在韓被爆者・被爆者

在韓被爆者や在外被爆者、被爆者、被爆二世について

2017年11月22日 (水)

被爆二世裁判が行われています

先月26日に広島地裁で被爆二世裁判がありました。今回は3回目で、国からの準備書面が出されました。国は今回の準備書面が全てということのようです。つまり国側としてはもう述べるべき事はないということです。被爆二世の裁判の論点は「二世への遺伝的影響」と「国の立法不作為の責任」の2つです。簡単に国の準備書面の内容について、ご紹介したいと思います。

まず「二世への遺伝的影響」についてですが、被爆二世が発ガンリスクの増加など遺伝的影響を受けることは、昭和32年の日本遺伝学会及び日本人類遺伝学会の見解や、昭和50年の衆議院社会労働委員会における厚生省公衆衛生局長の答弁では調査結果や知見が明らかでなく科学的に認められるものではないというのが国の反論でした。加えて放影研の遺伝的影響調査から科学的に証明がなされておらず、被爆二世が遺伝的影響を受けるとする前提がおかしい。ということのようです。

「国の立法不作為の責任」は、この立法不作為の責任を負うケースが極めて特殊な場合であるというのが国の主張です。国民に対して法的な義務違反を行い損害を加えた時に賠償責任を行う。例外的に法律の規定が憲法の規定に違反することが明白なのにも関わらず正当な理由なく立法措置を怠った場合などにおいては国会議員の行動が法的義務違反として違法の評価を受ける。被爆二世の被爆者援護法の適用対象に関しては憲法の予測しないところであり、国会議員の立法不作為が例外的な場合には当たらない。ということのようです。

一見、国側の意見は正当なもののように感じます。しかし被爆二世への遺伝的影響は分かっていないという言い方が正しい表現だと思います。社会保障の対象になる可能性がある国民に対し、国が調査もせずに「遺伝的影響があるというのはおかしい」と言い切ってしまっていいものなのかと思います。「国の立法不作為の責任」に関しては法的なことなのでかなり難しいのですが、こちらも遺伝的影響がある可能性があると予測し、調査してから検討してもいいのではないでしょうか。被爆二世は何十年も前から自らのことを知りたいと国に訴え、国の調査も求めてきました。放影研の調査は日本政府とは別のものです。被爆二世が直接、国に訴えてきたことを無視するかのように調査をしないというのも、おかしなことなのではないかなと感じます。原告と被告の主張によって、被爆二世の実情や国の対応が表面化するのだと思います。裁判はこれからも続きます。

 

 

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2017年9月 8日 (金)

9月8日

「そして例外もあるが一般に爆心の近くで被爆した者は重症で、爆心から遠く離れたところで被爆した者は軽症で、前者は後者より白血球の減少が甚だしい。例外的に比較的爆心の近くで被爆しながら白血球の減少が少ないのもあった。それをさらに追及するとそれらの者は屋内殊に鉄筋コンクリートの建築物の中にいた者や大きな樹木が陰になって原爆の光線の直射を受けなかった者ばかりであった。(※194598日)」

 これは蜂谷道彦著『ヒロシマ日記』の一文です。蜂谷道彦氏は広島逓信病院の医師でした。被爆時、蜂谷先生は自宅におり大怪我にも関わらず、職場の逓信病院にかけつけました。そして以後、蜂谷先生は原爆被害の症状を記録しなければいけないという使命感からメモを取り始めました。ご本人も外傷がひどい状態の中、筆記用具も紙もない状況でひたすら見て聞いたものを書き記しました。その記録が『ヒロシマ日記』です。

この日記は1955年に出版されて以来、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、イタリア、チェコ、ドイツ、スウェーデン、ラトビア、スロバキア、スペイン、ポルトガルに翻訳されました。進駐軍が広島に入ったのが9月末ころですから、原爆投下から1カ月ほどの間は進駐軍も状況が分かりませんでした。蜂谷先生は医師として患者をみただけではなく、調査も行い、原爆が人体に与える影響を詳細に書き残しました。被爆した人々が当時どのような状況だったのかを知る手がかりとして、本書はとても貴重な資料だったのです。

