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2018年3月

2018年3月12日 (月)

被爆二世は誇りを持って~ヒロシマの被爆者が伝えたいこと(下)

「8月6日はタバコ工場に動員されていた。しかし通院のため朝礼後、タバコ工場から病院に行く途中の比治山の橋付近で被爆した。太陽が目の前に落ちたのかと思った。爆風で飛ばされ気を失った。一端、タバコ工場に戻り、その後学校に行くことにした。なんとか学校に戻った。目を閉じると学校に戻って来た女学生の姿が浮かぶ。全身火傷で、顔をみたら誰が誰だかわからないほど腫れ、肌がむき出しになり、指の先から昆布のようなものを引きずっていた。髪はチリチリで服は焼けていた。今でもその姿が忘れられない。瀕死の状態で戻ってきても学校には薬もなければ医師もいない。家庭教室の古い天ぷら油を塗ってあげた。火傷のようなものなので、楽になるということだった。それしか手当ができなかった。先生が「口がきけるうちに」と言うので、名前を聞いてわら半紙に書いた。生徒たちは熱いよ、痛いよと言いながら息絶えていく。暑いので遺体は腐っていく。荼毘を手伝うよう言われ、壊れた校舎の木材を使って焼いた。泣きながら焼いた。

中島地区は賑やかな広島の文化の中心街だった。歓楽街でカフェーや映画館、旅館、病院などありとあらゆるものがあった。今の公園は残骸の上に土を盛ってできている。いくら骨を拾ったといっても全て拾いきれるものではない。白骨の上に土が盛られているのが本当だ。私は、平和公園は大きな墓場だと思っている。ごめんなさいと言いながら歩いている。

被爆者の夫とは子供を作らないことを約束して結婚した。ある時、近所の医師から「あんたら結婚して長いのに子どもを産まないのは意識的なのか」と聞かれた。障がいを持った子が産まれるのが怖くてと答えると、「あんたら何考えてるんか」と目を向いて怒られた。「あんたたちの心の中に障がい者に対する差別心がある。だから産みたくないんじゃろう」と言われた。目からウロコが落ちた。人の命の値打ちに上下はない。命あるものはすべて尊い。それを繋いでいかないでどうするのか。私たちは不遜な約束をしていたと気づいた。現在、私には2人の子供と孫が5人いる。尊い命にはどんな障がいがあろうが上下はないし、何もかも含めて繋いでいかなければいけない。そのことを皆さんにわかっていただけたらと思う。被爆二世だろうと三世だろうと自分たちで終わりにしようとお考えにならないでほしい。命の値打ちは同じ。地球のある限り命はつないでいかないといけない。

戦争は胸が痛くなるほど悲しいことだ。原爆でどこで亡くなったのか、どうなったのかわからない人がいる。行方不明家族がいる。戦争は体験したものにしか分からない。平和はむこうからやってくるものではないのだ。守らねばならないものだと分かってほしい」。

切明千枝子さんは現在の世の中の空気が怖いと言いました。戦前の空気に似ているのだそうです。「戦争をすると景気がよくなる。それは人の命と引き換えだ。だからこそ唯一の戦争被爆国である日本は、広島に住む人間として、命がけで戦争にブレーキをかけなければいけない」と力を込めました。世界的な不況そして世界大戦という非常に厳しい時代を生きた切明さんの言葉の一つひとつに経験者しか話せない説得力と強い願いがこもっていました。

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2018年3月 5日 (月)

被爆二世は誇りを持って~ヒロシマの被爆者が伝えたいこと(上)

「被爆二世、三世であることを誇りに思っていただき、親がどんな思いで産んでくれたのか思いを馳せてほしいのです。今日このことを一番に伝えておきたかったのです」

そう話したのは広島で被爆した切明千枝子さんです。2月25日、広島市内で切明さんの講演会がありました。切明さんの話を聞くといいと知人から言われていたため、この機会を逃してはいけないと思い講演会に行きました。2時間ほどの講演会だったのですが予定時間をぎりぎりまで使って話されました。89歳とは思えないほど声に張りがあり内容も明瞭で心にしみるものでした。以下は切明さんのお話です。貴重なお話なので上下2回にわたってお伝えします。

 

「昭和4年に大恐慌が始まり、その年に私は生まれた。大恐慌の空気を吸って生きてきた。男女差別が激しかった時代に母は高等教育を受け、郵便局で経理の仕事をしていた。当時の女性は学校に進学することも、卒業後に働くこともなく、母のような女性は少なかった。父の家は陸軍被服支廠の正門の近くで、嫁いだ後母はそこに住んだ。被服支廠長の家族と親しくなり、母は経理の経験を買われ被服支廠で働くことになった。その頃、満州事変、上海事変が起き、日本軍の力が強くなった。特に陸軍が強くなり国家予算がつぎ込まれ、被服支廠の建物が大きくなっていった。被服支廠の中には病院や食堂、散髪屋、保育園まであった。私や妹たちは支廠の中の託児所に預けられた。私が幼稚園に通っている時、今上天皇生誕の知らせがあった。幼稚園で皇太子を称える唄と踊りを教えられた。国をあげて大喜びしたのだ。この時の唄は今も歌える。妹が生まれると私は夕方になると被服支廠に妹を迎えに行った。被服支廠に入るには厳しいチェックがあったが私は顔パスだった。被服支廠の医務室は歯科や耳鼻科など全ての医師がいて、具合が悪くなると私もそこで診てもらっていた。私は被服支廠で育ったという感じだ。小2の時、日中戦争があった。その時、先生は「葉隠れ」を私たちに教えた。皇国の臣民は天皇陛下のために死ぬことと教えられたのだ。天皇陛下のために死ぬことは立派なのだと思いこまされた。信じていた。宇品港は大陸へ軍を送る港だった。日中戦争が始まると毎日のように兵隊を宇品から見送った。

県立広島第二高等女学校に進んだが、学徒動員となった。タバコ工場に動員された。ある女学生が先生にどうしてタバコ工場なんですか。兵器や飛行機や軍艦のところじゃなんですかと尋ねていた。タバコ工場で働くことが不満だったのだ。あとから聞くところによると、学校の先生同士が集まり働く場所を決めていたようだ。私たちの先生は学校から近い宇品で、タバコ工場なら敵の飛行機にも狙われにくいと思い選んだようだ。親心だった。たまに学校に行くと授業として竹やりで人形を突いたり、手旗信号、モールス信号などをやらされた。通信兵の代わりができるようにという戦争の訓練だった。手旗信号や手榴弾投げで点数がついた。木製手榴弾の訓練は目標に向かって投げつけるものだった。私は左利きだったので手榴弾を上手く投げられず悲しかった。家に帰って下駄で投げる練習をした。軍国主義を教え込まされた。当然のことだと思っていた。」(下に続く)

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