在韓被爆者・被爆者

在韓被爆者や在外被爆者、被爆者、被爆二世について

2018年5月16日 (水)

世界的な研究にー放影研が被爆者試料活用か?

 5月12日付の中国新聞によると放射線影響研究所(放影研)は今まで提供された被爆者の血液などを遺伝子レベルで研究するため活用を検討しているということです。これはどういうことなのでしょうか。

 記事によると放影研は被爆者の健康影響を調べるため約2万4000人を対象に隔年で健診を実施しており、その際に提供された血清や尿などを保管しているということです。この血液や尿などが試料です。この度、放影研で保管しているこの膨大な試料を使い、がんなどの発症や予防などについて遺伝子レベルの研究をしたいということのようです。研究の際は放影研以外の機関も加わるということですから、大規模かつ画期的な研究内容になりそうです。

 5月11日は外部諮問委員会が開かれ、活用の是非などを議論したようです。被爆者を含めた委員会は非公開で行われました。記事によると委員会では「「おおむね、貴重な試料を有効に使ってもらいたいとの意見だった」と説明。」する一方、個人情報や遺伝子レベルの研究の倫理的な課題も上がっていたようです。今後、放影研は健診時に具体的な研究内容を説明し、被爆者の同意を得ていく想定をし、本年度内に議論を詰めていくと記事には書かれていました。

 そもそも放影研のように何十年に渡って大規模に血液などを収集保管している機関は世界的にも珍しいのではないかと思います。同記事でも「世界的に類例がない貴重な試料」と書かれています。研究者にとってはこの膨大にある貴重な試料を生かして研究をしたいと思うのは当然なのかもしれません。

専門家ではないため詳しくはわかりませんが、遺伝子レベルでの研究は現在、様々な分野に広がりを見せているようです。例えばヒトゲノム解析などは病気の予防や診断、薬品の開発や治療に結びつくものとして期待されています。しかし一方で課題もあります。ヒトゲノム解析は究極の個人情報で、この情報によって社会的な影響を与える可能性がでてくるためです。遺伝子検査の結果によって保険の加入ができなかったり、就職や結婚差別、出生前診断などに影響がでることが考えられます。データの悪用や優生思想など倫理的に問題の多い状況が生まれる可能性も否定できません。今の時点ではどんな悪影響がでてくるのか未知の状況と言っても過言ではないと思います。

 被爆者の試料であろうがなかろうが、ヒトゲノム解析研究は人類にとって必要な研究なのかもしれません。提供者の同意は当然のこと、個人情報の徹底管理、社会的倫理的に正しい研究内容かどうかの検証といったことが重要かつ必然です。究極の個人情報をどう守りながら生かしていくのか、課題はまだまだ山積みだと感じました。

同記事は放影研の理事長の言葉で「「被爆者や市民の見方を踏まえて利用したい」としている。」と結ばれていました。そうであれば外部諮問委員会もせめてマスコミなどに公開し開かれた研究内容にしていくことで、一般市民の感覚として理解可能で、被爆者や人類にとって有意義な研究内容になるのではないかと思います。閉ざされた研究では試料を提供した被爆者の方たちも不安になるのではないかと感じます。

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2018年5月10日 (木)

NPT(核不拡散条約)再検討会議準備委員会関連行事に被爆二世が参加

 今年は被爆二世にとって飛躍する年となりそうです。先週5月2日、全国被爆二世団体連絡協議会は、スイスのジュネーブで行われているNPT(核不拡散条約)再検討会議準備委員会のサイドイベントに参加しました。そこで同連絡協議会の代表4人は日本政府による被爆二世の被爆者援護法の適用を求めました。新聞記事によるとサイドイベントでは二世自身の体験を証言し、核と人類は共存できないことを訴えたようです。残念ながら海外の反応は書かれていませんでしたが、被爆二世も核の被害者であることは伝わったのではないかと思います。