『ヒロシマ日記』には放射線の被ばく症状が書かれています。蜂谷先生は嘔吐、頭痛、脱力感、下痢など重症の人々をみて、当初は赤痢などの伝染病を疑いますが、すぐに違うと分かります。そして様々な症状がでている患者に今まで医師として経験していない状況にあると理解していきます。見た目は怪我や火傷などしていない人が死んでいく状況や脱毛、出血斑など次々に現れる症状に混乱しつつ、記録を続けます。

今年、広島の放射線影響研究所のオープンハウスで配布された資料には海外の反応が記されていました。

「原子武器がどんな結果をもたらしたか、また今後もたらすだろうか、を知るためにも万人必読の書である。」(パールバック/小説家)、「偉大なる勇気による簡潔な慎み深い報告・・・本書の刊行を心から感謝したい」(ロバート・オッペンハイマー/マンハッタン計画の中心的人物)

そして原爆投下から6年後の195198日、サンフランシスコ平和条約が日本政府と連合国の間で結ばれ、敗戦国である日本は主権を取り戻しました。終戦から現在に至るまでに、日本は欧州と肩を並べる国になりました。しかし原爆は今も人々に苦痛をもたらし続けています。

 

 

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2017年6月27日 (火)

被爆72年、在韓被爆者の手帳申請支援のこと

 私が在韓被爆者支援のお手伝いを始めて15年近くになります。気が付いたら長くなったという単純な話です。しかしそれは長年お手伝いが必要だったということを意味しており、決して単純な話ではありません。

私が参加させて頂いている韓国の原爆被害者を救援する市民の会における支援活動の一つに被爆者健康手帳(以下、手帳)の申請があります。被爆後72年たった現在も手帳を持っていない被爆者がいるのです。殆どが幼少期に被爆された方です。その方たちがどのような状況に置かれているかご紹介したいと思います。

 今、手帳を持っていない韓国の被爆者は証拠がありません。具体的には8月6日、9日に被爆地にいたという事実を、紙の書類として出さなければいけないのですが、それがないのです。それは戸籍謄本であったり在学証明であったりと、まず日本に住み、広島や長崎市内にいる状況にあったことを示す内容の書類、そして被爆時にいたことを証明する方の書類です。広島や長崎市内に住んでいなくても、「罹災証明書」があればすぐ出ますが、韓国に帰国された方々がお持ちでないことは火を見るより明らかです。韓国国内で「罹災証明書」は必要ないからです。その次は戸籍謄本など広島・長崎で生まれたという書類があればかなり有効なのですが、他の地域から引越してきた、遊びにきていた、といった状況では公文書はありません。たとえ広島・長崎市内で生まれ住んでいたとしても、当時、幼ければ幼いほど日本で出生届けを出さず、韓国で生まれたという申請をしているケースが多くあります。なぜかというと、日本生まれにしたくなかった親が韓国生まれとして届けているためです。これは恐らく親日家という目で見られたくなかったためだと思います。学校に行く前の幼い子供は日本で生まれて育っていても、日本にいなかったことになるのです。被爆を証明する証人がいればいいのですが、被爆当時0歳だった方でも今年で72歳になりますから、証人探しはほぼ無理に近いと言って過言ではありません。

 今年3月に救護被爆をされた在韓被爆者の方が来広されました。証人を探し、ご自身の記憶をよみがえらせるために住んでいた場所を訪れました。そこには同級生の方やご近所の方がおられました。ご本人や同級生の方々の証言から、そこに住んでいたということは確実だと思うと同行した方が話しておられました。しかし共に救護したという第三者の証言がなければ、手帳取得は難しいのです。

在韓被爆者の方たちはなんとか手帳を取得できないかと手を尽くしています。私たち支援者も考えられる限りの手段で証人を探しています。しかしその手段も歳月の壁が立ちはだかり、すぐ行き詰まってしまいます。それは被爆者自身の痛みに近づく時です。痛みを分かち合うことしかできず、悲観しそうになる時もありますが、それでも何かないか、どこかに証人がいないか、探し続けているのです。被爆者は手帳を持っている人だけではないことを、受けられるべき支援が受けられていない被爆者がいることを、一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。

