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2009年5月

2009年5月26日 (火)

頼もしくもあり 羨ましくもあり 〜西南学院大学上映会を終えて

 学生さんの力と可能性はなんて頼もしいのだろうと、この度の上映会でつくづく感じました。そしてこのような学生さんたちが、素敵な未来を創造してくれるのだと嬉しくなりました。
 先週の土曜日、福岡にある西南学院大学で上映会がありました。今回の主催者は法律を勉強されている九州の大学数校の学生さんたちのグループFSLです。学生さん自らが企画運営しました。当日は『土の記憶』『狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から』の上映、東琢磨さん(音楽評論家、著書『ヒロシマ独立論』)との対談、その後FSLの方たちとのグループディスカッションが行われました。「打ち合わせ」から「打ち上げ」まで、学生さんたちが積極的に動き、てきぱきと進めている姿に好感を持つと同時に眩しく感じました。事前にいただいたFSL西南チームが作成した『在韓被爆者問題に関する報告書』では、歴史から始まり問題点など分かりやすくまとめられていて、熱心に調べた内容になっていました。被爆の問題は、非常に複雑で多岐に渡り奥が深く、調べれば調べるほど、簡単に考えることができないことが分かってきます。在外被爆者問題も同様で、植民地支配、被爆後の補償など、その一つ一つに膨大な課題を抱えています。私自身、全く分からない状態から少しづつ調べながら、まだまだ調べきれずにここまで来ていますが、学生さんたちも、その問題の複雑さや大きさを少しでも感じることができたのではないかと思います。僭越な言い方で申し訳ないのですが、それを感じることができただけでも、すでに在外被爆者問題を理解する一歩になったのではないかと思います。
 グループディスカッションの中で、きちんと答え切れなかった質問があったので、この場を借りてお話ししたいと思います。答えらしい答えになっていないかもしれませんが、あの場で言えなかったことです。
 学生さんから「映像の中でアメリカという言葉が出てこなったが意図はあるのか。在韓被爆者からはアメリカという言葉は出なかったのか」と質問されました。私は「(米軍による原爆投下という言葉を使うことを)意識していなかった。在韓被爆者に対して(アメリカの原爆投下に対する)気持ちを聞いていない」と答えました。もちろん私自身はアメリカの原爆投下に対しては当然、罪であり、なんらかの形で補償する責任があると思っています。原爆投下の罪に関しては、2006年7月に広島で「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」が開かれ、国際法違反で元米国大統領や米国関係者に“有罪”の判決を下し、米政府や国際司法裁判所に判決文を送っていますので、原爆投下の罪は私は明白と考えています。在韓被爆者もアメリカに対しては1963年にはソウルのアメリカ大使館に被爆者の実情を訴えるなどの行動を起こし、以後もアメリカ大統領にメッセージを送るなど行っています。ですからアメリカに対する思いが無いのではありません。
 しかし今回の映像の目的はアメリカの罪を問うものではなく、日本の植民地がもたらしたもの(在韓被爆者を描く場合、どうしても植民地支配がテーマの中心にならざるを得ません)を描いているため、原爆投下そのものについてはある意味、避けたのです。問題が膨らみすぎるからです。原爆や戦争がもたらしたものの第一は“人間”“人生”に対する被害です。ですから今回は戦後の生き様中心の証言になりました。ただし確かにご指摘の通り、アメリカによる原爆投下の文言は一言あってもいいと思いますので、それを加えようと思っています。
 “原爆”については被爆二世で考えていきたいと思っています。原爆について考えることは長く複雑な道のりで、困難を極めるものになるのは必至です。今の私には簡単に原爆について語る術を持っていません。しかし私は原爆について考えることは過去を考えることではなく、未来を考えることだと思っています。昨日の25日、北朝鮮が核実験を行いました。もし核爆弾が日本の上で使用されたら、被爆者は私自身になります。原爆の被害者の方たちは、未来の私の姿になるのです。そうならないように、そして被爆者の方たちがこれ以上に苦しまないように、原爆や戦争について知ることが大事だと思い映像制作を続けています。今回のように学生さんたちが自ら企画し運営する中で、何か一つでも原爆について行動しようと思うことがあれば、それは核を持たない国・日本を継続させる大きな力となり、世界から核を無くす一助になることと信じています。
 この度は色々な出会いもあり、とても有意義な時間を過ごすことができました。皆さん、本当にありがとうございました。