 実は同連絡協議会はジュネーブ行きに先駆けて、さる4月に長崎と広島で集会を開き、ジュネーブ派遣報告と裁判の現況報告などを行っていました。被爆二世の思いを世界に伝える前に、地元の皆さんに被爆二世の活動について知ってもらうためのものでした。広島では50人ほどが集まり、熱心に話を聞いていました。

被爆二世とは核の被害者であり、戦争被害者であることを意味するとどれだけの方が認識しているでしょうか。私自身、出会うまで被爆二世の存在について考えてきませんでした。同連絡協議会は何十年も前から自身の苦しみを世の中に訴えてきました。現状では被爆二世がどういう状態なのか、人数の把握さえできていません。日本政府が援護対象にしないためにその存在が見えにくくなっているとしたらおかしな話です。被爆二世は親が被爆者であるなら国籍も住んでいる場所も関係なく被爆二世なのです。雑駁な言い方をすれば被爆者健康手帳のある方を対象に調査すればいいことです。日本政府がまず実態を把握し二世がどのような状況かを確認してから、補償なり援護なりの施策を考えればいいことだと思います。このたびのNPT(核不拡散条約)再検討会議準備委員会のサイドイベントで日本からの被爆二世の訴えを初めて聞いたという方も多かったのではないかと思います。世界が被爆二世の存在を認識し、何を訴えているのかを知った時、海外の人々はどう考えるのでしょうか。被爆二世はすでに最高齢は72歳になっています。待ったなしの状況です。

 

 

 

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2018年4月10日 (火)

朝鮮半島の被爆者の数について考えるシンポジウムが開催されました

3月3日、広島市内で韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下、市民の会)主催の講演・シンポジウム「朝鮮半島出身被爆死者数は「数千人」なのかー未だ明らかでないその実態を考えるー」がありました。参加者は80人近くになり広島市民の関心の高さがうかがえました。今回はこの集会をご紹介します。

まず韓国の許光茂さんから「広島・長崎朝鮮人の原爆被害について」というタイトルで話がありました。許さんは元対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会委員でした。この機関は韓国政府の組織で、広島を始め日本に調査にきていました。今回はその調査結果から朝鮮人被爆者について話されました。

許さんは「長崎の徴用工は爆心地から離れていたので直爆ではなかったようだが、後片付けの救援に行ったという証言がある。端島、高島には大勢が連れて行かれた。8月9日は端島などでも爆風や熱い風を感じたという証言がある。長崎の方は沢山の朝鮮人が復旧に回された。一方、広島の徴用工は致命的な負傷を受けたのではないか。日本から出てくる資料の数が合わないのだ。現在、生存者は90歳を超えているので証言をとるのは難しく、自分が会った方々は皆亡くなった」と話し、時間の経過に無念さを滲ませていました。そして戦時中は日本全国どこにでも朝鮮人がいない場所はないため、資料の洗い直しの必要性を訴えていました。

パネルディスカッション「朝鮮半島出身被爆死者数は「数千人」なのか―未だ明らかでないその実態を考えるー」では、民団、総連、市民の会から各団体の見解が話されました。戦後73年目を迎え、それぞれの被爆者団体は次世代の方々が活動されており、被爆者の方々の証言を聞くことが難しい状況です。「許さんの話では陜川の話が出てこなかった。陜川は韓国のヒロシマと呼ばれているほど被爆者が多い場所なのに陜川出身者の姿がどこにもないのだ。戦争が佳境に入った時、土木工事で広島に沢山きていた。私たちのアボジ、オモニ、兄弟はどこに行ったのか」「当時の状況をさかのぼって考えると広島の朝鮮人の数は1942年以降、急激に増えている。終戦まで広島に労働力として連れて来なければいけなかったのではないか。危険なインフラ工事を担ってきた朝鮮人は、実際は公表以上の数字が出てくるのではないか」など、いずれも当時相当数の朝鮮半島の人々が広島におり、被爆を受けたのではないかと推定していました。