 

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2017年5月16日 (火)

広島・被爆二世裁判の意見陳述

広島と長崎で被爆した親を持つ子ども、被爆二世が起こした被爆二世裁判において今月9日、広島地方裁判所で意見陳述が行われました。マスコミの関心が高く裁判所の前はテレビカメラや報道カメラマンが大勢待ち構えていました。裁判所としても社会的な関心が高いという認識なのか、当日は裁判所内でも大きな部屋にも関わらず傍聴券が配布されるほどでした。実際、広報があまりできていない状況でしたが傍聴席はほとんど埋まっていました。裁判の様子をお伝えします。

裁判は原告による意見陳述で終始しました。広島で被爆した親を持つ、Hさん、Uさんがそれぞれご自身の体験を裁判長と被告の前で朗々と話され、なぜ裁判に至ったのか理由を説明しました。

まずHさんが「私はもともと4人兄弟であったようですが、この世に生を受けたのは私と姉の二人だけです。もしかしたら放射線の影響かもしれない。そんな不安がつきまといます。全国には30万人とも50万人とも言われる被爆二世が存在します。その多くが私と同じような思いを持って生きているのではないかと思います」と被爆二世が抱える不安を語りました。そして二世に対する国からの援護を求め行ってきた活動について述べました。

Uさんは被爆者であるお父様の生前の心身の状況について語り、ご自身の体調について「この3年間で、人間ドック以外で5回の癌検査をしています。父親が肝臓癌で亡くなりました。父と同じように癌にならないか心配です」と話しました。さらに高校生の時に知った被爆二世への結婚差別についての無念さも伝えました。

今後、裁判は原告や被告からぞれぞれ書面が出され進められていきます。裁判終了後の報告集会では親の被爆と二世へのリスクの関係、福島の原発事故被害者との関わりなどマスコミから質問が多く出されました。私は裁判の傍聴は何度か経験があるのですが、最初から傍聴するのは初めてのことです。長崎でも同様の裁判が起こされています。今後どのような意見や事実が出されていくのか注視していきたいと思います。次回裁判は822日です。

 

 

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2017年4月19日 (水)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館をご存知ですか。

  今、広島平和記念資料館が改装中で、東館はもうすぐリニューアルオープンします。どのような展示内容になるのか楽しみです。同じ平和記念公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館をご覧になったことはおありでしょうか。ここは原爆の被害や実相を伝える資料館とは異なった内容です。そもそもなぜ資料館があるのに、なぜさらに祈念館があるのか。今回は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館をご紹介します。

 

 祈念館が建設された趣旨は資料館とは全く違います。資料館が被爆資料によって原爆の被害を伝えるという目的に対し、記念館は原爆で死亡した被害者の追悼のためのものです。「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律に基づき、国が原爆死没者の尊い犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するため、原子爆弾の惨禍に関する国民の理解を深め、その体験の後代の国民への継承を図り、及び原子爆弾による死没者に対する追悼の意を表す施設として、広島市及び長崎市に設置するものである。(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館HPより)」とあり、被爆者援護法の一環として国が建設したものなのです。

 

祈念館は入り口に水、瓦礫と「あの日」をイメージさせるオブジェがあり、見る者を出迎えます。そして眠る被爆者に会いに行くかのように地下へ続く階段を降りていき、館内に入ります。館内はカタツムリの殻のようなスロープがあり、そこを進んでいきます。設計意図としては「時計の針と逆回りに下っていくことで、あの時へと時間がさかのぼっていく」ということのようです。時間をさかのぼるように、ほの暗い坂道を下るようなスロープの壁にはパネルが展示され、日本が戦争に進んだ歩みなどが書かれています。文章は日本語、英語、中国語、韓国語で記入されています。パネルには朝鮮半島出身者や中国人、東南アジアの留学生、アメリカ軍捕虜が被爆したことが書かれ、被害が日本人だけではなかったことが記されています。さらに最後のパネルには「誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致しながら、その惨禍を二度と繰り返すことがないよう、後代に語り継ぎ、広く内外へ伝え」とあり、日本が行った戦争に対し「誤った国策」だったとはっきりと書かれています。国が建設した施設でこの文言が書かれていることを考えると、原爆被害者への深い追悼の意味が込められていることが伝わります。そして水の音が聞こえたとたん急に視界が広くなり、あの日が目の前に出現するのです。

