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2009年2月

2009年2月26日 (木)

対馬旅行記② コグマのルーツは対馬?!

 「対馬の人間は韓国に対して本土とは違った親近感があります」とある方がおっしゃいました。島の2つの港からは釜山港まで船が毎日のように就航し、最短で1時間20分です。福岡まで約4時間ですから、釜山は隣町に行くような感覚なのだと思います。韓国の方が来るだけでなく、対馬の方が釜山に買い物に行ったり、映画を見に行ったりしていると聞きました。「長崎の出島が日本での海外貿易の場所というけれど、対馬だって同じようにやっていましたよ」と対馬の方々は口を揃えておっしゃいます。対馬は本土と朝鮮半島を結ぶ交易拠点として重要な役割を担ってきました。また稲作がしにくい対馬で、対馬の海産物を韓国の米と換えるなど対馬の人々にとっても朝鮮半島は大きな交易相手だったのです。
 島内の道路に設置された看板にはハングル文字が書かれています。厳原町には朝鮮通信使が通った際の資料館や宿泊施設などが残り、“唐人町”という地名も残っています。対馬と韓国は近くて近い国なのだと感じます。そんなエピソードをご紹介。
 韓国ではサツマイモのことを“コグマ”と言います。この語源が対馬にあるというのです。対馬では救荒作物として入ってきたサツマイモを“孝行芋(こうこいも)”と呼んでいます。それが朝鮮通信使などを通じて韓国に渡り“コグマ”になったというのです。また対馬の方言で“友達”ことを“チングイ”というようですが、これは韓国語の“チング(友達)”そのままです。畑を耕すことを意味する“パル”も韓国語“パダ(掘る)”からきているのではないかと言われているようです。
 微笑ましいエピソードをもう一つ。ある時、韓国からお嫁さんをもらう事になった対馬の男性が「嫁ぎ先は長崎県」だと言って連れてきたのだそうです。韓国人のお嫁さんが「異国に行く」と楽しみにして来てみたら、よく知っている土地(対馬)だったというのです。韓国の方にとっても対馬は外国というイメージではないようです。
 言葉や町名(唐人町など)などは日本各地でも感じられることだと思います。今も使われている日本語に韓国語が混じっていることや、お寺の本尊などが韓国の仏像と同じ形であること、陶芸などの芸術も韓国から来た方々によって広がっていったことなど、日本の原風景の中に朝鮮半島の面影を見るとき、切っても切れないつながりを感じます。対馬の方のように、日本人が朝鮮半島に対して「他の国とは違った親近感を覚える」とき、今よりもっと素敵な日韓関係が築けるのではないかと思いながら、対馬を後にしました。

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2009年2月25日 (水)

対馬旅行記① 国境を持つ島の仕事

 3泊4日で対馬から帰ってきました。初日は天気が悪かったのですが、翌日からは晴れました。島の北から南まで80kmぐらいあるそうですが、豊かな自然の中、縦断してきました。対馬から釜山まで近い場所では50kmほどしか離れておらず、天気がいい日には釜山が見えるようです。古くから続いている朝鮮半島との交流の歴史に触れ、国境の島が持つ大きくて深い役割を知りました。
 初日の雨はある意味、いい経験でした。というのも日本から韓国へ帰国する際、台風などで帰ることができなかった方々の状況を、僅かばかりですが知ることができたからです。この日は強い風が吹き、時化ていたため漁船は出ていませんでしたが、私たちは沖合の小島に行くために船に乗りました。乗せてくださった船は6人乗りで、かなり揺れました。泳げない私は多少不安になりました。海難事故で帰国できなかった朝鮮半島の人々は大勢います。もちろん反対に韓国から日本に帰国する日本人も同じだったと思います。当時、帰国がいかに命がけだったのか、波にゆられながら思いを馳せました。
 1945年の9月、大きな2つの台風が対馬を襲い、日本から韓国への帰国船が難破しました。船に乗っていた大勢の朝鮮半島の方々が死亡し、生存者は僅かだったと言います。北部にある小島に遺体がたくさん流れ着き、その時救助や遺体処理にあたられた方とお会いしました。その方は今でも、この場所に来ると当時のことを思い出すのだそうです。状況を鮮明に覚えておられ、私たちを案内しながら「ここで遺体を発見した」「ここが遺体を焼いた場所」と指さしながら説明してくださいました。日本に移り住み家族で帰国する途中だったのでしょう。遭難した方々は子どもや女性もいたといいます。遺体を火葬した場所の岩は赤く変色したままの状態になっていました。怖かったことでしょう。苦しかったことでしょう。母国を目前にして息絶えた方々の無念はいかばかりだったのかと思うと、胸がつまりました。その時の遺骨は対馬から東京に移され、今も帰国できないでいます。
 対馬の北部などでは頻繁に遺体が流れ着くようです。韓国から流れてくることも多く、その都度、地元の方は手厚く葬っておられました。対馬の方々にとって海で亡くなった方への思いはひとしおのものがあるようです。漁師の方が海上で遺体を発見し、行方を見守っているうちに韓国の領海に入ってしまい拿捕されてしまったという話しも聞きました。「母国にお返ししたいけれど身元が分からないので」と、遺骨を保管しているお寺の住職はとても残念そうに話されていました。韓国の方と思われる遺骨は、お寺などに無縁仏として葬られています。
 陸にも海にも国境はありますが、潮の流れを国境で遮ることはできません。対馬の方々のご苦労と思いに頼るだけではいけないと思いました。韓国人の遺骨をそのままにしていいのでしょうか。柔軟な日韓の話し合いが必要だと強く感じました。

