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2008年12月

2008年12月26日 (金)

2作目制作中です

 現在、2作目の編集作業中で、来年早々には完成させたいと思って頑張っています。今まで撮り貯めていた映像を集めて作品にします。テーマは「在韓被爆者1世の戦後」です。2003年から在韓被爆者を支援する団体でお世話になり、多少ではありますが、在韓被爆者の方々の苦労を見聞きしてきました。年に最低1回は韓国に行き、被爆者の方々にお会いしてきました。広島に来る被爆者健康手帳の取得や各種手当ての申請の手伝いなど、韓国の被爆者の方と関わるたびに、帰国後の苦労を日本人として知るべきではないかと思うようになりました。なぜなら、植民地にしなければ日本に来ることはなかった方々であり、被爆者として当然受け取れる権利を持っていながら日本から受けられなかったからです。
 ある方は「日本の韓国への差別意識が支援を遅らせた」と語ります。日本や行政に対する在韓被爆者たちの裁判を見ると、そう言われても反論できないと思います。在外被爆者が手帳を取得し、各種手当てを受けられるのも全て裁判で勝ち得た結果だからです。在外にいても日本にいる被爆者と同じように援護を受けられるようになったのは2003年からです。それまでは日本に来なければ被爆者援護は受けられなかったのです。被爆者として当然受けられるべき援護を受けずに、裁判中に死亡した被爆者はたくさんいます。もしもっと早くに国が「被爆者はどこにいても被爆者」という判断をしていたら、状況は変わっていたはずです。医療費が出たら、各種手当が出たら、病院に通うことができ治療もできたでしょう。死ななくてもいい被爆者がたくさんいた可能性は高いのです。アメリカが落とした原爆の被害は広島と長崎以外にはないということは自明の理なのですから。
 現在製作中の作品は在韓被爆者の方々の証言で構成しています。なぜ広島に来たのか、なぜ帰国したのか、帰国後どういう生活を送っていたのか。在韓被爆者の方の中でも、ごく一般的な話が中心です。私がお会いしお聞きした話の中でよく聞いた内容を元に選んでいます。特別な話しも重要ですが、在韓被爆者の方が見て「当時はそうだった」と納得していただきたいからです。今のところ8人ほどの被爆者のお話をまとめようと思っています。実は映像に収めている方はもっと多いのですが、今回は帰国後について紹介したかったため、絞らせていただきました。私が帰国後にこだわるのは、広島にいた時よりさらに苦労をされているからです。戦争というのは終戦になったからといって、人々から苦しみを全て取り除くわけではありません。特に被爆者は放射能の影響からくる心身への苦痛から生活苦を強いられ、さらには差別などの社会的苦痛も味わっています。韓国語を話せない方々も当時はたくさんいました。私は学校に行っていない方はもちろんのこと、文字の読み書きができない在韓被爆者を数多く見ています。日本にいる被爆者も差別はあったと思いますが、韓国の被爆者は加えて「日本帰り」という差別にも遭っていたのです。その苦痛は図りしれません。
 「戦争は今も続いている」当たり前のように言われ続けている言葉を私は在韓被爆者の方々を通して実感しました。戦後補償なしには終戦は迎えられないからです。そして日本の在韓被爆者への対応を見るにつけ、日本の国の姿が見えてくるような気がするのです。

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2008年12月19日 (金)

