韓国・朝鮮半島

韓国に行って思ったこと、など韓国にまつわる話

2019年1月28日 (月)

学習会「戦後処理、日本はどのように解決できるか」

新年に入り今月14日には日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク主催の学習会「戦後処理、日本はどのように解決できるか」が行われました。講師には強制動員真相究明ネットワーク事務局次長で日本軍「慰安婦」問題解決全国行動資料チームメンバーの小林久公さんが来られました。この会場も補助席が出て、歩く隙間もないほど大勢の人が参加していました。講演では長年、強制動員問題に関わってこられた小林さんならではの情報が多く、私自身、分からなかった部分を補うことができました。日韓条約について私はきちんと勉強してこなったので、あらためて勉強しなければいけないと思いました。

 

小林久公さんのお話『日本政府は歴史的事実の認定をすることが大事だ。まず被害者の被害に向き合うこと。事実認定は研究者や市民など色々な人が調べているから、日本政府が認めればすぐに解決できるはずだ。被害者が望む解決法をすればいい。日韓条約では、日本政府の立場は外交保護権は消滅しているが、個人の請求権は消滅していないということだ。しかし個人の財産権については日本国内の立法で処理することにしている。韓国人の財産請求権措置法だ。これは韓国人の財産、つまり供託金や郵便局の預金などが「韓国人であると確認できたら、その財産は預かっている人のものになる」というものだ。この立法は日韓条約の年に制定された。またこの立法では精神的な苦痛にはふれていない。そもそも個人の損害をその国を通して請求すべきという日本政府の考えは古い考え方だ。現在の法の解釈は違う。日本の運動家は以前「強制連行」という言葉を使っていたが、今は「強制動員」にしている。そもそも日本の植民地支配そのものが合法といえるものだったのか。日本側の市民運動家もこれまで取り組んできていなかった。日本社会は植民地支配について、悪いことであったという認識をつくっていくことが必要だ。』

 

他の分野と同様に歴史に対する研究も日々進んでいきます。若い研究者や他の分野の研究者も関心を持っているからです。そして歴史に対する考え方や表現などが時代によっても変わってきます。こうした研究などをふまえ、過去の事実を日韓両方で突き合わせていくことがこれから必要なのではないかと思います。それは簡単なことではないし時間もかかるでしょう。しかし何十年かかっても、やり遂げなければいけないことなのではないでしょうか。そして一番大事なのが、この事実を日韓両方の国民が知ることです。私自身も注視していかなければいけません。

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2019年1月24日 (木)

2019年、日韓関係はどこへ向かうのでしょうか

私は広島に来て今年で19年目になりますが、これほど日韓関係が悪かったことはないと感じていますし、また日本人の韓国に対する感情も悪いものばかりが目立って仕方がありません。しかし一方で、若い人の間で起こった韓流は定着し、ポップカルチャーの最前線といった勢いのある人気を得ていることに嬉しさも感じています。わずか2年ほどの間で嫌韓と親韓が水と油のように混じり合うことなく存在している奇妙な状況を目にして、日本人の本音がどこにあるのかを測りかねています。

昨年末から年明けすぐ日本の植民地支配に関する集会が広島市内で次々に行われ会場は超満員でした。こうした集会の場合、知っている方が来られているのが常でしたが、昨年から開催されている集会ではお会いしたことのない方が圧倒的で、朝鮮半島問題に関心を持つ方が多くいらっしゃることを実感しています。来られた方々が集会の何に関心を持ち、何を知り、どう感じたのか。そしてその気持ちをどのような行動で表すのか。いつか聞く機会があれば是非知りたいと思っています。今回から数回に分けて、2つの集会についてご報告します。まずは昨年12月24日に行われた「広島・三菱の強制連行の実態を暴く」からご紹介します。

 

