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2022年9月

2022年9月 7日 (水)

コロナ禍の広島2022②平和記念式典

翌6日の平和記念式典は今年も招待された参列者のみしか式典に参加できませんでした。私のような一般人や遺族であっても招待されていない人々は周辺にいるしかなく、残念な式典となりました。

式典が開催される原爆慰霊碑周辺はロープでとり囲まれ、市役所職員が人の鎖のように立ちはだかっていました。8月6日の慰霊をしたいという人々が全国各地から集まってきています。観光客と思われる人がロープに近づき写真をとろうとした際に、上司と思われる人が職員に向かって「近づかせるな」と怒鳴っている姿をみた時には、失望を禁じえませんでした。そこから慰霊祭の舞台まで簡単に見える距離ではなかったからです。安倍元首相の銃撃事件のあとですから厳重なのは仕方ないとしても、観光客を威嚇するような部下への叱責はいかがなものかと思いました。招待客以外は絶対に中には入れないという高圧的な感じです。そうであれば公園内総ての地域を立ち入り禁止にすればよかったのです。こうした緊迫感のある状況で平和記念式典が開催されたのです。

午前8時前に私は原爆ドーム前にいました。ドーム前ではいくつもの団体が集会を行っているからです。宗教団体や平和団体などが一塊になってそれぞれの集会を開いています。その中の一つに参加しました。そこでは815分に「ダイイン」が行われます。黙とうの代わりに1分間、地べたに寝ころび死者に思いをはせるものです。最初に見た時はとても衝撃でした。まるでそこで亡くなったかのように人々が思い思いの姿で倒れています。実際、原爆が投下された時は、ここにいる何百倍もの人々が横たわっていたのだと思うと、恐ろしさが募ってきます。核実験後のドーム前での座り込み行動と同じく静かな抵抗と激しい怒りを訴える行動です。

同じ時刻、式典では黙とう・平和の鐘に引き続き、広島市長による平和宣言、放鳩、子供たちによる平和への誓いが行われます。今年の松井市長は、日本政府に対して核兵器禁止条約の締約国会議への参加と、一刻も早い締約を促しました。こうした核兵器廃絶に向けた具体的な強い姿勢を広島市長がとることは今までにないことではなかったかと思います。これは松井市長が被爆二世であることや平和首長会議の広島開催などが考えられますが、平均年齢が84歳を超え、いまだに心身や生活に苦しみが続く被爆者を市長が身近に感じているからに他ならないと思うのです。77年間、被爆のトラウマを心に抱え、体に放射線のダメージを受け続けている被爆者を広島の人々は見ています。生活状況を知っています。多くの死を経験しています。ロシアによるウクライナ侵攻で、核兵器の使用をにおわすような戦争に広島は立ち上がったのだと思うのです。

コロナ禍の広島は今年も人々の平和への強い希求であふれていました。二度と核兵器を使わせない、戦争反対という広島の願いは、様々な形で世界に向けて発信されていきました。

 

 

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コロナ禍の広島2022①韓国人原爆犠牲者慰霊祭

今年もコロナ禍のため、広島の平和記念式典は入場者を規制しての開催となり、前5日に行われた韓国人原爆犠牲者慰霊祭は例年通りに開催されました。2つの慰霊祭について、ご報告します。

 

 8月5日に開催された在日本大韓民国民団広島県地方本部主催の「第53回韓国人原爆犠牲者慰霊祭」は午前10時から平和記念公園内にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で行われました。国歌斉唱などの国民儀礼の後、死没者の名簿が慰霊碑に奉納されました。今年は16名が新たに加わり2,802名の被爆者の名前が納められました。在日本大韓民国民団広島県地方本部団長は追悼辞で「併合と戦争の歴史の中で不幸にも大切な命を奪われた韓国人原爆犠牲者の御霊に哀悼の意をささげます。英霊たちの犠牲と先輩方の努力が無駄にならぬよう、世界平和のために努力していくことを改めて約束します」と誓い、平和と命の尊さを次世代に伝えることが使命だと述べました。式典には被爆者の遺族や民団関係者、関係団体など約130人が参列し、韓国人の原爆犠牲者への哀悼の意を捧げていました。

 

今年の死没者名簿の中には在日コリアンの被爆証言者であった李鐘根さんが含まれていました。慰霊祭目前の730日、盲腸癌のため93歳で急逝されたのです。

李鐘根さんは韓国原爆被害者対策特別委員会委員長として国内外でご活躍されていた方でした。亡くなる数日前まで慰霊祭に参加されることや被爆証言などの打ち合わせをされていたようです。突然のことでご家族はもちろんですが民団関係者始め鐘根さんを知る方々は相当驚いたようです。慰霊祭には鐘根さんの娘さんお二人が来席されていました。献花では娘さんが鐘根さんの遺影を胸に大きな花束を慰霊碑に捧げていました。ご存命であればそれは鐘根さんが務める予定でした。

 追悼辞では在日本大韓民国民団広島県地方本部団長や在日本大韓民国民団中央本部団長、駐広島大韓民国総領事のすべての方が鐘根さんの逝去について触れていました。司会の方が鐘根さんの名前を呼ぶ際、涙ぐむといったこともありました。式典終了後には娘さんたちの周りを取り囲むように、マスコミを含め多くの方が挨拶にいき、鐘根さんがどれほど慕われていたのか、改めて実感しました。

私は逝去のニュースをネットで見つけ、すぐ知り合いに電話し詳細をお聞きしました。鐘根さんが盲腸癌であったことや奥様を今年初めに亡くされていたことなどをお聞きしながら、なぜもっと早くに連絡をとり鐘根さんから話をお聞きしておかなかったのかと後悔の念にかられました。いつもお元気で会えていたため、それがずっと続くとどこか安心していたのです。鐘根さん不在の慰霊祭で本当に鐘根さんはこの世にいないのだと感じ、カメラで撮影しながら悲しくなっていた時、娘さんに抱かれた遺影の中でお洒落な鐘根さんが笑っていました。私の知る鐘根さんの笑顔でした。私は生前の鐘根さんを撮影していました。鐘根さんは「イトウさんあとは頼むよ」と言われたような気がしました。悲しみと継承への思いを強くする被爆77年目の慰霊祭となりました。

 

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