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2009年5月20日 (水)

日本兵として被爆した韓国人Kさん 半生を語る

 「私は日本に足を向けて寝られないですよ。恩人がたくさんいるから。だからいつも中国に足を向けて寝ているんです」。在韓被爆者Kさんの講演会はジョークで始まりました。先週土曜日、在韓被爆者のKさんが来広し、広島平和記念資料館で講演会がありました。マスコミや被爆者運動関係者の関心も高く、会場には80人ほどが集まり、Kさんの話しに耳を傾けました。
 Kさんは徴兵制適用の第一期生として入隊し広島にやってきました。1944年9月のことでした。被爆の時、背中に大やけどを負いました。直後の光景は地獄のようなありさまだったといいます。水を欲しがった人にあげなかったことを今でも後悔しているようでした。陸軍病院の分院となった学校に行き、手当を受けましたが2日間昏睡状態になりました。そこでは毎日、何十人という人が亡くなっていました。自分も死ぬかもしれないという不安の中、なんとか持ち直し15日、日本の敗戦を知ります。「韓国が独立できた」と感激し涙が出たといいます。その年の9月に帰国。徴兵されてから1年目のことでした。韓日の国交が正常化になり、日本に行きたいという思いが強まり、67年、広島にやってきました。「綺麗な広島になっていた。天と地の差だった」と当時を振り返ります。そして日本で原爆の実態や被爆者運動について知り、韓国に戻ったKさんは韓国原爆被害者協会の創立に尽力を注いだのです。
 Sさんの被爆者健康手帳の裁判、Kさんの手当裁判を経て、ようやく在外被爆者へ日本の援護の手が行くようになりましたが、課題がなくなったわけではありません。被爆者健康手帳を持っていない被爆者への政治的解決、原爆症の認定、医療費の上限撤廃など、一番必要としている被爆者へ援護が行き届いていない状況はまだ続いているのです。韓日併合から100年にあたる来年、Kさんは何か行事をしたいと話していました。「忘れるものは忘れて、追求することと区別してやっていきましょう」という言葉でKさんの話しは終わりました。
 植民地がどういうことなのか分からないまま子ども時代を過ごし、日本人から差別を受けながら学生時代を過ごしたKさん。日本人より優秀な日本人にならなければと、勉強も運動も頑張ったといいます。日韓関係や在日コリアンの方たちとの関係など、韓日併合した100年前の日本と現在の日本はどこが変わったのか。何をして、何をしてこなかったのか。100年経った今だから見えてくるものがあると思います。日韓が友好してつきあっていくために、過去を見つめ直す作業は大事なことの一つです。それには両方からの視点と確かな検証が重要であることはいうまでもありません。

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2009年5月12日 (火)

『狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から』上映会のお知らせ

 2作目『狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から』の上映会を今月から来月にかけて3箇所で行っていただけることになりました。お近くにお寄りの際は立ち寄ってご覧いただきたいと思います。東京以外は私も会場に参りますので、お声をかけていただけると嬉しいです。


●韓国のヒロシマ —「在韓被爆者」と出会ってー
        
日時:5月23日(土)13時〜17時 (12時30分開場)
場所:西南学院大学(福岡市早良区西新)
    西南コミュニティーセンター・ホール
料金:学生=無料
   一般=カンパの要請あり

○伊藤園実作品上映
 http://sonomi-ito.cocolog-nifty.com/
 1)「土の記憶」   
 2)「狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から」
○講演 伊藤園実
○対談 伊藤園実
    & 東琢磨さん(音楽評論家、著書『ヒロシマ独立論』)


