被爆65年後の8月6日~核廃絶へ向けて
朝早くからせみ時雨がうるさく感じ、今年の8・6はいつにも増して暑かったように思います。私は朝6時15分から行われた原爆供養塔の慰霊行事から1日が始まり、夜の灯篭流しまで文字通り、朝から晩まで駆け回りました。
平和公園内にある原爆供養塔は遺族がわからない方の原爆死没者の遺骨が納められています。供養塔の中におられるのは約7万人。そのうち817人は名前が分かっています。広島市では毎年、8・6前に名簿を全国の自治体などに送り、遺族を探していますがなかなか見つかりません。しかし今年は1名の方の遺族が見つかりました。戦後65年経って、ようやく家族のもとに戻ったのです。久しぶりにご家族に会えてほっとしているのではないでしょうか。
6日当日の慰霊行事は基本的には特定の宗教ではない形式ということでしょうか、この日は仏教、キリスト教、神道といった様々な宗教が霊を慰めていました。私は今回、初めて行きましたが、参列者が想像していた以上に多く、国会議員さんもご本人が来られるなど、思ったより盛大な慰霊行事でした。宗教者の色々な声を聞きながら、65年という歳月は死者にとっては意味のないことかもしれないと思いました。死者はあの日から時間が止まっています。1日も100年も死者にとっては同じなのです。原爆犠牲者の方々には共通の思いがあると思います。それは「二度と原爆を使わせてはいけない」ということです。死者の無念をはらすことができるのは生きている者だけです。私たちはその思いをずっとずっと引き継いでいかなければいけないと思いました。
原爆死没者慰霊式・平和祈念式典は、今年は特別なものになりました。開催前から大きな話題となっていたように、国連のパン・ギムン事務総長とアメリカの駐日大使が初めて参列されたからです。一般の参列者も例年以上に多かったような気がします。
パン・ギムン事務総長の言葉で印象に残ったのは日本語を取り入れていることでした。「コンニチワ」と日本語での挨拶を聞いた時、とても友好的な印象を受けました。そしてご自身の戦争体験に触れられた時、私はなんともいえない思いがわき起こりました。韓国人としての強い思いを感じたからです。
「私は少年時代を朝鮮戦争のさなかに過ごしました。炎上する故郷の村を後にして、泥道を山中へと逃れたことが、私にとって最初の記憶の一つとして残っています。多くの命が失われ、家族が引き裂かれ・・・、後には大きな悲しみが残されました。それ以来、私は一生を平和のために捧げてきました。私が今日、ここにいるのもそのためです。」。
ご存知のように朝鮮戦争は日本が朝鮮半島を植民地にしなけば起こらなかったと思います。また朝鮮人被爆者の存在は植民地の歴史そのものです。前日の5日、パン・ギムン事務総長は長崎で在日コリアンの被爆者とお会いになったという報道を見ました。被爆者と話されて、どのような思いをされたのか。当然、朝鮮人被爆者の存在をご存じの上で今回の挨拶を考えられたに違いありません。私はパン・ギムン事務総長が韓国併合100年目の今年だからこそ、この広島の式典に来られたのではないかと思いました。「もう二度と戦争をしてはいけない」と日本人に伝えたかったのではないでしょうか。しかしそれは決して日本に対する恨みや憎しみではないと思います。なぜなら「核兵器廃絶」「反戦」に対する強い意志が伝わってきたからです。
パン・ギムン事務総長は核兵器廃絶へ向けて「私たちはともに、自分たちが生きている間、そして被爆者の方々が生きている間に、その日を実現できるよう努めようではありませんか。」と世界に強いメッセージを送りました。‘被爆者の方々が生きている間’という、かなり近い将来に向けたその言葉に覚悟を感じました。原爆供養塔におられる方々もこの言葉を頼もしく聞いたに違いありません。近い将来、世界から核兵器がなくなった日、広島から発せられた韓国人であるパン・ギムン事務総長の言葉がきっかけとなったと、その歴史的瞬間に立ち会ったと思える日が来ることを切に願いました。
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