韓国の原爆被害者を救援する市民の会が主催した講演会「広島・三菱の強制連行の実態を暴く」は講師に韓国から許光茂さんを迎えて行われました。許光茂さんは韓国の国の機関に所属して、韓国国内と日本国内で強制動員(いわゆる強制連行のことです)された朝鮮半島の人々の実態を調査された方です。膨大な資料収集に加え、生存者や遺族などから直接聞き取りも行い、日本の強制連行の実態を知る第一人者です。限られた時間の中、流暢な日本語で分かりやすく伝えてくださいました。以下は講演内容です。

 

許光茂さんの話『自分が最初に話を聞いたハラボジ(おじいさん)のことは今でも忘れることはできない。南部の農家の人で国から調査に来たというので緊張していた。片方の耳が空襲で聞こえなくなっていた上に、もう片方も高齢のために聞こえにくかった。そのため筆談となったが話は進まなかった。具体的に話すことができなかったのだ。帰り際、話せない悔しさに涙していた。その後、多くの人と会ったがみんな上手く話せない。私は来日し日本の動員先に行ってみた。ハラボジの気持ちが伝わって来た。ハラボジたちは当時、日本語も分からず、どこの会社に派遣されたかも知らない。自分がどこにいるのか場所も分からない。現場では日本語の達者な朝鮮人が韓国語で指示したため、日本語は必要がなかった。そして「余計なこと言うな」「聞くな」と何も教えてもらえなかったのだ。私は現地に行ってみてハラボジが何も話せない理由を理解した。強制動員は計画的だった。動員先に出身者がだぶらないようになっていた。強制動員は出身者によって反応が違う。例えば東北側から動員された人は山で畑がつくれないため、食べ物に困っていた人たちだった。だから炭坑の仕事はひどいが「3食、食べられた」と言う。しかし南西側からの人は食べ物が豊富な地域で料理も美味しく、畑仕事の合間に簡単な食事をするような習慣のある人たちだったから「3食しかない」と言う。3食では足りないのだ。しかも食事の内容は握り飯1個だ。日本人と同じ量だが感覚が違うのだ。また炭鉱は学歴による動員先の選定があった。炭鉱の仕事は1度働くと逃げるので、逃亡防止のために監禁、虐待が行われた。頭の切れる人は炭坑に行かせず、知識のない人や素朴な人、農民を連れて行った。軍需会社は学歴の高い人が行かされた。日本側としては文句を言わないだろうと考えたように思う。また朝鮮半島内の動員については、本人も周囲も強制連行だと思っていないところがある。海を渡ると強制連行だが、国内は違うと考えているようだ。募集、官斡旋、徴用と言葉は違うが、監禁、虐待、強制労働と現場でやっている中身は同じだ。こうしたことは日本政府や総督府が関わらないとできないし、そもそも朝鮮人は簡単に移動できないようにしていた。あるハラボジは話したあと「すっきりした」と言った。今まで誰も耳を傾けてくれなかったからだ。私(韓国政府)が来たので喜んで話したようだ。日本政府が来て話を聞けば恨みもなかったのではないかと思う。日韓両政府とも話を聞けばと感じる。』

 

 植民地支配により朝鮮半島の人々に対して何が行われたのか。強制動員先で何があったのか。市民レベルでは植民地時代を理解しようとしている人たちが確実にいます。歴史の事実を知る人が増えれば、日韓に横たわる溝も少しは浅くなるのではないかと思っています。

 

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2017年2月21日 (火)

久しぶりの韓国訪問。おまけ「無料Wi-Fi豆情報」

韓国とカフェ。ちょっとピントこないと思いますが、韓国にあるカフェはオシャレでコーヒーや食べ物も美味しいんです。加えて何より無料WiFiが使えて便利です。日本で無料WiFiは大手ファストフード店くらいしか思いつきませんが韓国ならカフェに行けば恐らく殆ど利用できます。長時間いてもOKなのも嬉しい限りです。このカフェは街中至るとこにありますから、とても使い勝手がいいと思います。シアトル系コーヒー店をイメージしていただければよく、コーヒーはサイズを選べ、価格はほぼ日本と変わりません。ちなみにコーヒー以外の飲み物ももちろんあります。お菓子もありますので、韓国土産に買うのもいいかもしれません。是非、利用してみてください。

