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2009年7月

2009年7月28日 (火)

在朝被爆者の思いが綴られた映画『ヒロシマ・ピョンヤン』

 今年の3月現在、厚労省が把握している被爆者は約36カ国に4200名ほどいますが、そこに北朝鮮の被爆者は1人しか含まれていません。しかし在朝被爆者は1911人が確認されており、現在382人が生存していると言われています(「反核平和のための朝鮮被爆者協会」調べ)。生存率わずか20%という状況の中、被爆者はどのような生活を送っているのでしょうか。伊藤孝司監督のドキュメンタリー映画『ヒロシマ・ピョンヤン』は被爆者の暮らしぶりの一部を紹介しています。先日、試写会があり見る機会を得ました。北朝鮮に行くことができない私にとっては大変に興味深い映像でした。
 家族の中でただ一人北朝鮮に渡ったRさんは首都平壌で家族と暮らしています。ピアノがありソファがある生活空間は豊かな暮らしを連想させます。テーブルいっぱいに並べられた食事を終え、後かたづけを始めたRさんはおもむろにゴム手袋をはめます。Rさんにはゴム手袋をはめなければいけない理由がありました。両手の指1本1本に包帯が巻かれているからです。原因は分からないのですが、指の皮が剥がれてくるというのです。このほかにも消化器など病魔に襲われていました。2004年、母親が訪朝した際に被爆者であることを初めて告げられ、自分の体を蝕んでいる正体を知りました。Rさんが被爆者したのは4歳で、広島市外に住んでいたため被爆について分からなかったのです。母親は結婚に影響がでることを恐れ隠してきましたが、Rさんの体の状態を見て被爆者であることを話す事にしたのだということでした。広島に住む母親は娘の姿が映った映像を食い入るように見つめます。一方、何気ない日々の暮らしの中で被爆者であることを実感していくRさんは、日本にいる母親に会いたいと懇願します。この映画は、親も子も互いが行きたくても、会いたくてもできない状況に【国】とは何かを考えさせられます。そして“ヒバクシャはどこにいてもヒバクシャ”であるはずなのに、北朝鮮にいる被爆者に何もしていない日本の被爆者援護の対応に疑問を抱きます。
 現在、北朝鮮にいる被爆者は日朝関係という国と国との問題で、被爆者であれば受けられるはずの援助を受けることができないでいます。Rさんも被爆者健康手帳を取得したいのですが、付添人の入国許可が下りず広島行きを断念せざるをえませんでした。在外公館のない北朝鮮では在朝の状態で手帳取得も難しいでしょう。援護法では北朝鮮の国民であっても援護の対象になっていますが、現況は援護がない状態なのです。
 原水爆禁止日本国民会議が出した『放置された在朝被爆者 現状と課題』の中で北朝鮮にある被爆者の協会、反核平和のための朝鮮被爆者協会は“被爆生存者たちが適切な支援をもらえるように1日も早く被爆者の治療に必要な医薬品、医療設備の提供など、わが国の被爆者問題を解決するための実践的措置を速やかに講じるべきであります”と述べていますが、その通りだと思います。国交のない国や日本から遠く離れた国、被爆者の数が少ない国ほど被爆者医療は進んでいないはずです。被爆者は自分の体の状態もわからないまま不安な気持ちで日々を送っていると思います。60年以上も続く痛みを抱え、苦しんでいるのです。


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2009年7月21日 (火)