 

そこは「平和祈念・死没者追悼空間」です。815分の時計をイメージした水盤以外なにもありません。その壁には爆心地である島病院の付近から見た被爆後の街並みが360度のパノラマで再現され、私たちはあの日に立つことになるのです。ここでは死没者数と同じ枚数のタイルが使われています。タイル一枚一枚が犠牲者だと思うと、その数の多さに改めて圧倒されてしまいます。タイルから人の声が聞こえるようです。しかしここでは生きている人の話し声が聞こえることはほとんどありません。皆さん、じっと壁を見つめているだけです。死者に思いを馳せているのです。

 

この後、「遺影コーナー」「情報展示コーナー」「体験記閲覧室」などがあり、被爆で亡くなった方々の顔や体験を具体的に知ることができます。私としては順番として資料館の後より、前に来られる方がいいと思います。なぜなら資料館は見るものや情報量が多く、祈念館までたどり着けなくなるからです。まず祈念館で一人一人の死者を思い、そして資料館で被爆の実情を知ることで、原爆の惨禍がより強く胸に迫ってくるのではないかと思います。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のメインコーナーには何もありません。静寂な空間が広がっているだけです。しかしここには確かにあの日起こった出来事が再現されているのです。

 

 

 

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2017年3月17日 (金)

『長崎の被爆二世―援護と核廃絶をめざして―』(長崎県被爆二世の会著)を読んで

本書は長崎の被爆二世の証言と長崎県被爆二世の会の活動、2015年の被爆70年に開催されたシンポジウムの講演内容が中心となっています。二世の証言では親御さんの被爆体験や大人になるまで見たり聞いたりしてきたことが平易な文章で書かれています。ご自身の病気のことや友人の死、二世としての活動のことなどが語られ、二世を意識せず生きてきた方々も周囲の状況から意識せざるを得なくなっていく様子が伝わってきます。一人一人の体験を読み、子どもの病気や差別を自分の被爆のせいだと悩む親に対し二世たちは複雑な思いで生きてきたのだと感じました。

シンポジウムでは放射線の遺伝的影響に詳しい野村大成先生のマウス実験での話が詳細に記載されています。野村先生が50年近く放射線の遺伝的影響を研究されてこられた中で、「放射線は調べられた限り、ヒト以外の全ての動植物に遺伝的影響を及ぼすことが証明されている。」「ヒトでは影響が証明できないから「影響は起こらない」「放射線は安全だ」ではない」としています。現在、放影研(前ABCC)では「明らかな遺伝的影響は証明されていない」という姿勢です。しかし野村先生は「「被爆によって白血病が出る」とはABCCは認めていなかったのです。それを「おかしい」と指摘したのは広島の開業医です。それで、日本政府ではなく、広島県の医師会の人たちが立ち上がって調査をし、放射線で白血病が発生する事が分かってきたのです。ですから現場の声が大事なのです。一世被爆者についても、病気が出てきてしまってから認められてきました。」と、ABCC(現在は放影研)の発表が全てではないということを話されていました。

今後、国連人権理事会に人権侵害として国際社会に訴えていく取り組みも書かれており、被爆二世運動の展開も知ることができます。二世の体験を含めた活動内容が書かれた本はあまりないため貴重な内容となっています。被爆二世に関心がおありの方はお勧めの1冊です。

 

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2017年3月 8日 (水)

日本の被爆二世の活動について

私が被爆二世という言葉を聞いたのは広島に来てからでした。被爆者がいるのですから、その子どもたちは被爆二世になるのは当然ですが、普段あまり耳にしない言葉のように思います。

 