今回、確認されたことは日本政府がきちんと朝鮮半島の被爆者の調査をしていないことです。朝鮮半島は当時日本の植民地です。日本の責任として調査の必要性があるのではないでしょうか。時間がかかっても日本政府が調査をし公表することで、植民地にしたことで被爆した朝鮮半島の方々への償いの一つになるのではないかと思います。そしてなにより被爆の実相に一層、近づくことができるのではないかと思います。

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2018年3月12日 (月)

被爆二世は誇りを持って~ヒロシマの被爆者が伝えたいこと(下)

「8月6日はタバコ工場に動員されていた。しかし通院のため朝礼後、タバコ工場から病院に行く途中の比治山の橋付近で被爆した。太陽が目の前に落ちたのかと思った。爆風で飛ばされ気を失った。一端、タバコ工場に戻り、その後学校に行くことにした。なんとか学校に戻った。目を閉じると学校に戻って来た女学生の姿が浮かぶ。全身火傷で、顔をみたら誰が誰だかわからないほど腫れ、肌がむき出しになり、指の先から昆布のようなものを引きずっていた。髪はチリチリで服は焼けていた。今でもその姿が忘れられない。瀕死の状態で戻ってきても学校には薬もなければ医師もいない。家庭教室の古い天ぷら油を塗ってあげた。火傷のようなものなので、楽になるということだった。それしか手当ができなかった。先生が「口がきけるうちに」と言うので、名前を聞いてわら半紙に書いた。生徒たちは熱いよ、痛いよと言いながら息絶えていく。暑いので遺体は腐っていく。荼毘を手伝うよう言われ、壊れた校舎の木材を使って焼いた。泣きながら焼いた。

中島地区は賑やかな広島の文化の中心街だった。歓楽街でカフェーや映画館、旅館、病院などありとあらゆるものがあった。今の公園は残骸の上に土を盛ってできている。いくら骨を拾ったといっても全て拾いきれるものではない。白骨の上に土が盛られているのが本当だ。私は、平和公園は大きな墓場だと思っている。ごめんなさいと言いながら歩いている。

被爆者の夫とは子供を作らないことを約束して結婚した。ある時、近所の医師から「あんたら結婚して長いのに子どもを産まないのは意識的なのか」と聞かれた。障がいを持った子が産まれるのが怖くてと答えると、「あんたら何考えてるんか」と目を向いて怒られた。「あんたたちの心の中に障がい者に対する差別心がある。だから産みたくないんじゃろう」と言われた。目からウロコが落ちた。人の命の値打ちに上下はない。命あるものはすべて尊い。それを繋いでいかないでどうするのか。私たちは不遜な約束をしていたと気づいた。現在、私には2人の子供と孫が5人いる。尊い命にはどんな障がいがあろうが上下はないし、何もかも含めて繋いでいかなければいけない。そのことを皆さんにわかっていただけたらと思う。被爆二世だろうと三世だろうと自分たちで終わりにしようとお考えにならないでほしい。命の値打ちは同じ。地球のある限り命はつないでいかないといけない。

戦争は胸が痛くなるほど悲しいことだ。原爆でどこで亡くなったのか、どうなったのかわからない人がいる。行方不明家族がいる。戦争は体験したものにしか分からない。平和はむこうからやってくるものではないのだ。守らねばならないものだと分かってほしい」。

切明千枝子さんは現在の世の中の空気が怖いと言いました。戦前の空気に似ているのだそうです。「戦争をすると景気がよくなる。それは人の命と引き換えだ。だからこそ唯一の戦争被爆国である日本は、広島に住む人間として、命がけで戦争にブレーキをかけなければいけない」と力を込めました。世界的な不況そして世界大戦という非常に厳しい時代を生きた切明さんの言葉の一つひとつに経験者しか話せない説得力と強い願いがこもっていました。

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2018年3月 5日 (月)

被爆二世は誇りを持って~ヒロシマの被爆者が伝えたいこと(上)