楽しかったけれど、悲しく憤った旅でした

“60でお迎えが来たら、まだ仕事があると言え  70でお迎えが来たら、恋人ができたと言え  80でお迎えが来たら、親の面倒をみなければいけないと言え  90でお迎えが来たら、いい日を選ぶからと言え”
 今回、韓国で聞いた、ちょっと変わったアリランの歌詞です。あの有名なアリランの「アリラン峠を越えていく・・・」の歌詞を変えて歌います。韓国のお年寄りの間で最近歌われているのだそうです。ジョークが上手い韓国人らしい歌で、この歌詞のように生きられたら楽しいでしょうね。
 1年ぶりの韓国は少し変わっていました。まず陜川の原爆被害者福祉会館が増館され、新しい被爆者の方が30名入ってこられていました。そしていつもお世話になっていた館長が退職され、新しい館長が就任されていました。増館にともない事務所の体勢や部屋の配置なども変わり、職員の方々も増え、なんだかいつもの会館とは違った感じで、別の場所に来たような気分になりました。ハルモニ、ハラボジも馴染みの方々と再会を喜びましたが、姿が見えない方もいました。よくよく聞くとお亡くなりになったとか。今回の旅で分かったことなのですが、1作目と2作目に出ていただいた被爆者の方が4名もお亡くなりになっていました。そして昨年までお元気だった方々もベッドで横になっていました。お一人は顔がすっかり変わってしまい声もでない状況で、あまりの変わり様に私自身の方が言葉が出なかったほどでした。高齢の被爆者にとって1年はなんという長い時間なのかとつくづく実感しました。6年通っていますが、これほど知り合いの被爆者が亡くなった年は初めてでした。ちなみに帰国後もブラジルの被爆者で活動を続けてこられたMさんもお亡くなりになり、少なからずショックが大きい月になりました。
 行った週の金曜日と土曜日は、在韓被爆者の国賠訴訟の書類の手続きをするということで会館に陜川の被爆者が集まりました。初日には100人を越す方々が集まりましたが、私は何もお手伝いすることがないほど整然と手続きが行われました。病気などのため来られない方もおり、同じ被爆者の家族が手続きを済ませていました。わずか1年といえど高齢の被爆者にとっては、大切な時間であることは先に述べた通りですが、遠くから車を乗り付けてかけつけた大勢の被爆者を見ながら、つくづく、なぜ裁判だったのか、まだ続けなければいけないのかと思わずにいられませんでした。せめて裁判が1日でも早く終わり、解決されるよう切に願います。


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2009年7月 5日 (日)

在韓被爆者国賠訴訟に希望!和解に向かって進んでいます。

 在韓被爆者集団提訴の第4次提訴と口頭弁論が3日金曜日、広島地裁でありました。これは国外を理由に健康管理手当などを打ち切られたことなどに対して国に慰謝料を求めているもので、この日は70人が提訴しました。当初、国は和解条件を4つ挙げてきましたが、被爆者健康管理手帳(以下、手帳)取得の確認がとれればという緩和された状況で進むことになりそうです。原告側の弁護士のお話しによると早ければ秋頃には解決できそうです。この集団訴訟は大阪、長崎でも同時に行われ、すでに2100人以上が原告となっています。現在は手帳を持っていて死亡された被爆者の遺族などが提訴の準備をしています。韓国以外のアメリカやブラジルの被爆者からも同様に提訴されていますが、いずれも明るい見通しが予想されます。
 嬉しいニュースではありますが、なぜ裁判をしなければならなかったのか、その真意はどこにあるのでしょうか。2007年の元広島三菱徴用工裁判の最高裁判決で国側が慰謝料を支払うことになりました。在韓被爆者は同じ状況ですから当然、国に慰謝料を求めました。すると国は「個別のケースについて司法の方で判断していただければ、例えば直ちに和解して迅速に賠償をお支払いするという形ができる」という立場をとり、裁判を要求したのです。裁判を回避できないか、在韓被爆者や支援団体などが国に申し入れを行ったのですが話し合いはつかず、結局はやはり裁判という形になってしまいました。裁判をするということは、それだけ税金が使われるということです。例えば一律いくらという支払い方法もあったはずで、そうすれば利子だって払わなくてすみます。国が最初から和解の方向で支払う意志があるのであれば、裁判をする必要がどこにあったのでしょうか。理解に苦しみます。
 さて私は今日から1週間ほど韓国に行ってきます。2作目に協力してくださった方々にお会いしてきます。では タニョワヨ!