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2009年2月18日 (水)

対馬に行きます。

 今日から対馬に向かいます。対馬は朝鮮通信使も立ち寄っている島で、古くから日本と朝鮮半島との架け橋になっているところです。広島の元三菱徴用工が船で帰国する際、枕崎台風の被害に遭い、遺体が流れついたのではないかと考えられています。また知り合いの在韓被爆者の方が、馬山から闇の船で日本に渡ろうとした際、警察に捕まり保護された場所も対馬でした。多少なりとも広島と縁がある場所です。
 このたびは韓国の真相究明委員会の方の聞き取りに同行させていただきます。広島の元三菱徴用工の取材です。元三菱徴用工の遺骨発掘調査の際に直接関わった方はどなたも存命ではないようですが、当時のことを知る方々にお話しをお聞きする予定です。今回はいわゆる人の褌で相撲をとる恰好になるので、どうなるか全く検討がつきません。このような取材旅行は初めてですが、対岸に韓国を眺めながら、三菱徴用工などの強制連行や朝鮮半島と日本との関係など、改めて考えてみるにはいい機会だと思っています。私にとって、ここから第一歩になりそうな気がします。帰ったらご報告します。では行って参ります。

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2009年2月 9日 (月)

御礼!「狂夏の烙印」上映会終わりました。

 日曜の夜にも関わらず、昨日の上映会に60人くらいの方が見に来てくださいました。誠にありがとうございました。皆さんとても好意的に見てくださり、元気をいただきました。しかし音声など、調整しなければいけない部分も出てきました。これからも頑張りますので、温かく見守っていただければ幸いです。会場でいただいたアンケートを一部ご紹介させていただきます。作品や会場の雰囲気が伝われば嬉しいです。

・へんにかまえず、フツーの人の視線で撮影されているのがとても良かったです。在韓被爆者のこと、忘れてはいけないんですよね。
・ヒロシマ学習に対して(中略)、平和公園の韓国人慰霊碑について語りうる知識が増えました。
・50代なので、広島で生まれ育っても戦争も被爆も直接経験がありませんが、私たち世代が歴史を継いでいかないといけないと思います。
・これからも韓国から見た目で撮りあげてください。
・会場に若い参加者が少ないのが残念でした。
・おそらくは「普通の人」として生まれ、育ったにもかかわらず、「被爆者」としての烙印をおされてしまった人々の姿を描かれようとしているのだと思います。「被爆者」というとどこか別世界の人という印象を抱かれがちなだけに、とても大切な視点だと思いました。
・韓国人被爆者の記録はいくら残しても足りないと思います。
・ヒロシマの記録として語られていない朝鮮人被爆者の実態をはじめて知り、おどろきました。特に北朝鮮での被爆者の実態はまったく明かされていません。このことにも非常に驚きました。
・在韓被爆者の手帳交付の問題を身近に感じることができました。
・在韓被爆者の問題が韓国ではどれ位認識されているのだろうかが気になりました。どうすればもっと日本で在韓の人のことが理解されるようになるのか。大きな問題が心に残りました。


