主に軍需工場での作業です。兵器などを作っていたのです。戦闘員ではありませんが、少女たちも戦争を補佐していたのです。被爆者の沼田鈴子さんも少女時代に大砲の玉を磨きながら「日本が勝つためには敵を殺すのだ。自分はそのための名誉な仕事をしている」と思っていたそうです。沼田さんは「完全に軍国少女だった」と晩年、後悔の念を講演などで話されていました。

 すずの嫁ぎ先では南方などへ兵隊として家族は行っていませんが、すずの実兄は戦死しています。兄の遺骨は戻らず石ころ1つが家族に渡されました。すずの両親にとってはたった一人の息子、すずたちにとっては、たった一人の兄です。家族は死の実感のないまますずの兄の戦死を受け入れなければいけませんでした。徴兵制度は本人の意思に関係なく兵士にならなければいけません。戦争をしていなければすずの兄は兵士にならなかったのです。

 ある日、絵を描くことが好きなすずは軍艦をスケッチしているところを憲兵に咎められます。憲兵は一般市民を監視するような役目で時には理不尽な行動もしました。現在のように警察が巡回しているのとは全く異なる状態です。スパイがいないか、もしくはスパイではないかと監視されているような状況は穏やかな日常とはいえません。

 呉は軍都でしたから空襲もありました。空から爆弾や銃弾が撃ち込まれる恐怖を平和な日常しか知らない私には想像もつきません。ご存知の方も多いと思いますが、原爆投下前の広島は空襲がなかったため、わざわざ広島に移り住んだ方もいました。

 少女が兵器をつくらされ、少年たちが海外に行き人を殺し、殺される。監視されながら日常生活をおくる。いつか分からないけれども自分たちを殺そうと兵器が空から落とされる。20歳にならない、子どもと言ってもいい主人公すずが暮らした当時の日本はそういう状況でした。子どもだからといって戦争に加担しないわけにはいかなかったのです。戦地ではないけれど、こうした状況は狂気といってもいいと思います。

 映画では別の表現になっていますが、漫画では終戦の日どこかの家に掲げられたテグッキを見たすずは「ああ、暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ」と大粒の涙をこぼします。これは日本が朝鮮半島を植民地にしていたことを指しています。すずが生まれた時には朝鮮半島は日本の国だったので、朝鮮人が近所に住んでいたことをすずは当然知っていたと思います。テグッキがはためくのを見ただけで「暴力で従えとったいう事か」というセリフが出てくるためには、それなりのエピソードを見聞きしていなければいけませんから。すずが何を見ていたのかを私たちは考えなければいけません。

映画「この世界の片隅に」からは、すずが暮らした日常に戦争の狂気を感じ取らなければいけないと思います。戦争中の日本と現在の日本は違います。いま日本はどこの国とも戦争をしていないため、少女や少年が銃を触ることはないからです。しかし戦後71年経った私たちの暮らしの中には狂気はないのか、あらためて周囲を見渡して考えなければなりません。

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2016年11月29日 (火)

映画「この世界の片隅に」を見てきました

 こうの史代作の漫画『この世界の片隅に』のアニメーションを見てきました。原作は出版された当初に購入し読んでいたので、主演ののんさんへの期待や、詳細に描かれた戦時中の呉や廣島の様子を楽しみに見に行きました。その期待は裏切られることなく、画面には廣島らしい光景があふれていました。

主人公すずは廣島から軍港として栄えていた呉市にお嫁入りし、誰も知り合いのいない嫁ぎ先で悪戦苦闘しながら戦時下で夫と夫の家族と暮らしています。

すずは物のない時代に、着物を利用したり、道端の草を使ったりしながら、笑顔を絶やさず日々の暮らしを紡いでいました。しかしその生活は空襲警報で避難を余儀なくされるものであり、飛行機からの機銃掃射にさらされるものでした。見知らぬ男性との結婚、舅や姑、小姑との同居と与えられた状況を受け止め、淡々と暮らしているようにみえるすずは、気づかぬうちに脱毛しています。しかしそれでも笑って生活しています。けなげなのです。しかし原爆投下、終戦ですずは胸の中をようやく表に表します。