被爆後、大変な思いをしながら生き残った被爆者たちは原爆の被害が自分の子どもに遺伝するのではないかと危惧していました。被爆者の中には子どもの結婚差別を懸念し、被爆者健康手帳を受け取ることなく生活してきた方も少なくない数でいたようです。そして子どもが結婚してからようやく被爆者健康手帳を受け取る、といったこともあったようです。広島や長崎で生まれ育つと自分の身の回りに被爆者がいるのは当たり前で、被爆者に対する差別や偏見はあまりなかったようですが、被爆地から離れれば離れるほど被爆者に対する偏見があったといいます。こうの史代作夕凪の街 桜の国』に描かれていた被爆二世との結婚反対はフィクションではないのです。全国各地にいる被爆二世は被爆者への偏見の中で様々な不安を抱え、国から支援を求めるために運動してきました。その活動は長きにわたってきました。

 

被爆二世の会は1973年に広島で「全電通広島被爆二世協」が発足したのが始まりのようです。会社内で二世の会が作られたのです。以後、広島、大阪、長崎など各地の職域で二世の会が次々に発足されました。77年に全国被爆二世懇談会が開かれ全国の二世の統一要望書作りを決めると、翌78年から被爆二世の援護策を求めて厚生省と交渉を始めました。各地の被爆二世の組織がひとつにまとまったのは88年で、「全国被爆二世団体連絡協議会(以下、二世の会)」を発足させました。以降は全国組織で被爆二世三世の問題解決に向けて取り組むようになりました。

 

被爆二世たちの地道な活動の成果として被爆二世の健康診断が行われるようになりました。しかし健康診断にガン検診などは含まれていません。健康診断は被爆者もできガン検診は含まれています。被爆者と二世では検診内容に差があるのです。日本国内の自治体によっては被爆二世への援護を実施しています。しかしまだまだごく一部の地域であり支援内容も異なります。どこにいても確実に支援を受けるにはやはり被爆者援護法の適用が必要です。2月に被爆二世が集団訴訟を起こしたのも40年近く国に支援を要望してきたにも関わらず、動かない国の姿勢に待ちきれなくなったのです。

 

この要望には在外被爆者の二世、三世への支援も含まれています。日本国内つまり自分たちだけの支援を考えているわけではないのです。被爆二世たちが、どのような思いを抱えて生きてきたのか。私たちは知る必要があります。

 

 

 

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2017年3月 6日 (月)

被爆二世が裁判を起こしました

 広島と長崎の被爆者の子どもたちが2月に国を相手に裁判を起こしました。広島地裁には217日、長崎地裁には220日にそれぞれ提訴しました。今回の提訴の意味と意義はどういうものなのでしょうか。訴状をもとに考えていきます。

 まず請求の趣旨は被爆者援護法の制定にあたり被爆二世を援護対象とせず、被爆者援護法制定後も援護対象とするよう改正しなかったことは、被告(国会)の立法不作為である。そこで原告は精神的損害の賠償として一人につき10万円を国に求めるというものです。なぜ提訴するのか。訴状には最初に提訴の背景として親の広島・長崎での被爆から生じた被爆二世の実情が書かれています。

 

「放射線による被害・影響」という側面において、過去人類が経験した戦争におけるいかなる被害とも異なるものであった。こうした極めて特殊な戦争被害を親に持つ被爆二世は、親の被爆による影響と考えられる疾病に罹患した者が現実に存在してきた。また親から引き継いだ放射線の影響により被爆二世は高い発ガンリスク等を負っている、という指摘もなされてきた。少なくとも、ほとんどの二世は、親の受けた放射線被害による何らかの影響が自らに及んでいるのではないか、という不安に苛まれ日々の生活を送ってきた。このような状況におかれた被爆二世に対しては、被告による対応はほとんどと言って良いほどなされてこなかった。(訴状から抜粋)

 

原子爆弾の被爆による放射線の影響が指摘されているにも関わらず、国は本来援護しなければいけない被爆二世に対して何もしてこなかったというのが提訴理由です。被爆二世への放射線の影響に対しては、1957年に日本遺伝学会と日本人類遺伝学会が連名で出した「人類に及ぼす放射線の遺伝的影響についての見解」を用いています。加えてその後の動物実験などでの研究でも遺伝的影響が証明されていることが書かれています。