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2009年2月 3日 (火)

ブラジルに移民した被爆者

 先週の土曜日、広島平和記念資料館でブラジル移民した被爆者・森田さんの講演会「森田さん半生を語る」があり、行って来ました。84歳でピースボートに乗り、世界一周をしてこられたので、その帰国報告もされました。話の中に「生かされている」という言葉が頻繁に使われていました。被爆者の方からこの言葉を聞くと、私は胸が痛みますが「次代の若者に平和の尊さを伝えることを誓います」と力強い言葉で締めくくり、逆に私たちを元気づけてくださいました。
 また蛇足ですが、会場には沼田鈴子さんも見えていました。久しぶりのお姿に皆さんかけより、あっという間に人だかりができていました。今回は森田さんのお話しを少しですがご紹介します。

☆森田さん(ブラジル被爆者平和協会会長)のお話し:
1924年に広島で生まれた。両親は北米に移住していたが、広島に帰郷した時に自分が生まれた。13歳から時計屋に奉公したが、軍国青年だったので、憲兵に志願して東京の学校に行った。昭和20年に卒業し、8月1日に広島に来た。東京から広島まで来る途中、汽車から見た景色はどこの駅も破壊しつくされていた。しかし広島に着いて、その姿が変わっていないのに驚いた。8月6日、比治山の防空壕を掘りに行く途中で被爆した。何が起こったのか分からない状態だった。目の前の建物が瞬間的に潰れ、火の海になっていた。火傷をしながら市内に入った。無惨な状況だった。呉から来た練兵隊から落とされたのは「原子爆弾」だと聞かされた。被爆者の救助に当たった。2日間ほど飲まず食わずで救助した。しかし自分も火傷をしていたので大野町の陸軍病院に入院することになった。枕崎台風が来る前日、自分は退院したが、翌日の枕崎台風で土砂が崩れ、病院にいた人はみな死亡してしまった。戦後は広島市内で時計屋を営んだ。しかし1年後にぶらぶら病が出てきた。白血球が増えて寝込んだのだ。しかし愛する家族がいるお陰で「どうしても生きたい」という希望があった。ある日、ブラジル移民のお年寄り夫婦が店に来て「ブラジルはいい所だ。サンパウロは高原で被爆者にはいい気候だろう」と誘われた。呼び寄せ移民というのがあり、その老夫婦は私たちを呼んでくれた。書類が出来た時、家族は反対したが、自分はどうしても行きたいと決心した。嫌がる家族を説き伏せてサンパウロに行った。戦後11年目のことだった。被爆者援護法など、まだない時分だった。神戸港から出発した。リオデジャネイロの港に着いた時、帰りたくなった。臭かったのだ。後進国だと感じた。呼んでくれた老夫婦はスラムに住んでいた。言葉は分からず異国で苦痛を味わった。しかし日本に帰りたいことを口に出すまいと思って生きてきた。妻の協力は何より嬉しかった。ブラジルでも時計の仕事に就くことができ、地道に生活してきた。子どもも大学まで行かせた。ある時、被爆者が大勢、南米にいることを知った。そこで1984年に在ブラジル被爆者協会を設立した。27人が会員になった。協会ができて29年目、80名に増えた会員の名簿を持って来日した。厚生省に行くと開口一番「日本を出て外国に行ったのじゃあないか。今さら日本に何をいうのか。税金も払ってないじゃないか」と言われた。あの冷たい態度は今も忘れない。このたび会名をあらためた。「ブラジル被爆者平和協会」にした。今まで小学校から大学まで証言をしている。今後も被爆者証言を行っていくつもりだ。昨年は移民100周年でサンパウロでも原爆展を開いた。大きな成果だった。今回、ピースボートで世界を回り、あまりにも原爆のことを知らないのに驚いた。若い人には過去の話しとしてではなく、核の恐ろしさ、放射能の怖さを伝えていきたい。

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