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2017年9月

2017年9月30日 (土)

無言館の画家たちが語るもの

皆さんは無言館をご存知ですか?無言館は長野県上田市にある美術館で、1997年に開館しました。ここには戦争のため画家になる夢を叶えることができなかった美術家たちの作品が日本各地から収集され展示されています。先日、呉市立美術館で開催されている「無言館 遺された絵画展」を見てきました。呉市立美術館には無言館から約130点の絵画や遺品が寄せられています。作者は北海道から九州まで様々な出身地で中には朝鮮出身者もいました。戦時中、呉市は戦艦大和など多くの軍艦を建造した軍港を抱え、日本でも有数の海軍工廠のまちでした。広島市内にある宇品港は海外派兵の拠点でした。広島は戦時中、多くの兵隊となった若者が集まる場所でした。そう考えると、今回の絵画展は作者たちが再び広島に戻ってきたといえるかもしれません。私は無言館のことを知らず、正直なことを言うと、戦争で亡くなっていった若者の作品をみるのは少し辛いなあと思っていました。しかし見終わって行ってよかったと思いました。

作品は美術館の1階と2階の部屋を使用して展示されていました。絵画と共に作者一人一人のプロフィールと召集年時や最後の場所、どのような理由で亡くなっていったのかなどが丁寧に説明されていました。見終わると絵画を鑑賞するというのではなく、作者一人一人の人生を描いた映画や小説を鑑賞したような気持ちになりました。若く才能豊かで絵画をこよなく愛する若者たち。この表現が決して誇張ではないのが、殆どが今の美大にあたる学校の学生であったり、絵画教師であったり、広告など商業分野でその腕を発揮していた方たちばかりだからです。作品はどれも見ごたえがありました。特に召集前夜に描かれた絵や家族を描いた絵には悲しみや、その奥の奥にある静かな怒りを感じずにはおれませんでした。

展示の中には広島出身の作家もいました。宇品で出港を待っている時に被爆した手島守之輔の作品が一部屋を使い特別展示されていました。手島は竹原に生まれ東京の美術学校をでたあと、地元に戻り教師をしていた際に召集されました。優しく穏やかな絵が多い中、暗い色で描かれた自画像はまるで自身の行く末を暗示するようでした。

戦争がどれだけ多くの芸術家の将来を奪い、人類の遺産となったかもしれない傑作の誕生をつぶしたのか。無言館の作品は戦争の無意味さを痛感させます。「あと10分、あと5分でいいから描かせてくれ」と筆を握っていた芸術家たちの命を私たちはどのようにつないでいくのか。それは平和しかありません。いつか、長野県にある無言館に行きたいと思っています。無言館の絵画展は1119日まで、呉市立美術館で開催されています。

 

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2017年9月 8日 (金)

9月8日

「そして例外もあるが一般に爆心の近くで被爆した者は重症で、爆心から遠く離れたところで被爆した者は軽症で、前者は後者より白血球の減少が甚だしい。例外的に比較的爆心の近くで被爆しながら白血球の減少が少ないのもあった。それをさらに追及するとそれらの者は屋内殊に鉄筋コンクリートの建築物の中にいた者や大きな樹木が陰になって原爆の光線の直射を受けなかった者ばかりであった。(※194598日)」

 これは蜂谷道彦著『ヒロシマ日記』の一文です。蜂谷道彦氏は広島逓信病院の医師でした。被爆時、蜂谷先生は自宅におり大怪我にも関わらず、職場の逓信病院にかけつけました。そして以後、蜂谷先生は原爆被害の症状を記録しなければいけないという使命感からメモを取り始めました。ご本人も外傷がひどい状態の中、筆記用具も紙もない状況でひたすら見て聞いたものを書き記しました。その記録が『ヒロシマ日記』です。

この日記は1955年に出版されて以来、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、イタリア、チェコ、ドイツ、スウェーデン、ラトビア、スロバキア、スペイン、ポルトガルに翻訳されました。進駐軍が広島に入ったのが9月末ころですから、原爆投下から1カ月ほどの間は進駐軍も状況が分かりませんでした。蜂谷先生は医師として患者をみただけではなく、調査も行い、原爆が人体に与える影響を詳細に書き残しました。被爆した人々が当時どのような状況だったのかを知る手がかりとして、本書はとても貴重な資料だったのです。

『ヒロシマ日記』には放射線の被ばく症状が書かれています。蜂谷先生は嘔吐、頭痛、脱力感、下痢など重症の人々をみて、当初は赤痢などの伝染病を疑いますが、すぐに違うと分かります。そして様々な症状がでている患者に今まで医師として経験していない状況にあると理解していきます。見た目は怪我や火傷などしていない人が死んでいく状況や脱毛、出血斑など次々に現れる症状に混乱しつつ、記録を続けます。

今年、広島の放射線影響研究所のオープンハウスで配布された資料には海外の反応が記されていました。

「原子武器がどんな結果をもたらしたか、また今後もたらすだろうか、を知るためにも万人必読の書である。」(パールバック/小説家)、「偉大なる勇気による簡潔な慎み深い報告・・・本書の刊行を心から感謝したい」(ロバート・オッペンハイマー/マンハッタン計画の中心的人物)

そして原爆投下から6年後の195198日、サンフランシスコ平和条約が日本政府と連合国の間で結ばれ、敗戦国である日本は主権を取り戻しました。終戦から現在に至るまでに、日本は欧州と肩を並べる国になりました。しかし原爆は今も人々に苦痛をもたらし続けています。

 

 

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