また鉄道の駅、例えば釜山駅といった公共の場所でも無料WiFiが利用できる所が結構あります。街中で利用したい時は、カフェや公共施設に行くといいと思います。韓国に行かれる方、是非ご利用ください。

おまけのおまけですが、釜山で流行っている食べ物を食べました。店はいつも若者が並んでいたので、私も並んで買ってみました。スペルは違うのですが、最初はホットクだと思いました。しかし出てきたものはいわゆるフレンチドックを揚げたもので、グラニュー糖やケチャップなどを付けて食べるものでした。ホットクではなく「ホットドック」なのでした。サルという字があるので恐らく皮は米粉を使用していると思います。油であげているので1本たべるのに少しきつかったですが、若者の好きそうな味だなあと思いました。具の種類も豊富なのでお試しあれ。

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2014年9月 3日 (水)

「土の記憶」が大阪で上映されます。

大阪のシネ・ヌーヴォXさんで現在、開催されている「中編映画祭」で、

明日から「土の記憶」が上映されます。

広島と朝鮮半島の歴史が重なる時代のライフヒストリーです。

是非、見に来てください。

 

9日と10日には私も会場にお伺いします。

みなさんとお話しできれば嬉しいです。

 

 

上映日程は以下の通りです。

 

●「中編映画祭2014」 開催:シネ・ヌーヴォX

「土の記憶」上映日時

9月4日 1730

9月7日 1600

9月9日 1600

9月10日 1730

http://www.cinenouveau.com/sakuhin/cyuhen/cyuhen.htm

 

 

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2013年7月11日 (木)

徴用工の新日本製鉄訴訟記事を見て

 昨日、ソウルの高裁は日本製鉄の後身である新日本製鉄を相手に強制徴用の被害賠償を求めた裁判で、企業に対して元徴用工たちに1億ウォン(約900万円)ずつの支払いを命ずる判決をくだしました。この判決は在韓被爆者が三菱重工を相手に起こした裁判の判決にも大きく影響するものと思われます。

 前日のブログ中、徴用工たちなどが日本で起こした裁判の多くが敗訴していると書きました。その理由の大きなものに「国家無答責」と「企業の非同一性」があります。前者は「戦前の憲法において国家は責任を負わない」という法的解釈、後者は「戦前と戦後は同じ会社ではない」という会社側の一方的な主張です。後者においては社史の中でも前身として昔の会社名をだしているにも関わらず、「別の会社」と主張し「違う会社が行った行為に対して責任はない」というものです。

戦後補償裁判での敗訴や棄却が多い中、例外といって過言ではないのが在韓被爆者を含む在外被爆者裁判です。勝ち続けている理由は「被爆者はどこにいても被爆者」だからです。つまり、原爆の被害を受けているのは19458月6日広島に、9日長崎にいた人だけだからです。日本政府は被爆者支援を国籍に関係なく行っているのにも関わらず、日本に住んでいないという理由で在外被爆者を排除してきました。そこを裁判では認められたのです。

 このたびの新日本製鉄のような戦後補償裁判が続けられるには意味があります。それは個人的なものではなく被害者代表としての位置づけです。現在も行われている在外被爆者裁判も同様です。たった一人の手帳取得のための裁判ではなく、まだ手帳を取得してない他の被爆者みんなのための裁判です。決して個人的な利益のためではないのです。また戦後補償裁判によって明らかにされる事実は日韓に共通した歴史認識として両国とも理解することができます。裁判は当事者だけにしか関係ないものではないのです。今後の裁判の動きを見守っていきたいと思います。

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2013年4月11日 (木)

どうなるのでしょう。北朝鮮のミサイル・・・

 新年度の初めだったので嫌なことを書きたくなったのですが、ブログを更新した日は福島の汚染水問題や北朝鮮のミサイル準備といった人命に関わる出来事が起こっていました。まだ北朝鮮のミサイルは発射されていないようですが、安心はできません。昨日、今日と韓国の新聞のHPの記事をみてみました。