平和記念資料館の展示内容見直し

 今朝の朝日新聞に平和記念資料館東館の展示内容を見直し、「軍都」部分を大幅に縮小する方針になりそうだという記事が掲載されていました。入館者が「軍都」部分に時間をとられ、被爆の悲惨さが薄れるということを理由にあげていました。ハッキリした年は分かりませんが以前にも展示見直しがあり、その際に「軍都」部分を拡張し、朝鮮人や中国人の強制連行などが取り入れられたということを聞いたことがあります。それは歴史認識という観点からも必要だと思いますが、それが今回の見直しで逆戻りしてしまい、戦争の実相が見えにくくなるのではないかと心配です。
 広島に来て間もない頃の話ですが、平和記念資料館を訪れた韓国人の方から「資料館では朝鮮人の強制連行や日本の侵略戦争について殆ど触れていない。自分たち日本人ばかりが被害者だといわんばかりの展示に怒りすら覚えた」という声を数人から聞いたことがありました。その時はまだ広島と朝鮮半島の関係についてのドキュメンタリー映画を制作するという気持ちすらなかったので、正直、話している意味がぴんときませんでした。ただ展示について不快に感じていることだけは理解できました。しかし今は軍都廣島はやはり欠かすことのできない部分であると感じます。それは資料館を訪れるアジアの方々のためだけではなく、ヒロシマのためにも必要ではないかと思うからです。
 それはまず「原爆投下の理由が今だに公表されていない」ということが大きくあげられます。新聞記事を読むと「軍都だから原爆を落とされたと短絡視される恐れがある」ということを、有識者検討委員会で主張された方がいらっしゃったようですが、被爆以後からの歴史を説明されると「なぜ廣島、長崎に原爆が落とされたのか」という理由を考える手だてがなくなります。まず被爆前がどういう状況だったのかを説明するのはしごく当然のことです。当時、廣島以外にも飛行機の製造など重要な軍事拠点は日本各地にたくさんありました。仮にもし戦艦を狙うなら目標は「廣島」ではなく「呉」の方がいいのです。実際、呉は空襲がありましたが、「廣島は軍都だったから原爆が落とされたのか」とアメリカに疑問を呈することこそが必要なのではないでしょうか。アメリカやアジアなどで「原爆を落としたから戦争が早く終わった」という風潮があるのは事実です。それは本当なのか。それなら、なぜ長崎にも原爆投下が必要だったのか。2発目の意味は何なのか。「原爆投下の真実」を見つけるために一つ一つ検証していくことが重要なことだと思いますし、そのためには歴史が必要です。
 また被爆以前の「なぜ軍都廣島になったのか」「軍都廣島で何が起こっていたのか」は被爆後の被害のことを考える上で非常に重要です。雑ぱくに言うと、そもそも廣島は産業が少なかったため、軍都に名乗りを上げました。しかし軍都になったのはいいけれど兵隊などに男手がとられ、働き手がいなくなってしまった。そこで朝鮮半島などから労働力を求めたのです。10人に1人以上いたという朝鮮人被爆者はこうして誕生しました。もちろんアメリカ人などの捕虜や留学生もいました。被害者は日本人だけではなく、日本だけの被害に留まらなかったことを認識することが大切だと思います。
 また戦後、広島からは南米移民を多く出しました。被爆者すら移民せざるを得ない状況は、軍都廣島になった時の状況と同じだったのではないでしょうか。戦後、被爆者がどれだけ心身共に苦しんでいるのかは毎年繰り返される報道などで日本にいる方ならよくご存知のはずです。国外にいた被爆者は日本の援護策を何十年にも渡って受けることなく、被爆の苦しみにもだえながら暮らしてきたのです。原爆を落とした側であるアメリカの方たちにも知ってもらいたい事実です。
 もちろん「たった1発の原爆で都市が一瞬にして消えたこと」を見せ伝えることは重要です。原爆が大量破壊兵器以外の何ものでもありませんし、もう2度と使ってほしくないからです。しかし私は「原因」と「その後」も伝えることで、今も続く「ヒロシマ・ナガサキの悲惨さ」を訴え、「戦争の恐ろしい姿」「原爆の醜い真実」を知ることになるのではないかと思います。

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2008年12月12日 (金)

嬉しいニュースです。在外から原爆手帳の申請ができるようになりました。

 改正被爆者援護法により来週月曜日の15日から、国外からでも被爆者健康手帳(通称・原爆手帳)の申請が出来るようになりました。これで重病などのため来日できなかった被爆者に、大きな負担をかけることなく原爆手帳が発行され、各種手当てなども受け取れるようになりました。ようやく一番必要な被爆者に援護が届くようになったのです。
 しかしこれで問題が全て解決したという訳ではありません。まず原爆手帳の申請には証人が必要です。この証人を探すのがどれだけ困難なことか。広島や長崎に当時住んでいたという証拠(例えば戸籍謄本など)の他に、被爆時に確かに被爆地にいたという第三者の証言が必要です。被爆地に住まいがあっても、どこかへ行っていて被爆していない可能性もあるからです。逆に他地域から、たまたま被爆時に来てしまったという方もいます。加えて家族や親戚などを捜すために他地域から被爆地に入った「入市被爆者」もいます。こうした方達は、被爆当日もしくは被爆後に入市した事実を証明するために、証人を探さなければいけません。消滅してしまった町中をぐるぐると探し回る人を誰が覚えているでしょうか。救援する人、被災者、探し回る人たちで大混乱していたのですから、証人を探し出すのは至難の業です。アメリカに住む入市被爆者で、証人がとれないので原爆手帳の申請ができないという話を聞いたことがあります。恐らく韓国の被爆者の中にも同じような状況の方たちは大勢いるに違いありません。また幼い時に被爆した方はすでに両親が死亡し、自身も記憶がない場合が多くあります。直接被爆にしても入市被爆にしても、それらを証明するには今となってはかなり難しいことになってしまっているのです。
 また申請には大変多くの書類を書かなければいけません。何度かお手伝いしている私でも人に聞きながら書くような状況ですから、ましてや初めての方には提出しなければいけない書類を集めるだけでも大変な作業になります。書類がない場合には「申述書」などを書いて出すのですが、そのことを知らなければ、被爆前後の状況(なぜそこに居たのか。なぜ今まで申請しなかったのかなど)が理解されにくい場合もあります。書類不備の状態で提出すると棚上げになる可能性も考えられます。一刻も早く手帳がほしくても何年経っても受け取れないこともあるかもしれないのです。現在でさえ申請してから発行まで1年以上かかる場合も多いのですから、最悪の場合、申請しても手帳を受け取れずに亡くなってしまうことが十分に予想できるのです。
 まだまだ不安は残りますが、とにかく日本国外からの原爆手帳申請は在外被爆者にとっては念願であったので嬉しいニュースです。今日付けの中国新聞には釜山在住の女性が16日にも釜山の日本総領事館に申請するという記事が載っていました。一刻も早く原爆手帳が取得できて、1日でも多く日本の援護が届くよう願ってやみません。