●在韓被爆者渡日治療広島委員会総会
日時:5月30日(土)14時〜16時30分
場所:広島YWCA(中区大手町4-3-10) 電話082-241-5313
内容〜在韓被爆者渡日治療広島委員会2009年総会、「狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から」上映会


●「狂夏の烙印 在韓被爆者になった日から」上映会
日時:6月27日(土)14時30分 開場 15時 開始
場所:豊島勤労福祉会館第三・四会議室(豊島区西池袋2-37-4) 電話03-3980-3131
資料代 500円 


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2009年5月 8日 (金)

“普通の人・普通の生活”から見た戦争〜こうの史代・作『この世界の片隅に』

 広島出身の漫画家こうの史代さんの『この世界の片隅に 下』が書店に並び始めました。上・中と読んでいたので早速購入しました。こうの史代さんは『夕凪の街 桜の国』でヒロシマを描いていますが、今回も軍都廣島・軍都呉を描いています。戦下で生きる“普通の人・普通の生活”を描いたこの作品は、誰もが読むに値する漫画だと思います。
 時代は昭和9年から始まります。主人公・すずは広島市内に住むマンガを描くことが大好きな“普通の女の子”。両親や兄妹たちに囲まれ“戦下で平凡”に暮らしています。幼なじみに淡い恋心を抱きながらも、ある時、親の言いなりで相手を知らないまま呉に嫁いでいきます。夫は海軍に勤める大人しくて優しい男性。夫の両親、未亡人の小姑とその子ども(姪)たちと慣れない呉で新婚生活を始めます。話が中、下へ進むにつれ、戦渦もひどくなっていきます。戦場へ行く初恋の男性との別れ、入隊した兄の死、時限爆弾により失ってしまった右手と姪、そして原爆投下による両親の死。“普通”のすずの暮らしに戦争の惨事が次々と降りかかります。その中で、すずは自分の環境(状況)を受け入れ、優しく生きていきます。
 こうの史代さんが描いた戦中の生活は、誰でも理解できるように分かりやすく楽しく描かれていて「当時はこんな感じだったのだろうなあ」と思わされます。戦中の小さな楽しみや、苦しい生活の中での喜びも描くことでリアリティを感じましたし、今生きている私たちに通じる思いもありました。しかし主人公の“愛する人たち”や“普通の楽しみ”が奪われてしまう原因は全て戦争のせいです。主人公のような悲劇は戦争が起きた、あるいは起こっている地域では誰でも経験する“ごく普通の生活”の中の一こまだと思います。“普通の生活者”である主人公すずを通して、読者は戦争の恐ろしさは生活の中にあることに気づかされるのです。そして“普通”とは何なのか、あらためて私たちは考えさせられるのです。
 この漫画を読んで“優しさ”は“逞しさ”なのだと感じました。この優しさは作者こうの史代さんに由来するものと思われますが、“優しさ(“愛”と換えてもいいと思います)”が、“強さ”や“希望”を生み出すのだということを、“普通の人”の“普通の生活”の中から描き出したことに拍手を送りたいと思います。作品中の象徴的な場面を2つご紹介して今日はここまで。
・主人公が戦場へ向かう初恋の相手と別れるシーンで、初恋の相手が主人公にこう言います。「すずがここで家を守るんも わしが青葉(※注 軍艦の名前)で国を守るんも 同じだけ当たり前の営みじゃ そう思うてずうっとこの世界で普通で・・・まともで居ってくれ わしが死んでも一緒くたに英霊にして拝まんでくれ 笑うてわしを思い出してくれ それが出来んようなら忘れてくれ」
・玉音放送後、主人公が敗戦を受け入れられずにこう叫びながら泣きじゃくります。「飛び去っていく この国から正義が飛び去っていく (テグッキが翻るコマを見て)ああ暴力で従えとったいう事か じゃけえ暴力に屈するという事かね それがこの国の正体かね うちも知らんまま 死にたかったなあ・・・」


