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2018年1月29日 (月)

ヒロシマの記憶を伝えるということ

私が広島に来て最初に感じたことは「なんて美しい街だろう」ということでした。川がいくつも流れる広島の街は大都市なのに緑も豊かで原爆が落ちたイメージからはかけ離れていました。そして人々も親切でした。電車に乗れば運賃の払い方も教えてくれますし席を譲ってくれます。道が分からなければ教えてくれます。住みやすい街だと思いました。しかしよく見ると被爆の痕跡はあちこちに残っており、被爆時の写真が置かれ、原爆の悲惨さが人々の記憶から忘れないようになっていました。それらは決して大げさな物ではないため、写真に気が付いた私にはむしろ心に突き刺さってきました。被爆建物や被爆樹もそこかしこにあります。こうしたものをみるたびに過去の戦争を感じ、自分の中で戦争についての関心が高くなっていきました。

しばらくすると私は広島の過去が持つ別の顔を知りました。広島が軍都だったということです。明治時代、廣島には大本営があり、海外出兵の前進基地となっていました。調べると広島市内はもとより県内各地に軍事施設が数多く残されていました。その中の一つが愚作の一作目に登場した地下壕(地下防空壕)でした。地下壕など軍事施設をみていくうちにそこに関わっていた、それらを作っていたのが朝鮮半島の方たちであることを知りました。被爆者の中に朝鮮半島出身者が何万人といることも知り驚きました。

私は軍都廣島そして朝鮮半島と広島との関わりを調べていくうちにさらに驚きました。本はそこそこ出版されているのですが、映像作品として一般人が見られるものは殆どなかったからです。戦争そしてヒロシマと言えば原爆関連の本や映像は数えきれないほどあるのですが、そこに朝鮮半島、朝鮮人というワードを加えると急に少なくなるのです。

そもそもなぜ記録が残っていないのかということです。敗戦時、日本軍は自分たちが行ってきたことの記録や建設物など焼却し破壊し、記録として残さないようにしていました。ですから私が広島に来てから知った地下壕も記録がなかったのです。植民地となった朝鮮半島の人々は広島で何をしていたのかを知ることが私の活動の出発点となりました。

戦争は負であると誰もが知っています。しかし戦争が私たち国民にどんなことを強いるのか、どんなことが身にふりかかってくるのか、自分が殺されるだけではなく、人を殺めてしまう状況にまで追い込まれてしまう場合もあることなど、具体的なことを知る機会はそう多くはないため、なぜいけないのかを答えられる人はそう多くはないと思います。戦争の実相を知ることでなぜ負なのかが理解できるのです。戦争の記録を残すということは国や歴史の批判、否定につながるのではなく、将来、戦争という選択を国民が問われた場合の大きな道しるべになります。具体的に私たちの身の回りに起こることを知った上で私たちが選択することと、何も知らされない知らない状況で選択を迫られる場合とどちらがいいのかは明白です。先人たちの記憶が私たち一人ひとりの未来につながるのです。私は日本でも韓国でも被爆者の方々とお会いして、戦中戦後の生き方をお聞きしています。今の広島の街が美しいから結果よいのではないかと私は決して言うことはできません。

 

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