 

10日の朝鮮日報では「軍関係者は"北朝鮮は政治的決断だけあれば、今日中(注:10日)いつでも撃つことができる状況"としながら、"ムスダンと共にスカッドとノドンミサイルを同時に発射する可能性もある"と話した。」と伝えています。東亜日報は「国防部関係者は“北朝鮮は今回、ムスダンミサイルを撃つ場合、成功する可能性が非常に高いと見て発射強行を決心したと見られる”と話した。」という記事もあげています。中央日報の「北ミサイル撃てば10分内で到達…日本非常」という見出しの記事もありました。

 

緊迫した状況が伝わってきますが、一方で次のような内容もありました。同日の東亜日報では北朝鮮にいる外国人の退避勧告に対しホワイトハウスのスポークスマンの定例説明として「地域内の緊張を高めようとするためのことで、数年間、北朝鮮問題を扱った人々には分かり切った行動パターンだ」。また韓国国民の意識として中央日報では「私たちの国民の10人中7人は北朝鮮が武力挑発をしないと思っていることが明らかになった。」「10人中9人以上が北朝鮮との戦争に備えて何の準備をしないでいると調査された。」という調査内容が掲載されていました。いつもの挑発行為と捉えている様子もうかがえました。

 

今日、11日は次のような記事が掲載されていました。つい忘れがちなのですが、韓国と北朝鮮は戦時中なのだということが胸に響く内容でした。長い長い記事だったのですが少しだけご紹介します。タイトルは“南北が憎い。子供を軍隊に送りだす心情が分かるのか”?です。

 「北朝鮮がまもなくミサイルを撃つという朝のニュースに、夫婦は一人で行くという息子を追ってターミナルまで出た。 お父さんは息子を抱きしめてからバスに乗せた。“除隊を一ヶ月後に控えているのに、南北関係が悪化して心配です。 健康で帰って来れば他に望むことはありませんが…。戦争はゲームではない。両側政治指導者が緊張だけ高めさせ、まるで1950年代に戻ったようだ”。夫婦は息子が好むハンバーガーを外食させた。 今日に限って見送る時間が長くなった。」(11日、ハンギョレ新聞のHPより)

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2012年5月23日 (水)

陜川非核・平和大会で感じたこと~報告会にて

 帰国後、広島から大会に参加した方々などが集まり、報告会が設けられました。平日の夕方、2時間程度、時間をかけたのですが、それでは足りず翌週も行うほど参加者の方々の思いは熱いものでした。広島から被爆者や被爆二世、ジャーナリストなど様々な方が陜川に行っていたようです。

 報告会では各々が感じたことを話し合いました。それぞれの立場から思いは異なっていたようですが、共通したことは今大会の盛り上がりに感動したことと、有名人によるライブコンサートに驚いたことでした。私はこのコンサートを見ることはできなかったのですが、かなり盛大だったようです。韓国では芸能人が反核・平和運動に対し自分の意思を表明し、活動まで行うというのは当たり前のことなのかもしれませんが、こうした運動の在り方に広島からの参加者は目を見張ったようでした。参加者の方々の感想を少しご紹介します。

・被爆者~今回、韓国に初めて行った。陜川では少女たちが楽しげだった。この少女と同じ年齢の子供たちが広島で消えたのだと思った。ソウル駅前で集会があったので参加した。熱気に圧倒された。

・被爆二世~県内で農家をしている。陜川には行ってみたかった。陜川は自分の子供のころの風景そのままだった。あそこからどうやって釜山まで行ったのか不思議だった。帰国後の苦労に涙した。家族や病気の話など、日本で聞く話と変わらなかった。身につまされる思いだった。