私は戦争体験をしていませんが、戦争を体験した方々と出会っています。どんな生活をしてきたのか、どんな思いをしていたのかを、本当にわずかばかりの、個人的な話をお聞きしています。しかし恐らく本当の苦しみや悲しみをお聞きしていないと思います。私の想像力が足りないのかもしれませんが、映画「この世界の片隅に」を見て、そんな気持ちになりました。

 映画は原作を忠実に映像化しており、世界観を損なわないように表現されています。大人も子どもも見ることができるものであると思いますが、やはりどちらかに対象を絞ってもよかったのではないかと思います。そして、それはやはり大人だったのではないでしょうか。すず以外の別の生活、具体的にいうと遊郭に勤めているりんの生活を描いてほしかったからです。戦争がなくても貧困はありますが、戦時下での貧困は平和な時代とは違うものだったのではないかと思うからです。学校に通い、海軍に勤務する男性と結婚するすずと、子どもの頃から一人で生きてきたと思われる遊郭に勤めるりん、その違いは何だったのか。原作でもりんの過去については殆ど描かれていませんが、今を生きる私たちが知らなければいけないことが、そこにあるような気がします。環境は違えども、すずとりんは時に出会います。映画ではほんのわずかなシーンですが、原作ではもっと深い因縁が描かれています。せっかく映画として新しく命が吹き込まれるのですから、原作には描かれていないけれど、裏で起こっていた出来事を入れてもよかったのではないかと思います。映画ならではの空間にすずを生きさせてあげてもよかったのではないかと。それはひょっとしたら厳しいものになるかもしれないけれど、「この世界」は、すずだけの世界ではないはずだから。

 

 

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2016年7月27日 (水)

『被爆者はどこにいても被爆者 郭貴勲・回想録』(郭貴勲・著)を読んで

 

今回も被爆者の方の本の紹介をします。韓国原爆被害者協会の元会長だった郭貴勲さんが書かれた『被爆者はどこにいても被爆者 郭貴勲・回想録』です。まずタイトルの「被爆者はどこにいても被爆者」は、日本にいる時しか被爆者健康手帳の効力がないことに対して裁判を起こした際の郭貴勲さんの言葉で、その後の多くの在外被爆者裁判のスローガンとなりました。

 

「植民地下で生まれて」「日本軍生活」「被爆」「戦争は終わったけれども」「帰国」「教育者の道」「山に登る」「捨てられた韓国人原爆被爆者」「人道的支援の虚と実」「被爆者はどこにいても被爆者」「韓国人被爆者とともに歩んだ日本人」「韓国原爆被害者協会と私」

 

本書はこのような構成になっており、郭貴勲さんが生まれてから在韓被爆者運動で活動するまでの人生が書かれています。それぞれの章に植民地下の朝鮮半島の方々の生活や思いが丁寧に描かれ、口には出せない気持ちを抱きながら生きてこられたのだなあと感じます。

 

一つひとつあげるとキリがないのですが特に被爆者運動に関してお話すると、初めて知ることも多く、ある程度は理解していたつもりの運動の詳細が伝わりました。郭貴勲さんの無念さがページをめくるごとに重くのしかかってきて、よくぞ郭貴勲さんが運動を続けられたと、心底から思いました。そして日本人支援者の執念にも似た強力な後押しに同じ日本人として感謝と安堵を感じました。

 

日本と韓国は1910年から45年まで同じ国でした。朝鮮半島の方々は日本人で、日本人として戦いました。そんな朝鮮半島の方々に日本は何をしたのでしょうか。韓国人の立場から見る日本を感じて頂きたいと思います。本書は2013年に韓国語で出版されました。そして20163月、日本語での出版となりました。図書館や大学などの図書館で見ることができます。最後に郭貴勲さんの冒頭の言葉で終わりにしたいと思います。

 

 