「被爆二世、三世であることを誇りに思っていただき、親がどんな思いで産んでくれたのか思いを馳せてほしいのです。今日このことを一番に伝えておきたかったのです」

そう話したのは広島で被爆した切明千枝子さんです。2月25日、広島市内で切明さんの講演会がありました。切明さんの話を聞くといいと知人から言われていたため、この機会を逃してはいけないと思い講演会に行きました。2時間ほどの講演会だったのですが予定時間をぎりぎりまで使って話されました。89歳とは思えないほど声に張りがあり内容も明瞭で心にしみるものでした。以下は切明さんのお話です。貴重なお話なので上下2回にわたってお伝えします。

 

「昭和4年に大恐慌が始まり、その年に私は生まれた。大恐慌の空気を吸って生きてきた。男女差別が激しかった時代に母は高等教育を受け、郵便局で経理の仕事をしていた。当時の女性は学校に進学することも、卒業後に働くこともなく、母のような女性は少なかった。父の家は陸軍被服支廠の正門の近くで、嫁いだ後母はそこに住んだ。被服支廠長の家族と親しくなり、母は経理の経験を買われ被服支廠で働くことになった。その頃、満州事変、上海事変が起き、日本軍の力が強くなった。特に陸軍が強くなり国家予算がつぎ込まれ、被服支廠の建物が大きくなっていった。被服支廠の中には病院や食堂、散髪屋、保育園まであった。私や妹たちは支廠の中の託児所に預けられた。私が幼稚園に通っている時、今上天皇生誕の知らせがあった。幼稚園で皇太子を称える唄と踊りを教えられた。国をあげて大喜びしたのだ。この時の唄は今も歌える。妹が生まれると私は夕方になると被服支廠に妹を迎えに行った。被服支廠に入るには厳しいチェックがあったが私は顔パスだった。被服支廠の医務室は歯科や耳鼻科など全ての医師がいて、具合が悪くなると私もそこで診てもらっていた。私は被服支廠で育ったという感じだ。小2の時、日中戦争があった。その時、先生は「葉隠れ」を私たちに教えた。皇国の臣民は天皇陛下のために死ぬことと教えられたのだ。天皇陛下のために死ぬことは立派なのだと思いこまされた。信じていた。宇品港は大陸へ軍を送る港だった。日中戦争が始まると毎日のように兵隊を宇品から見送った。

県立広島第二高等女学校に進んだが、学徒動員となった。タバコ工場に動員された。ある女学生が先生にどうしてタバコ工場なんですか。兵器や飛行機や軍艦のところじゃなんですかと尋ねていた。タバコ工場で働くことが不満だったのだ。あとから聞くところによると、学校の先生同士が集まり働く場所を決めていたようだ。私たちの先生は学校から近い宇品で、タバコ工場なら敵の飛行機にも狙われにくいと思い選んだようだ。親心だった。たまに学校に行くと授業として竹やりで人形を突いたり、手旗信号、モールス信号などをやらされた。通信兵の代わりができるようにという戦争の訓練だった。手旗信号や手榴弾投げで点数がついた。木製手榴弾の訓練は目標に向かって投げつけるものだった。私は左利きだったので手榴弾を上手く投げられず悲しかった。家に帰って下駄で投げる練習をした。軍国主義を教え込まされた。当然のことだと思っていた。」(下に続く)

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2018年2月22日 (木)

被爆二世問題を世界に発信。二世運動のこれから

 去る211日と12日の両日、広島市内で全国被爆二世団体連絡協議会(以下、全国被爆二世協)の総会が行われました。当日は広島や長崎はもとより山口や大阪、福岡、鹿児島など全国から被爆二世や支援者約70人が集まり、これまでの活動報告と今後の方針を決めました。この度の総会では昨年から始められている被爆二世集団訴訟が話し合いの中心となりました。また今後は裁判と並行して国際社会の場に被爆二世問題を訴えることなどの運動方針が決められました。

