11歳の戦争~廣島の片隅で
日本は負けると思っていなかった。学校で紀元2600年という神武天皇の即位から教えられた。国語も音楽も教科書には大国主命のことが書かれていた。戦争が大好きなお爺ちゃん、お婆ちゃんは「天皇陛下が広島に来た」と自慢げだった。父は兵隊の教育を受け、日清戦争の際、宇品港から中国へ出征した。戦争から帰ってきてから「関門海峡を通っていったのだけれど、ヒトも馬も船で酔った。戦争はむごいものじゃ」と言っていたが詳しい話はしなかった。
1941年12月8日、日の丸の小旗を持って学校に行った。君が代を歌い、国旗掲揚してから校長先生が話しだした。「本日ただいま大本営発表により大東亜戦争が勃発しました。ハワイの真珠湾でアメリカの艦隊を~」と。皆で「大日本帝国万歳、天皇陛下万歳」を唱和した。そして「記念すべき戦争が始まった日だから行進します」と言われ、子どもたちは町中に向かって歩き出すことになった。通りは各家からお爺ちゃん、お婆ちゃんが出てきていて、「大日本帝国万歳」と万歳をしていた。長い道のりを旗振りながら歩いた。へとへとになった。
偉い人から「日本は大東亜戦争を始めて経済封鎖されているので石油や砂糖がない。正義の戦争をするのだ。インドシナ半島に進出する。土人(※証言者の言葉通りに使用しています)たちは文盲だ。西洋が植民地化し、勉強をさせていないからだ。中国も勉強させていないので日本が教育を行う。必ず勝たねばならない。共に栄えよう」と言った。当時小学校2年生の私でも話の内容は理解できた。「食べ物、着る物を我慢しよう」協力してくれと言われた。冬の間、フィリピンやシンガポールなどが陥落する度に万歳を唱和した。
4年生になった時、父に赤紙がきた。私は父に勉強を教えてもらうのが大好きで、父の出征前日も割り算を教えてもらっていた。父は「今回は戻れんかもしれん」と言った。私が「でも帰ってくるよね」と言い返すと、「わからん。天皇陛下の命令だから行かにゃあいけん。天皇陛下はえらいんじゃ。生き神様じゃ」。そして「あんた戦争の意味わかっとらんじゃろ。殺すか殺されるか、どっちかじゃ」と言うのだ。そこで私は「前にシナ(※中国のこと)に行った時は人を殺したんか」と尋ねた。そのやりとりを聞いていたお婆ちゃんは泣きだした。私は「しまった」と思った。お爺ちゃんは「大丈夫。お父ちゃん強いんじゃけ、死にやぁせんよ」と慰めた。私はその晩、眠れなかった。
8月15日は玉音放送のために校長が集まれと言った。皆、泣いた。酒もないのに大人たちは酔ったようになっていた。この日、初めて皆で泳ぎに行った。川に行く途中で西から東へ向かって飛行機が大編隊で飛んで行くのを見た。男子が45か48機くらいまでは数えたが、それ以上は数えられなかった。それよりもっと多く飛んでいたのだ。恐ろしかった。山に向かって「大人の大嘘つき」「先生の嘘つき」と皆で叫んだ。すっきりした。8月15日は私にとって終戦ではなく敗戦だった。必ず勝つと信じ込まされていたから夢をみていた。私たちの夢が消えた日だった。学校でなぜ戦争を綺麗に教えたのだろう。勇ましい話、立派ないい話、美しい話ばかりだった。戦争の汚さを私は知らなかったのだ。
| 固定リンク
「戦争」カテゴリの記事
- 戦時中の朝鮮半島の人々の遺骨(2019.11.30)
- 立岩ダムのフィールドワークに行ってきました(2019.11.08)
- 歴史の現場を歩く~安野発電所フィールドワーク(2019.10.31)
- 「閉ざされた記憶 ノーモア南京展」のこと(2017.07.26)
- 東京近郊の小さな原爆資料館「八王子平和・原爆資料館」(2016.12.07)


最近のコメント