・ジャーナリスト~日本は唯一の被爆国ではないと実際に行って感じた。被爆二世三世は広島や日本ではあまり話題にならないし、とりあげられないが、韓国は問題になっているようだ。韓国の二世は現実に病気や障害で苦しんでいる人がやむにやまれず起こした運動だと思った。かつて空白の10年の中で起こした被爆者の運動と同じ過程ではないかと感じた。原爆が原因かどうかは別として苦しんでいる現実が出てきた。差別や偏見がある状況を聞いて、被爆者の訴えの原点に触れたような気がした。放射線と遺伝子のことを考えなければいけない、直視しなければいけないと思った。

・被爆者~陜川に行ってみたかった。大会は衝撃を受けた。戦争の被爆者、核実験のヒバクシャ、原発のヒバクシャがみな隠し続けていた。アメリカに追随し、原発を許してきた日本は、自分の姿でもあると感じた。

 

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2012年5月17日 (木)

陜川非核・平和大会で感じたこと③

 韓国の被爆二世がどのような活動をしているのか。今回はその一端を垣間見ることができました。前述しましたが大会では二世が中心の市民団体『陜川平和の家』が主催です。団体の紹介文には次のような活動内容が書かれていました。

 「韓国人原爆被害者とその子孫が数多く居住する陜川に、原爆被害者と2世、3世たちのための専門福祉センター建設と地方条例制定させる(ママ)運動を展開して来ましたし、原爆被害者2・3世の基礎実態調査および多様な福祉支援を実施しております。他方、戦争と核の被害者である被爆者とその子孫たちから証言を聞くことができる、多様な教育と交流のプログラムも年中実施しており、すでに韓国内外の報道機関と青少年・市民たちが数多く訪問してくださり、注目を集めてきました。」

 こうした活動内容を見て特に感心するのは「被爆者とその子孫たちから証言を聞くことができる多様な教育と交流のプログラムの実施」です。今大会では被爆者の家でのホームスティや被爆者の家庭訪問が行われました。家庭訪問は人数が多すぎるきらいはありましたが、実際に陜川の田舎に住む被爆者の方の家に行ってみると、初めて行く方には感じるものはたくさんあると思います。周囲を山に囲まれ、田畑の中に寄り添うように建っている住宅。決して豊かとは言い難い住居に高齢の被爆者と自活が難しい二世が住んでいる様子を、実際に話しを聞きながら体験することはまさに百聞は一見にしかずです。こうしたプログラムが組めるのは二世三世が中心の活動ならではだと感じました。

 また二・三世の実態調査も考えるところがありました。大会で上映されたドキュメンタリー映像でこの調査活動と思われる様子が撮影されていました。二世の会長たちが自ら出向き、二世たちの生活状況や悩みなどを聞いていました。同じ悩みを持つ同士だから分かること、相談できない事などを、涙を流しあいながら話し聞いている姿に調査だけにとどまらない重要性を思いました。

 私が知る二世の方々は主に女性です。こうした活動がどんなに大変なことなのか。愚作『狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から』に出演いただいた元釜山支部の支部長と副支部長も女性だったのですが、韓国原爆被害者協会発足のために奔走したお二人の姿と重なりました。さらにこの団体は被爆者と被爆二世三世、そして市民が一緒になって活動していることも特徴だと思います。三者が共にこうした活動を行うことは、幅広い方々に関心を持っていただくためにも、とても重要なことだと思います。今後、どのような広がりを見せるのか。韓国の被爆二世三世の活動に注目しています。

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2012年5月12日 (土)

陜川非核・平和大会で感じたこと②

本大会では発言者に日本からは日本人や在日朝鮮人の研究者や医師、韓国からは研究者、医師、画家、映像作家、平和活動家と様々な分野から集まったため、多方面からの内容になりました。私には見えていない部分を指摘され、とても刺激を受けました。国外からみると日本はどう見えるのか、311の大震災をどう見たのかを目の前で熱い思いと共に語っている姿に考えさせられ、そして勇気づけられました。