顧みれば、私がこの本を著すまで、広島・長崎で被爆して帰国した多くの仲間が無念のうちに亡くなりました。援護を手にするまでには、在韓被爆者の訴えを受け止めた日本の市民団体をはじめ良心的な政治家、言論人らの支援がありました。

 

原爆がもたらした人間的悲惨や、世界に拡散する核兵器の非人道性を、韓日にまたがる歴史を知ってほしい。真に友好な両国関係を築きたい。そう願い、「被爆者はどこにいても被爆者」と題して日本語版を刊行することにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年7月25日 (月)

『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』(関千枝子著)を読みました

13歳だった関さんは1945年8月、建物疎開作業をしていました。建物疎開とは空襲の際の防火地帯をつくるために家を倒し空き地を作る作業です。関さんは引き倒された家を片付け、瓦や材木、電線など使えるものを整理し、地ならしをしていました。その作業は中学校1年生2年生の子供たちが手作業で行っていました。8月6日、関さんは前の晩にお腹をこわしたため作業を休むことになりました。そして死をまぬがれました。いつもと同じように建物疎開作業に出たクラスメートは亡くなりました。

関さんの『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』は被爆証言ですが、証言だけにはとどまらない鋭い指摘があります。それは朝鮮半島出身者の被爆についてです。まず関さんは「日本教育史上最大の悲劇と言われている建物疎開作業で亡くなった少年少女たちのことを皆が知らなすぎる」と訴えています。そして2004年に広島平和記念資料館が作成した建物疎開作業を行っていた学校の動員数と死亡者、死亡率の数が合わないというのです。各学校で数人から10人以上の数が合わないのです。関さんはこの合わない人数こそが朝鮮人被爆者だと推測されています。

親しくさせて頂いている在日コリアンの被爆者も建物疎開作業をしていました。その方はずる休みをして助かっており、関さんと同じようにわずかな運でのサバイバーでした。建物疎開で亡くなったのは大多数が子供たちであることは理解しているつもりでしたし、帰ってこなかった朝鮮人の子供が大勢いることも想像がつきます。原爆戦災誌は何度も目にしているのに、数に関しては疑問を持たずに見ていました。そもそも朝鮮人被爆者数に関してはどう調べると正確な数に近づくのか、いつも困っていたのにです。関さんのご指摘は目からウロコでした。関さんの推測は非常に説得力がありました。なぜこうした数字の中に朝鮮人が隠されていることを考えなかったのか、と反省しました。

本著は長年、ジャーナリストとして活躍されている関さんの鋭い視点が貴重な歴史の資料として、朝鮮人被爆者に関しての問題提起となっていると思いました。関さんは毎年8月、平和公園内でフィールドワークを開催し、建物疎開の子供たちの悲劇を伝えています。また広島平和記念資料館の展示に建物疎開の子供たちについて展示するようにも訴えています。もちろん、その中に朝鮮人の子供たちがいたことも加えるようにです。戦後71年経っていますが、まだまだ考えてみることがあるのではないか。発見されることもあるのではないかと思見ました。名著でした。

 

 

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2015年11月 4日 (水)

チェルノブイリ原発事故の被害者は何を体験したのか~『チェルノブイリの祈り 未来の物語』スベトラーナ・アレクシエービッチ著を読んで

 ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチ氏の著書『チェルノブイリの祈り 未来の物語』を読みました。受賞当時、書店になかったのですが重版されると聞き、書店に並ぶのを待って購入しました。ページをめくるたび溜息がでて、それが最後まで続きました。衝撃的な内容でした。福島原発事故を起こした日本、日本に住む人は今も渦中です。タイトルの副題“未来の物語”は今日を生きる私たちへの警鐘であり、明日から続く将来への警告と受け止めるべきでしょう。今年のノーベル文学賞がもしスベトラーナ・アレクシエービッチ氏でなかったとしたら、この本が再度書店に並ぶことは難しかったかもしれません。だとしたら、この度のノーベル賞がいかに大きな意義を持ったのか、はかり知れません。私の気持ちとしては内容を抜粋してご紹介したいのですが、やはり手に取って読んでいただくことが最善ですので抜粋はしないことにします。