 まず被爆二世集団訴訟に関しては裁判の争点とこれまでの進行状況が弁護団長から伝えられました。裁判は「放射線被害の遺伝的影響」と「国の被爆者援護法の適用」が大きな争点となっており、現在まで原告の二世側は国に対し遺伝的影響に関する準備書面を出している状況です。長崎と広島の二か所で裁判が行われていますが、長崎の方が若干進んでいるということでした。放射線の二世への遺伝的影響を認めていない国に対し弁護団長は「国に対して反論していく」と闘いの決意を述べました。その後「裁判の論点における放射線の遺伝的影響について」の話がありました。ショウジョウバエやマウスで放射線の遺伝的影響が出ていることは研究論文で明らかになっており、ヒトへの影響はゼロではないということの証拠だとの説明がありました。

特別報告では「国連人権理事会に対する取り組み」が紹介されました。全国被爆二世協は2015年と2017年にジュネーブの国連欧州本部へ出向き、被爆二世に対して日本政府が人権保障をするよう国際社会に働きかけました。さらに各国政府代表部やNGOを訪問しロビー活動や意見交換などを積極的に行いました。その結果、国連人権理事会の日本政府の審査においてコスタリカとメキシコが被爆二世問題について言及し、報告書に盛りこまれるという成果につながりました。訪問団は被爆二世が国際社会で人権保障と核廃絶を訴えていく必要があると感じたと話していました。

2日間の総会では全国被爆二世協の活動方針として被爆二世集団訴訟への取り組みや福島のヒバクシャとの連携、核拡散防止条約(NPT)への代表団派遣などが決議されました。国内のみならず海外にも核廃絶と世界平和を訴えることが議論され、今総会が国際社会の場へ活動を広げる出発点となりました

今回はテレビや新聞などのマスコミが大勢来ていました。被爆二世集団訴訟が行われているためなのかもしれませんが、日本社会の被爆二世への関心が高まっていることを感じさせるものでした。また二世運動が国際社会とつながることで核兵器の非人道性を世界の人が知るきっかけになるのではないかと期待が膨らみました。影ながら二世運動を応援していきたいと思っています。

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2017年11月22日 (水)

被爆二世裁判が行われています

先月26日に広島地裁で被爆二世裁判がありました。今回は3回目で、国からの準備書面が出されました。国は今回の準備書面が全てということのようです。つまり国側としてはもう述べるべき事はないということです。被爆二世の裁判の論点は「二世への遺伝的影響」と「国の立法不作為の責任」の2つです。簡単に国の準備書面の内容について、ご紹介したいと思います。

まず「二世への遺伝的影響」についてですが、被爆二世が発ガンリスクの増加など遺伝的影響を受けることは、昭和32年の日本遺伝学会及び日本人類遺伝学会の見解や、昭和50年の衆議院社会労働委員会における厚生省公衆衛生局長の答弁では調査結果や知見が明らかでなく科学的に認められるものではないというのが国の反論でした。加えて放影研の遺伝的影響調査から科学的に証明がなされておらず、被爆二世が遺伝的影響を受けるとする前提がおかしい。ということのようです。

「国の立法不作為の責任」は、この立法不作為の責任を負うケースが極めて特殊な場合であるというのが国の主張です。国民に対して法的な義務違反を行い損害を加えた時に賠償責任を行う。例外的に法律の規定が憲法の規定に違反することが明白なのにも関わらず正当な理由なく立法措置を怠った場合などにおいては国会議員の行動が法的義務違反として違法の評価を受ける。被爆二世の被爆者援護法の適用対象に関しては憲法の予測しないところであり、国会議員の立法不作為が例外的な場合には当たらない。ということのようです。

一見、国側の意見は正当なもののように感じます。しかし被爆二世への遺伝的影響は分かっていないという言い方が正しい表現だと思います。社会保障の対象になる可能性がある国民に対し、国が調査もせずに「遺伝的影響があるというのはおかしい」と言い切ってしまっていいものなのかと思います。「国の立法不作為の責任」に関しては法的なことなのでかなり難しいのですが、こちらも遺伝的影響がある可能性があると予測し、調査してから検討してもいいのではないでしょうか。被爆二世は何十年も前から自らのことを知りたいと国に訴え、国の調査も求めてきました。放影研の調査は日本政府とは別のものです。被爆二世が直接、国に訴えてきたことを無視するかのように調査をしないというのも、おかしなことなのではないかなと感じます。原告と被告の主張によって、被爆二世の実情や国の対応が表面化するのだと思います。裁判はこれからも続きます。

