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2018年4月10日 (火)

朝鮮半島の被爆者の数について考えるシンポジウムが開催されました

3月3日、広島市内で韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下、市民の会)主催の講演・シンポジウム「朝鮮半島出身被爆死者数は「数千人」なのかー未だ明らかでないその実態を考えるー」がありました。参加者は80人近くになり広島市民の関心の高さがうかがえました。今回はこの集会をご紹介します。

まず韓国の許光茂さんから「広島・長崎朝鮮人の原爆被害について」というタイトルで話がありました。許さんは元対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会委員でした。この機関は韓国政府の組織で、広島を始め日本に調査にきていました。今回はその調査結果から朝鮮人被爆者について話されました。

許さんは「長崎の徴用工は爆心地から離れていたので直爆ではなかったようだが、後片付けの救援に行ったという証言がある。端島、高島には大勢が連れて行かれた。8月9日は端島などでも爆風や熱い風を感じたという証言がある。長崎の方は沢山の朝鮮人が復旧に回された。一方、広島の徴用工は致命的な負傷を受けたのではないか。日本から出てくる資料の数が合わないのだ。現在、生存者は90歳を超えているので証言をとるのは難しく、自分が会った方々は皆亡くなった」と話し、時間の経過に無念さを滲ませていました。そして戦時中は日本全国どこにでも朝鮮人がいない場所はないため、資料の洗い直しの必要性を訴えていました。

パネルディスカッション「朝鮮半島出身被爆死者数は「数千人」なのか―未だ明らかでないその実態を考えるー」では、民団、総連、市民の会から各団体の見解が話されました。戦後73年目を迎え、それぞれの被爆者団体は次世代の方々が活動されており、被爆者の方々の証言を聞くことが難しい状況です。「許さんの話では陜川の話が出てこなかった。陜川は韓国のヒロシマと呼ばれているほど被爆者が多い場所なのに陜川出身者の姿がどこにもないのだ。戦争が佳境に入った時、土木工事で広島に沢山きていた。私たちのアボジ、オモニ、兄弟はどこに行ったのか」「当時の状況をさかのぼって考えると広島の朝鮮人の数は1942年以降、急激に増えている。終戦まで広島に労働力として連れて来なければいけなかったのではないか。危険なインフラ工事を担ってきた朝鮮人は、実際は公表以上の数字が出てくるのではないか」など、いずれも当時相当数の朝鮮半島の人々が広島におり、被爆を受けたのではないかと推定していました。

今回、確認されたことは日本政府がきちんと朝鮮半島の被爆者の調査をしていないことです。朝鮮半島は当時日本の植民地です。日本の責任として調査の必要性があるのではないでしょうか。時間がかかっても日本政府が調査をし公表することで、植民地にしたことで被爆した朝鮮半島の方々への償いの一つになるのではないかと思います。そしてなにより被爆の実相に一層、近づくことができるのではないかと思います。

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