 『チェルノブイリの祈り 未来の物語』はチェルノブイリ原発事故の被害者たちのインタビューが綴られています。事故の時どこにいて何をしたのか、その後どうなったのか、どんな気持ちなのかがモノローグ形式で書かれています。目の前に本人がいるような感じで読んでしまうため、どうすることもできない救いのない状況や持って行き場のない気持ちに、やるせなさとなぜが後から後から湧いてきます。最後まで答えはありません。作者は事故後すぐに汚染地に入り様々な人と会ったといいます。取材は子供からお年寄りまで300人にも及びましたが、発表したのは事故後10年経ってからだったそうです。取材した人数、文章にするまでの歳月がこの著書が完成するまで抱えた葛藤のすさまじさの一端を物語っていると思います。一人一人が体験したことを読者が自分の身に置き換えた時、登場人物の姿は私たちの未来となって浮かび上がってきます。

 私はこの本に登場する一人一人が広島や長崎で被爆した人々と重なって仕方がありませんでした。原爆投下直後の情報はプレスコードがあり、新聞は検閲が行われ規制されていた時期がありました。自分や周囲の被害については目の前で見えているので分かっていても、全体の状況として一般の人が把握することは困難でした。自分に起こっていることが何なのか知らされず、分からないまま原爆が落ちたその場所に被爆者が住み、被爆者自らが街の復興を成し遂げました。被爆者の生存者調査は1950年、実態調査が実施されたのは1965年です。それまでの過程で被爆者に何が起こっていたのか、日本政府も把握していないといっていいと思います。あくまでも私の個人的な意見ですが、この原爆被爆者の調査されていない隙間を埋める記憶がチェルノブイリ原発事故被害ではないかと思っています。チェルノブイリ原発事故後に起こった被害者の姿がヒロシマ・ナガサキの被爆者の姿なのではないか。そしてチェルノブイリの被害者の未来が、今生きているヒロシマ・ナガサキの被爆者の姿なのではないかと。『チェルノブイリの祈り 未来の物語』を是非ご一読ください。

 

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2015年6月23日 (火)

映画「あん」見ました。いい映画でした。

映画「あん」(河瀨直美監督)を見ました。いわゆるシネマコンプレックスで上映していたことと、若干年齢は高めですが様々な方が見に来られていることに驚きました。ハンセン病という社会問題を扱った内容で、大きな映画館で上映というのは邦画ではなかなか難しいのではないかというイメージがあったため、私の方が映画に対して偏見を持っていたことを思い知らされました。

映画は公園の一角にある小さなどら焼き屋が舞台です。そこで黙々とどら焼きを売る主人公と、そこに通うハンセン病回復者、女子高生の小さなお話です。内容はフィクションですが、扱っているハンセン病や差別意識は事実です。悲しみや怒りといった感情を高ぶらせることのない表情から、私たちはその奥に隠された思いを知るのです。ハンセン病回復者の言葉の一つひとつが心にしみ、宝物のように感じます。静かに静かに始まり、穏やかに終わりますが、その中には悲しみや幸せが詰まっています。私たちが見て感じたことを心にしまいこむのではなく出していく。その時初めて、この映画はエンドマークを掲げるのかもしれません。

 

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2015年3月26日 (木)

日常と非日常を無くした兵士は何を夢みるのか 「アメリカンスナイパー」を見ました

大ヒット作品となっているクリント・イーストウッド監督の「アメリカンスナイパー」を見てきました。私はアメリカが行っている戦争に対する疑念をアメリカ内部から訴えた作品だと思いました。

