ある在日人権活動家の死を悼んで。
去る3月24日、親しくしていた在日のOさんが逝去されました。以前のブログに書いたインタビューをしていた在日2世の方です。大震災の混乱の最中で、連日の悲惨な報道に心がつぶされそうな時期での訃報に茫然としました。とてもとてもショックでした。大きな何かが無くなった気がしました。
実は入院中に毎日のように病院に行き、インタビューを撮影していました。日に日に弱って行く姿に、私の気持ちを見せてはいけないと笑顔しか向けませんでしたが、次第に声が小さくなっていく様子に私の方が耐えられなくなり「少し元気になってから、また来ますから」と言ったことも1度や2度ではありませんでした。しかしOさんは許してくれませんでした。「逆に悪いなあと思っている。自分は人と話すことで少しは気も紛れるからいいよ」と、か細い声で笑うのです。私はその言葉に促されるままにインタビューを続けました。
最後に会ったのは亡くなる1週間ほど前のことでした。病院に行く2日前にOさんから電話がかかってきたのです。見舞いの催促でした。地震や原発事故のことなど、かなり声はか細くなってはいましたが、いつも通り辛口批評家のOさんでした。
そして、その2日後に会った時、私は目を疑いました。その姿は私の知るOさんではなかったからです。私と話した翌日、容体が急変したとのことでした。Oさんと懇意の新聞記者のご夫婦と3人で行ったのですが、この時は会話も難しい状態でした。
意識も朦朧としているだろう状態でOさんは、新聞記者の方に「わしは海田の生まれじゃそうな、・・・」と出生を語りだしました。しかしその後に続く言葉は、その場にいた誰もが理解できませんでした。私はうわごとだと思いました。しかし後日、新聞記者の方のOさん追悼記事が新聞に掲載され、その言葉に意味があったであろうことを思い知らされ、襟を正しました。「あの「うわごと」には長い続きがあっただろう。語り尽くせなかったことをどうたどれるか。遺言と受け取っている。」と締めくくられていたからです。私は思い出しました。その新聞記者の方は言葉にならない言葉を聞きながら、Oさんの手をとってこう答えたのです。「うん。分かった。言いたいことは伝わった」と。
民族差別撤廃のために闘ったOさんは生前「僕の運動は中学から始まった」と言いました。それから亡くなる53歳までの長い長い間、様々な人と結びつき、また人と人を結び付けながら窮屈な日本の社会に風穴を開けてきました。指紋押捺拒否運動や人権に関することなどの講演活動、朝鮮半島と広島をめぐるフィールドワークとその活動は日本人にも在日の方々にも大きな刺激となりました。私個人としてもOさんがいたから、広島が持つ様々な歴史の側面や在日の方々の思いを知ることができました。私のような者にまで色々教えて下さったのは、Oさんの日本に対する思いだったように思います。Oさんは日本の社会をつくっていくことに全力をかけた方です。それは在日も日本人も関係ありません。「自由は自分でつかみとるもの」という信念で動いてきたのです。大震災の後の今だからこそ、日本の社会をどうつくっていくかを考える必要があります。日本に住む私たちが、これからやらなければいけない仕事はとても大きいものですが、Oさんから教わったことを糧にこれからの日本社会をつくっていかなければいけないと思っています。
さよならは言いません。ゆっくり休んでくださいともいいません。まだまだOさんにはしてもらわなければいけないことがあるからです。でも、これだけは言わせてください。
Oさん、ありがとうございました。
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