 

 

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2017年9月 8日 (金)

9月8日

「そして例外もあるが一般に爆心の近くで被爆した者は重症で、爆心から遠く離れたところで被爆した者は軽症で、前者は後者より白血球の減少が甚だしい。例外的に比較的爆心の近くで被爆しながら白血球の減少が少ないのもあった。それをさらに追及するとそれらの者は屋内殊に鉄筋コンクリートの建築物の中にいた者や大きな樹木が陰になって原爆の光線の直射を受けなかった者ばかりであった。(※194598日)」

 これは蜂谷道彦著『ヒロシマ日記』の一文です。蜂谷道彦氏は広島逓信病院の医師でした。被爆時、蜂谷先生は自宅におり大怪我にも関わらず、職場の逓信病院にかけつけました。そして以後、蜂谷先生は原爆被害の症状を記録しなければいけないという使命感からメモを取り始めました。ご本人も外傷がひどい状態の中、筆記用具も紙もない状況でひたすら見て聞いたものを書き記しました。その記録が『ヒロシマ日記』です。

この日記は1955年に出版されて以来、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、イタリア、チェコ、ドイツ、スウェーデン、ラトビア、スロバキア、スペイン、ポルトガルに翻訳されました。進駐軍が広島に入ったのが9月末ころですから、原爆投下から1カ月ほどの間は進駐軍も状況が分かりませんでした。蜂谷先生は医師として患者をみただけではなく、調査も行い、原爆が人体に与える影響を詳細に書き残しました。被爆した人々が当時どのような状況だったのかを知る手がかりとして、本書はとても貴重な資料だったのです。

『ヒロシマ日記』には放射線の被ばく症状が書かれています。蜂谷先生は嘔吐、頭痛、脱力感、下痢など重症の人々をみて、当初は赤痢などの伝染病を疑いますが、すぐに違うと分かります。そして様々な症状がでている患者に今まで医師として経験していない状況にあると理解していきます。見た目は怪我や火傷などしていない人が死んでいく状況や脱毛、出血斑など次々に現れる症状に混乱しつつ、記録を続けます。

今年、広島の放射線影響研究所のオープンハウスで配布された資料には海外の反応が記されていました。

「原子武器がどんな結果をもたらしたか、また今後もたらすだろうか、を知るためにも万人必読の書である。」(パールバック/小説家)、「偉大なる勇気による簡潔な慎み深い報告・・・本書の刊行を心から感謝したい」(ロバート・オッペンハイマー/マンハッタン計画の中心的人物)

そして原爆投下から6年後の195198日、サンフランシスコ平和条約が日本政府と連合国の間で結ばれ、敗戦国である日本は主権を取り戻しました。終戦から現在に至るまでに、日本は欧州と肩を並べる国になりました。しかし原爆は今も人々に苦痛をもたらし続けています。

 

 

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2017年6月27日 (火)

被爆72年、在韓被爆者の手帳申請支援のこと

 私が在韓被爆者支援のお手伝いを始めて15年近くになります。気が付いたら長くなったという単純な話です。しかしそれは長年お手伝いが必要だったということを意味しており、決して単純な話ではありません。

私が参加させて頂いている韓国の原爆被害者を救援する市民の会における支援活動の一つに被爆者健康手帳(以下、手帳)の申請があります。被爆後72年たった現在も手帳を持っていない被爆者がいるのです。殆どが幼少期に被爆された方です。その方たちがどのような状況に置かれているかご紹介したいと思います。