 ご存知の方も多いと思いますが、映画はイラク戦争に出征し、アメリカ軍で最も有名な狙撃手であるクリス・カイルの自叙伝に基づいて制作されているものです。主人公はアメリカ海軍特殊部隊・ネイビーシールズの狙撃手です。イラクで仲間を援護するために敵を狙撃し、その腕は伝説と言われるまでになりますが、本人は心が蝕まれていってしまいます。戦時中の日本でいうところの軍神の自伝ですが本作品では主人公を英雄視していません。同じ軍隊の仲間からは神のように尊敬されますが、妻や弟といった家族からは否定されるのです。あなたのやっていることは本当に必要なことなのかと。主人公は4回の派兵で日常と非日常の境界をなくしてしまいました。一方的なほどのアメリカ目線から描いている内容にも関わらず、主人公が戦地に行けば行くほど、戦地から家庭に戻り安らいでいればいるほど、戦場での英雄的行為が愚かなものに見えてくるのです。上映時間のほとんどを銃撃戦に費やし主人公が狙撃するイラクの人々は、その様子から民間人や子供、かつてはオリンピック選手だったアスリートと戦争の犠牲者たちです。モノローグがないため主人公へ感情移入することなく、狙撃されるイラクの人々の姿がはっきりと浮かび上がってくるのです。反対に冗談を言い合い、戦地から戻れば安らぎの家庭が待つアメリカ兵の姿を目の当たりにします。戦場はなぜ戦地になっているのでしょうか。兵隊がいくからです。行って銃を撃つからなのです。

イーストウッド監督の戦争ものは「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」を鑑賞しており、今回が3本目です。前者は日本軍の目線で後者はアメリカ軍の目線からとらえており、戦争は人間同士の戦いであり、かつてアメリカ軍と戦った日本軍も同じ人間であったことを、両方の視点から描くことで伝えていました。また星条旗の方ではマイノリティーにも少し触れていて、アメリカが抱える人種問題も描いていました。

私はイーストウッド監督の映画は行間を見る映画だと思っています。アメリカ社会に強烈なメッセージを持ちながらもエンターテインメントとして完成されている本作品が、本国でどのように受け入れられヒットとなったのか残念ながら知るよしもないのですが、アメリカが行っている戦争について考えるために見ておくべき1本だと思います。

 

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2015年1月21日 (水)

相原由美・歌集『鶴見橋』を読んで

 鶴見橋は広島駅から続く京橋川の下流、陸軍墓地がある比治山のふもとにある橋です。被爆樹のシダレヤナギが橋のたもとにあり、いつも千羽鶴がかけられています。その橋がタイトルになっている歌集『鶴見橋』を読みました。「抑留死名簿」「徴用工被爆者裁判最終陳述」「徴用工被爆者裁判勝訴」など、短歌とは思えないタイトルが並び、在韓被爆者支援などを行っている活動家でもある作者の生き様が詠われています。

「四十年口にせざりし日本語にあふるるごとく被爆を語る」

「座り込みも辞さぬと気負う老い人を企業の論理は易やすと刺す」

「抗議文 申し入れ書 嘆願書 文案を練るそれぞれ黙して」

「松本と創氏改名されし日のくやしみの声法廷に沁む」

 

在韓被爆者の方々を長い間、支えてきた相原さんの思いがよく伝わってきます。30年間の歌人生活で気がつくと活動のことを詠っていたの。裁判のことなんて歌にする人はいないでしょ」と相原さんは笑いました。

「戦争にはどうしてもこだわっていきたいの。私の年代がやらなければ、もうこだわる人がいなくなるでしょう」いつも穏やかな相原さんが少し、強い口調になりました。そして「運動をしている人や研究者は、戦争のことはよく分かっているかもしれないけれど、関心のない人には広がっていかない。私が歌集をだすことで、歌人にも知られることになると思うの」。

本著で初めて知ったのが相原さんのお父様がシベリア抑留者であったということです。お父様はシベリアでお亡くなりになったそうです。ご自身の活動の原点と源が戦争だったのです。

 

 

 

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2014年7月24日 (木)

100年前の日本人の「こころ」。夏目漱石を読んでみました。

今からちょうど100年前の1914728日に第一次世界大戦が勃発しました。ここから世界が戦争の時代に入っていきました。当時の日本の雰囲気はどのような感じだったのでしょうか。