ある在日朝鮮人の研究者は今の日本の異様さを指摘しました。「震災後、“頑張れ日本”“日本は強い国”という言葉があふれている。この団結感を危惧する。全体主義、独裁主義の欲望が生まれてきていることを憂慮している」というのです。マジョリティーが持つ力の大きさはマイノリティーにとっては恐怖となります。マイノリティーの視点からみることが必要だといいます。マスメディアから流されるこうした言葉に敏感になることの意味を考えさせられました。

また画家で平和活動家の韓国人の方は大震災直後の福島に入り、次のような感想を持ったといいます。「フクシマは目の前の風景が現在から離れていた。黙示録の世界だった。全てが超現実だった。自分が絵の世界で非現実の世界が嫌いだったのは理解できなかったからだ。しかしフクシマに行ってからそれは現実だと気付いた。フクシマはどこに行っても沈黙だった。人が列になっていても大声を出さず静かだった。そして語り合う時も静かに語り合っていた。監視しているわけではないのに沈黙を守っていた。フクシマの住民が苦しみで泣いたりしないことに心が痛んだ。泣かなければいけない時は泣く、怒るべき時に怒らないと、命のダイナミズムを失う」といい、周囲の無関心がファシズムを作り、沈黙を栄養に国家主義になるとも訴えました。この沈黙を“核の幽霊”と比喩し、「この“幽霊”を太陽の光にあてなければいけない」という芸術家らしい表現が印象的でした。

原発事故は隣国のテレビでも毎日のように放映されていたようで、韓国の医大で教授をされている韓国人の方は「一ヶ月間、テレビばかり見て、事故を起こした原因は何か考えた。スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマの共通点は、原発保有数が多い国ということだ。原発の数が多いと事故も起きる。加えて発電所の寿命もある。原発事故の確率をゼロにするには無くすこと。再生可能な発電をしなければいけない。ヨーロッパではすでに原発を持っていない国がある。脱原発は可能なのだ」と発電所の未来についてこぶしを振り上げながら、熱く語っていました。

大震災と原発事故から1年以上が経ち、今の異常な状態がどこか日常になりつつある今、様々な角度からの視点は現状を変えていく上にとても重要です。こうした発言が日本でされたら、少し何かが変わるかもしれないと感じました。

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2012年4月25日 (水)

陜川非核・平和大会で感じたこと①

 もう一つの大きな目的は陜川で開催された「2012陜川非核・平和大会 世界のヒバクシャと共に陜川へ集まろう!」に参加するためでした。主催は陜川平和の家とウイットアジアです。前者は在韓被爆者の二世運動から始まった市民団体で、私がお会いしたことのある患友会の会長や事務局長が中心となっているようでした。陜川市内にある平和の家が活動拠点です。団体の紹介文を読むと、被爆二世、三世の人権と福祉のための活動と非核平和実現のための平和運動をしているということです。具体的な活動としては二世三世の調査や交流プログラムなどを行っているようです。以前、お伺いした際はこのような活動をまだ行っていませんでしたので、この度、このような大きな大会を主催するまでになるほど精力的に活動されていることに感嘆ました。

 今回の大会は副題にもあるように、韓国国内のみならず、日本、ビキニ、チェルノブイリ、台湾などからヒバクシャが集まりました。会場となった陜川郡文化芸術会館では平和をテーマにしたアート作品や写真の展示を行い、食事をする所なども設けられていました。プログラムは講演、映像上映、証言大会、パレード、有名人によるコンサート、パフォーマンスと、お祭りのような華やかなものでした。参加者は大人から子供まで年齢が幅広く、特に中高生は顔にペインティングしていたり、ラップを踊っていたりと楽しんでいました。参加者は食事を無料で食べることができるのですが、韓国料理やカレーのメニューがとても美味しくて、交流会では手作りと思われるマッコリまでありました。どちらかというと固いテーマと思われる大会に、このように様々な人が大勢集まることに驚きました。

 韓国のヒロシマと呼ばれる地で被爆二世が中心となって平和の大会が行われ、しかも地域市民が参加するということは意義深いことでした。

 

 

 

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