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2009年5月 1日 (金)

創作活動とその思い

 NHK・BSで蔵出し劇場『あの人からのメッセージ』という番組があり、とてもいい内容だということで、友人がDVDを送ってくれました。「入江泰吉と杉本健吉」「丸木夫妻と土本典昭」を取り上げた2本の番組でした。
 「入江泰吉と杉本健吉」の回は“友情”をテーマにお二人の同志とも思えるような創作への思いが描かれていました。奈良に魅せられたお二人は互いが41歳の時に出会ったのですが、終生その友情が変わることはなかったといいます。「万葉の大和」の風景を写真に映し出した入江さんは「電線や人物、電柱などは入れていない。写真で現代に引き戻さないようにしている」と語り、近代化する奈良をありのまま受け入れた杉本さんは「電線があるから近代なのだ。空き瓶もあったほうがいい」と対照的な言葉を語ります。しかしそんなお二人には共通の価値観があります。それは“見(通い)続けること”です。「積み重ねるうちに相手から教えられるものがある。対話から生じる知識である。それには年数がかかる。いいものを撮ることではなくて、撮り続けることが写真家としての生き甲斐だ」と入江さんは語り、一方、杉本さんは「僕には推敲の余地がない。悔しいけど描き直さなきゃならん。長生きが目的じゃない。絵を描くのが目的で長生きする」と語ります。“感激”が創造の源というお二人は、長く見続けた結果の“感激”の風景や景色だったのでしょう。そうして生まれた作品だからこそ今も私たちに刺激や感動を与え続けるものとなっていますし、後世の人にも影響を与えることとなるに違いないのです。ちなみに“奈良”の“ナラ”は韓国語で“国”という意味。朝鮮半島との深いつながりを感じます。
 「丸木夫妻と土本典昭」の回は“原爆”“水俣”という社会問題をテーマに創作活動をした作家たちの“原点”を描いた内容でした。
 丸木ご夫妻は身内を捜しに原爆投下後の広島に来て1月間ほど滞在したそうです。あまりに悲惨な状況に「この現実を記録しよう」としましたが、この間、描いた絵はわずか2枚だったといいます。プレスコードがしかれる中「(原爆を)うやむやにするわけにはいかない」「描きたいものを描こう。悲しいものは悲しく。悔しいものは悔しく」と原爆を描き始めたのは広島から戻ってきて3年目のことだったのだそうです。『原爆の図』で被爆の状況を知った人々もいたといいますから、当時いかに原爆投下が隠されていたかが分かりますが、「リアルすぎるという人もいたが、被爆者からもっとひどい様子だった。娘が遭った悲惨な様子をなぜ描かないのかと言われ、これ1枚だけではダメだと思った」と丸木俊さんは語ります。そして15部作を描きました。丸木夫婦の『原爆の図』は見たことがありましたが、今回ご夫妻の肉声に触れることで、作品が持つ力強い魂の源が見えたような気がしました。
 軍国少年だった土本さんは敗戦後、戦争の真相を告げられなかった悔しさから記録映画の道に進んだと言います。歴史的事件の爪痕を残さなければいけないと40年間、不知火の海に通い続け17本の映画を製作しました。こだわったのは当事者と会うこと。「祈ることは誰も思いつくが、誰のために祈るのか、記憶すべき人は誰なのか、目の前に掴みだしたい。誤ったことをしたら二度とやらない。そういう誠実な人間関係があれば、問題も早く明らかになる」という言葉は、どんな場合にも当てはめることが出来ると思います。
 丸木ご夫妻と土本さんの創作活動(仕事)の源は丸木俊さんの言葉が語り尽くしています。「どんなに打ちのめされても人間という誇りがある」。歴史の事実を記憶すること、それは“人間を描くこと”なのだということを教えてもらったような気がします。

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