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2009年7月 1日 (水)

平岡敬さん“ヒロシマ”を語る

 70年代の始めから在韓被爆者問題をとりあげていた平岡敬さんの講演会がありました。中国新聞社編集局長、中国放送社長、広島市長を経験されておられるのはご承知の通りですが、今回は日本ジャーナリスト会議広島支部主催の第10回「ヒロシマ基礎講座」ということで、ジャーナリストとして“ヒロシマ”をどう見ているか、「広島の平和観(メモ)」というタイトルでお話しされました。被爆後から現在までの原爆投下に対する日本政府や米国、そして広島市民や被爆者たちの思想が語られ、原水禁運動、加害責任と歴史認識、ジャーナリズムの役割やこれからのヒロシマの視点など話題は広範囲に渡り、どれも興味深いものでした。
 この度あらためて感じたのは「情報」が持つ力でした。占領軍のプレスコードによる報道規制で原爆の被害を伝えず、旧日本軍の行為を暴露することで悪いのは日本軍だったと日本国民に植え付ける。そして原子力の平和利用という思想が生まれ、原爆犠牲者は人類の文明のための犠牲者という考えが出てきた。これが広島市民の思想の根底につながっているのではないかと平岡さんはいいます。プレスコードが終わった後、ようやくマスコミが自由に原爆の被害を報道することで平和運動が広がっていったようですが、こうしたダイナミックな流れをお聞きすると「情報」の社会的影響の強さと意義を実感させられます。
 しかし一方でマスコミへの峻厳な指摘もします。占領軍の規制時代、メディア自身が自主規制していたのではないかということです。その証拠に当時、記事の発禁事例はたった1つだけだったといいます。ドイツでは戦時中にあった新聞社は戦後全て無くなったらしいのですが、日本の新聞社は戦後も続いています。そうした体勢の中でのマスコミと権力の関係について危惧されていました。    
 マスコミだけの課題ではないと思ったのが、被爆体験の継承です。被爆体験を実際にはできないけれど追体験をどうしていくかは社会全体の問題だと感じました。
 また私にとって新鮮だったのが「ヒロシマの感情」でした。平岡さんは「平和のために、人類を守るためにヒロシマの哀しみを乗り越えること」で、被爆者は怒りを抑圧されたのだといいます。その中から出てきた思想が「世界連邦」で、54年に広島市議会で「世界連邦都市宣言」が満場一致で決議されたのだそうです。原爆の惨状を知っているヒロシマは国家への帰属意識を失い、戦争への意識がなくなったのではないかというのです。私は広島がそのように早くから地球市民という意識を持っているとは知りませんでしたから、とても興味深いと思いました。
 しかし決して怒りがないわけではなく、アメリカが原爆投下の間違いを認め、謝罪する時、初めて「赦す」のではないかというのです。「これからは訴える平和ではなく、創り出す平和にしていくこと。かつて世界連邦都市宣言をしたヒロシマだからこそ、地球市民意識に回帰し、戦争を人類の生存を脅かすものとしてとらえ、環境問題などと連動していくことが必要なのではないか。核兵器廃絶が最終目的ではなく、人類が豊かで安心できる公平公正な世界を創ることこそ、ヒロシマの視点なのではないか」と話を締めくくりました。
 いただいた多くの資料の中に平岡さんが書かれた文章があり、そこには「ジャーナリストが人間の立場に立って世界と未来を見て仕事をするとき、いまの危機的な核状況を変える道が開ける、と私は思っている。」(核問題とメディア 被爆60年とジャーナリズムの責務 求められる人間の立場に立った報道』(新聞研究No649))と書かれていました。今回の「ヒロシマ講座」には新聞社やテレビ局などのマスコミ関係者が50人ほど参加されていました。平岡さんの意志を受けついだメディアの方々がいる限り、報道の力が衰えることはないのではないかと希望を持ちました。

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