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2008年12月 5日 (金)

死んでも闘う!今日、在韓被爆者集団提訴

 今日、在韓被爆者が集団(計約390人)で広島、大阪、長崎の各地裁に提訴しました。国に対して一人あたり120万円の慰謝料を請求したのです。三菱広島元徴用工裁判で国は原告に対し、被爆者でありながら戦後放置していたことに対し120万円の慰謝料を支払いました。そこで在韓被爆者は自分たちも同じ状況にあるために、慰謝料の支払いを要求したのです。厚労省は支払いを検討しましたが、結局、裁判することを被爆者に要求しました。
 在韓被爆者の原告代表として広島に来られた韓国原爆被害者協会金龍吉会長は「今日のような裁判をせざるを得ないことを遺憾に思っている。日本政府に対して告訴せずにしようと努力してきた。今年8月11日、厚労省と交渉した際、三菱の最高裁判決に基づいて、自分たちも同様に慰謝料を払ってほしい、同じ事で裁判したくないと伝えた。8月29日までに時間が欲しいというので待っていると29日、書面ではなく、第三者を通じて口頭で返事がかえってきた。そこで仕方なく提訴することになった」と重苦しい口調で話していました。
 そして「今回は1次提訴で年齢順にした。今後、協会の会員全員と被爆者遺族が順次提訴する予定だ。今回の原告には90歳越えた人も居て、80歳代が多い。在韓被爆者は死が目の前に来ている。日本政府は病気の被爆者が亡くなるのを待っている。しかし被爆者も死ぬ覚悟で、死んでも子どもたちに引き継いで裁判を続ける覚悟で今回の提訴に踏み切った」と日本政府に対して強い憤りを訴えていました。すでにアメリカ、ブラジルの被爆者は同様の裁判を起こしています。在韓被爆者は人数が多く高齢で病身の方が多いため、準備が大変で、今日、満を持しての提訴となったのです。
 提訴後の報告会で弁護士の方から驚く話が飛び出しました。和解には条件があるというのです。私が聞いていた時点では、厚労省が「裁判をすれば和解できるだろう」と回答していたことから、厚労省側もすぐにでも和解するというニュアンスで話しているものだとばかり思って聞いていました。ですから私は裁判を起こしたら、簡単に慰謝料を支払うものだと思っていたのです。しかし「1・被爆者の立証。2・402号通達で損害を被った因果関係、つまり認識していたかどうか。3・在外にいたことの証明。4・精神的苦痛を明らかにせよ。」の4つが確認できなければ和解には応じられないというのです。
 「立証する条件を言ってくること自体がおかしい。」と弁護士の方は話していました。そうなのです。在韓被爆者は元三菱広島徴用工と全く同じ立場であるにも関わらず厚労省は立証を求めたのです。「(和解まで)時間がどれくらいかかるかわからない」と最後に弁護士の方が話していた言葉に裁判の影がちらりと見えたような気がしました。「また裁判をせざるを得ない政府に対する怒りはどれくらいか。人道主義的な面から見てもひどい。日本政府は時間稼ぎせず早い和解を望む」怒りを堪えきれない様子で声高に訴えた金会長の言葉に、日本人として情けない気持ちになりました。


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