 今、手帳を持っていない韓国の被爆者は証拠がありません。具体的には8月6日、9日に被爆地にいたという事実を、紙の書類として出さなければいけないのですが、それがないのです。それは戸籍謄本であったり在学証明であったりと、まず日本に住み、広島や長崎市内にいる状況にあったことを示す内容の書類、そして被爆時にいたことを証明する方の書類です。広島や長崎市内に住んでいなくても、「罹災証明書」があればすぐ出ますが、韓国に帰国された方々がお持ちでないことは火を見るより明らかです。韓国国内で「罹災証明書」は必要ないからです。その次は戸籍謄本など広島・長崎で生まれたという書類があればかなり有効なのですが、他の地域から引越してきた、遊びにきていた、といった状況では公文書はありません。たとえ広島・長崎市内で生まれ住んでいたとしても、当時、幼ければ幼いほど日本で出生届けを出さず、韓国で生まれたという申請をしているケースが多くあります。なぜかというと、日本生まれにしたくなかった親が韓国生まれとして届けているためです。これは恐らく親日家という目で見られたくなかったためだと思います。学校に行く前の幼い子供は日本で生まれて育っていても、日本にいなかったことになるのです。被爆を証明する証人がいればいいのですが、被爆当時0歳だった方でも今年で72歳になりますから、証人探しはほぼ無理に近いと言って過言ではありません。

 今年3月に救護被爆をされた在韓被爆者の方が来広されました。証人を探し、ご自身の記憶をよみがえらせるために住んでいた場所を訪れました。そこには同級生の方やご近所の方がおられました。ご本人や同級生の方々の証言から、そこに住んでいたということは確実だと思うと同行した方が話しておられました。しかし共に救護したという第三者の証言がなければ、手帳取得は難しいのです。

在韓被爆者の方たちはなんとか手帳を取得できないかと手を尽くしています。私たち支援者も考えられる限りの手段で証人を探しています。しかしその手段も歳月の壁が立ちはだかり、すぐ行き詰まってしまいます。それは被爆者自身の痛みに近づく時です。痛みを分かち合うことしかできず、悲観しそうになる時もありますが、それでも何かないか、どこかに証人がいないか、探し続けているのです。被爆者は手帳を持っている人だけではないことを、受けられるべき支援が受けられていない被爆者がいることを、一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。

 

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2017年5月16日 (火)

広島・被爆二世裁判の意見陳述

広島と長崎で被爆した親を持つ子ども、被爆二世が起こした被爆二世裁判において今月9日、広島地方裁判所で意見陳述が行われました。マスコミの関心が高く裁判所の前はテレビカメラや報道カメラマンが大勢待ち構えていました。裁判所としても社会的な関心が高いという認識なのか、当日は裁判所内でも大きな部屋にも関わらず傍聴券が配布されるほどでした。実際、広報があまりできていない状況でしたが傍聴席はほとんど埋まっていました。裁判の様子をお伝えします。

裁判は原告による意見陳述で終始しました。広島で被爆した親を持つ、Hさん、Uさんがそれぞれご自身の体験を裁判長と被告の前で朗々と話され、なぜ裁判に至ったのか理由を説明しました。

まずHさんが「私はもともと4人兄弟であったようですが、この世に生を受けたのは私と姉の二人だけです。もしかしたら放射線の影響かもしれない。そんな不安がつきまといます。全国には30万人とも50万人とも言われる被爆二世が存在します。その多くが私と同じような思いを持って生きているのではないかと思います」と被爆二世が抱える不安を語りました。そして二世に対する国からの援護を求め行ってきた活動について述べました。

Uさんは被爆者であるお父様の生前の心身の状況について語り、ご自身の体調について「この3年間で、人間ドック以外で5回の癌検査をしています。父親が肝臓癌で亡くなりました。父と同じように癌にならないか心配です」と話しました。さらに高校生の時に知った被爆二世への結婚差別についての無念さも伝えました。

今後、裁判は原告や被告からぞれぞれ書面が出され進められていきます。裁判終了後の報告集会では親の被爆と二世へのリスクの関係、福島の原発事故被害者との関わりなどマスコミから質問が多く出されました。私は裁判の傍聴は何度か経験があるのですが、最初から傍聴するのは初めてのことです。長崎でも同様の裁判が起こされています。今後どのような意見や事実が出されていくのか注視していきたいと思います。次回裁判は822日です。

 

 

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