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2018年11月29日 (木)

戦後、韓国で生き延びた日本人の原爆孤児・友田典弘さん

9歳で原爆孤児となり、その後すぐ朝鮮半島に渡った友田典弘さんの話が1125日、広島市内でありました。友田さんは広島の歴史をみてまわる会主催の「被爆・戦争体験を聞く会」で証言。被爆時や朝鮮半島での生活、日本に再び戻ってくるまでを語り、被爆した場所も訪れました。

小学校4年生の時、友田さんは爆心地500メートル以内の袋町小学校で被爆しました。被爆で家族を亡くし孤児となった友田さんを不憫に思い救ってくれたのが、自宅の2階に下宿していた韓国人の男性・金さんでした。終戦の翌月に金さんと友田さんは渡韓し、ソウルに住むことになりました。当初、自宅に連れて帰ってくれた金さんでしたが、金さんが結婚したあとは友田さんと一緒に暮らすことができなくなりました。友田さんは言葉も分からない外国で再び一人ぼっちになり路上生活を送ることになってしまいました。その後、朝鮮戦争が勃発し逃げまどう日々を送りました。そして偶然の出会いからパン職人の道に進みました。生まれ育った日本に帰りたかった友田さんが再び故郷・広島の地を踏んだのが24歳の時でした。

「韓国語は2年も経ったらぺらぺらに話せるようになった。朝鮮戦争の時には銃弾が撃ち込まれる様子を目撃した」と淡々と語りますが、年端もいかない子供が言葉も文化も違う国で一人で生き、そうした中で戦争という悲劇に見舞われる。どれほど苦しくて寂しくて悲しくて辛かったことか。その苦難は想像するだけで胸が苦しくなります。2時間ばかり話されたのですが、友田さんが1度だけ目頭を押さえた場面がありました。それは韓国で友田さんを助けてくれた韓国人女性・梁さんのことを話そうとした時でした。梁さんは日本語が話せ、友田さんが日本へ帰りたいという願いを叶えてくれた方でした。日本語がうまく書けない友田さんに代わって日本の警察や学校などに帰国を希望する手紙を出してくれたのです。梁さんの手紙のお蔭で友田さんは再び日本に戻ってくることができました。

壮絶なご苦労があったであろうはずなのに、ご経験を淡々と話される友田さんの姿に感服しました。同時に戦時中の日本人と朝鮮半島の方との温かい関係性を知ることができ嬉しくなりました。日本人の子供を韓国に連れていくことはとても勇気のいることだったと思いますが、友田さん一家に対して思いがあったからこそ金さんは友田さんを引き取ったのだと思います。韓国の方の情の深さもあらためて感じました。

ハンチング帽を被り、おしゃれなジャンパーに身を包んだ友田さんは82歳とは思えないほどお若くみえます。これからも機会があればご自身の経験を話したいと言われていました。戦時中、朝鮮半島の方と日本人が仲良く暮らしていた状況もあったのだということを、もっと多くの方に知っていただきたいと思います。

 

 

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