 

「子孫におよぼす遺伝的な影響を考えれば、どの程度以下の照射量ならば遺伝的障害はおこらないというような限界があるとは、理論的にはいえない。」という見解は、現在でも妥当するものである。(訴状から抜粋)

 

提訴後の記者会見で、なぜ今になっての提訴なのかという質問がでました。原告の代表は「これまで長年にわたって行政や国会議員に要請してきたが、二世の施策は実現しなかった。裁判を通じて援護法に二世の支援を含むよう取り組んでいきたい」と答え、国の二世援護への無策にやむにやまれず提訴したことを話していました。裁判自体は国への慰謝料10万円の請求ですが、本来の目的は被爆二世への援護施策です。裁判は放射線の遺伝的影響について問われることになるのは必須です。核兵器のみならず放射線の被害にあったフクシマの原発事故の被害者補償にもつながる可能性があります。原告代表は提訴を「歴史的な一歩」と表現しました。今後どのような展開になっていくのか是非、多くの方に関心を持って頂きたいと思います。

 

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2017年2月20日 (月)

久しぶりの韓国訪問でした。その③

被爆二世のための「平和の家」というものが陜川市内にあったのですが、この「平和の家」が昨年、郊外に移っていました。以前よりは少し広くなっていて、数多くの方を迎えることができるようになったようです。事務室の他に宿泊できる部屋もあり、自炊もできます。ここでも被爆二世が事務作業などを行い、被爆二世の支援プログラムなども行っていました。まだ移ってきたばかりで、本格的な活動はこれからのようですが、今後の被爆二世の活躍に期待します。

今回は被爆者健康手帳を持っていない方にもお会いすることになりました。娘さん、つまり被爆二世の方は「父親が手帳を持っていないため、被爆二世の会に参加できない」と困っておられたので、手帳の有無に関係なく、韓国の被爆二世の方に連絡をつけてみてはどうかと話しました。すると理解してくれたようでした。

昨年できた韓国の被爆者の特別法に被爆二世三世が入っていないことに、二世の方たちは相当、落胆されていたようです。しかし、この特別法に二世三世の支援策を加えることが、これからの二世の活動の中心となってきます。二世自身が声をあげていかなければと話していました。韓国国内の被爆二世の活動は始まったばかりです。

 

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2017年2月18日 (土)

久しぶりの韓国訪問でした。その②

陜川の変化はまだあって、昨年、韓国原爆被害者協会の本部がソウル市から陜川に移転しました。新しい本部は同協会陜川支部から徒歩で行ける場所にありました。ビルの1階にあり、事務所には宿泊室までありました。被爆二世の方たちが事務員として勤務していました。残念ながら、会長は不在で、お会いできませんでした。ご存知のように陜川は韓国のヒロシマと呼ばれるほど被爆者の多い地域です。本部が陜川にあるというのは、ある意味、当たり前なのかもしれません。

現在、陜川では原爆資料館を建設中です。場所は陜川原爆被害者福祉会館の前です。建物自体はかなりできていて、6割方くらいはできているように見えました。資料館の中身ですが、今のところは、なかなか集まっていないように見受けました。まず被爆者の方たちが持っている写真や資料がほとんどありません。被爆者の方に聞いても「私たちが何を持っていますか。何もないですよ」と悲しそうに話していました。着の身着のままで韓国に戻ってきて、帰国後の故郷でも食うや食わずの生活でした。日本での生活にしても写真など思い出の品物を持てるだけの生活をしている方がどれほどいたでしょう。そして町が一つ無くなるほどの被爆です。残っているものなどないというのは当然でしょう。

韓国原爆被害者協会陜川支部の支部長にお聞きしたら「生存者の口述証言を受け被爆の実相を後世に、また全世界に知らせたい」と答えてくださいました。被爆証言を集めて展示することになるのでしょうか。6月完成予定ということのようですので、どのような資料館ができるのか楽しみです。

 

 

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