日本では夏目漱石の『こころ』が新聞に連載されています。漱石が『こころ』を書いたきっかけは、日露戦争で犠牲者を数多く出したことに自責の念を抱いていた陸軍大将・乃木希典の死だったといいます。漱石は妻と共に自刃した乃木希典を明治精神の象徴と感じテーマにしたというのです。この頃の社会や人々がどのように考えていたのかを知りたいと思い再読してみました。

昔、読んだ時は青春の話しとしてしか感じませんでしたが、改めて読むと就職難や離れた家族の介護など、若い時には心に留めなかったテーマが次々と浮かび上がり、現代社会と同じような問題を抱えていたことに気が付きました。親戚や友人との関係も今も起こりうる状況ですし、先生や主人公の気持ちがすっと入ってきます。今とそう変わりのない生身の苦悩を感じました。

直接、戦争のことを指しているわけではないのですが、戦争時の社会の雰囲気はこうであったのではないかと想像してしまった言葉がありました。先生が主人公に言った言葉です。

悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。」。

漱石が体験した善人が悪人に代わる瞬間がどういう場面だったのかわかりませんが、ひょっとするとそれは漱石自身だったのかもしれませんし、陸軍大将・乃木希典だったのかもしれません。もちろん世論かもしれません。現代にも通じる俚諺として心しておく必要があると思いました。

 

 

 

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2014年6月18日 (水)

済州島で起こった惨劇を描いた映画「チスル」

済州島を表す言葉として「三多三無」という言い方があります。「風、岩、女性」の3つが多く、「泥棒、門、物乞い」が無いというものです。済州島の風景と穏やかでおおらかな人柄が目に浮かぶような言葉です。数年前、私が済州島を訪れた時は夏でした。韓国国内で新婚旅行先に人気の高い場所というだけあって、空港は多くの韓国人でにぎわっていました。

この時、私は済州島に点在する日本軍の戦争遺跡を巡るフィールドワークに参加しました。大阪を中心に日本全国から参加者が済州島に集まったのでした。済州島出身の方もおられ、その方の実家も訪れることができました。岩でできた低い塀のある済州島らしいお宅でした。フィールドワークでは1948年4月3日に起きた済州島4・3事件で韓国軍と警察から島民が殺された現場にも行きました。虐殺は7年以上も続き、約3万人が犠牲になったといいます。ある場所では村人全員が殺されたと聞き、現在の風光明媚な島の風景からは想像もつかない悲惨な事件をどう受け止めていいのか分かりませんでした。朝鮮戦争の序曲という見方もあるようで、その4・3事件をテーマにした映画が「チスル(オ・ミョル監督2012年製作)」です。韓国語の「チスル」という単語を調べても分からなかったので、どういう意味だろうと思っていたら、済州島の方言でジャガイモのことを「チスル」というのだそうです。映画では鎮魂の祈りを込めた美しい映像で4・3事件を伝えています。

映画は監督を始め、俳優やスタッフも済州島出身者で製作されています。ですから済州島の美しさ、自然の厳しさ、島民の人柄が画面からにじみ出ています。だからこそ、そうした場所で起こった惨劇のむごたらしさがより際立っています。殺害する方も被害者も人間的な部分をさらけ出し、まさに不条理としか言いようのない状況に、なすすべもない人たちはどうなっていくのか。観客は戸惑いながら画面を見続けるしかありません。私は辛くて仕方がありませんでした。

この映画は韓国国内で大ヒットしたそうです。パンフレットには「歴史から抹殺された韓国現代史最大のタブー」というコピーが書かれています。事件の内容は映画だけではわかりにくいかもしれません。もちろん4・3事件を知らなくても映画を見ることはできますが、済州島で何があったのかご自身でお調べになっていただいてから、映画を鑑賞されることことをお勧めします。これは過去のよその国で起こった事件として片付けられないということ、私たちは被害者にも加害者になるうるのだということを知ることになると思います。独立戦争や民族紛争など今も世界のあちこちで、同じような惨劇が繰り広げられているのですから。

 

 

 

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