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2008年11月

2008年11月30日 (日)

北海道に生まれたこと

 祖父の生まれ育ちは愛知県で、先祖代々続いた家でした。そんな祖父が北海道に来たのは戦争と深い関わりがあったかもしれません。帰省した際、親から聞いた話です。
 祖父と祖母、親たち兄弟は1945(昭和20)年8月15日を青森で迎えました。北海道の開拓団の一員として向かう途中でした。そこで玉音放送を聞いたようです。祖父は1925(大正14)年、いわゆる日中戦争が始まる前に陸軍の第15師団の輜重兵として入営しました。1928(昭和3)年に済州島を経由して6月に青島上陸。中国内陸部に行ったようです。そしてその年の8月には日本に戻って来ました。行くときは大阪港から出発したようですが、帰りは広島港でした。恐らく検疫するため似島に寄ったのでしょう。祖父が広島に来たことがあることを初めて知りました。帰国後、愛知県の地元に戻った祖父は教員をし、同じ教員仲間の祖母と家庭を持ちました。
 日中戦争、アジア太平洋戦争が勃発し、戦争は激化の一途をたどります。そんな中、空襲で町が焼かれてしまい、祖父は一大決心をします。北海道の開拓団として安土桃山時代から続いた家から出ることでした。祖父は3人兄弟の末っ子で男は一人しか居ません。恐らく姉たちからは猛反対にあったと思うのですが、それでも妻と自分の子どもたちと一緒に北海道に渡ることにしたのです。実は祖父は召集令状を受けていました。しかし北海道開拓団として入植する者は兵役が免除されたというのです。自分はもちろん周囲にも農業経験者はいません。しかし祖父は山間地域の開拓の道を選びました。入植後試行錯誤しますが、やはりうまくいかず、結局は教員となり定年まで勤め、北海道で生涯を終えました。
 祖父が中国の戦場で何を見て、何をしてきたのかは今となっては家族は知りようがありません。親も戦争の話は聞いたことがないと言っていました。しかし慣れない開拓、農業をするために北海道に来た理由の一つは、戦争に行きたくなかったからではないかと親は言うのです。今、生きている方々には誰にでも親や祖父母がおり、戦争をくぐり抜けています。戦争で人生が大きく変わった方々が大多数でしょう。祖父が北海道に来なければ私はいなかったことを考えると、複雑な気持ちになります。

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2008年11月24日 (月)

小雪が変えようとした世界『新・自虐の詩 ロボット小雪』

 わりとマンガが好きで評判になったものや好きな作家の作品は読むようにしています。新聞などで話題になっていた業田良家著『新・自虐の詩 ロボット小雪』を読みました。業田良家さんの『自虐の詩』は映画化以前に読んでいて、4コママンガであることを感じさせないドラマチックな展開と優しい愛情物語に好きな作品の一つでした。映画はあまりにも私のイメージとかけ離れたキャスティングだったので見ませんでした。映画同様前作以上の物語を期待するのは難しいと思いながら『新・自虐の詩 ロボット小雪』を読んだのですが、とても強烈な内容でした。前作と同じく主人公の純粋さと素直さに心を掴まれました。と同時に社会に対する業田良家さんの視点に姿勢を正されました。
 『新・自虐の詩 ロボット小雪』は近未来が舞台で、学生までが株式でお金儲けをして、人間型ロボットを恋人や愛人にしているような世界です。主人公の小雪は高校生の拓郎が購入したロボット。この小雪がいつのまにか心を持つお話しです。ファンタジックな内容に思えますが、世界観は殺伐としています。家族はバラバラ、株式や仕事で1度でも失敗しようものなら生活は一気に転落。“向こう岸”と呼ばれる貧民地域に行かされます。貧民地域では仕事がなく、生活はすさむばかり。そもそもこの地域に1度入ったら、抜け出すことはまず無理です。死んでも遺体から燃料になる原料を搾り取られるような世界が広がっているのです。
 収奪することだけしか考えていない、今だけの富を求める刹那的な人間の欲望から起きる格差社会。小雪の変化は周囲を見渡すことから始まりました。ほんの些細なことに気づくこと。なぜなのか考えること。そして小雪はこの格差社会を変えようと行動を起こします。物語が進むに連れて、小雪の変えようとした世界は絵空事ではなく、今まさに私たちが生きている社会そのものだということがわかります。そして格差社会を支えているものは“気づこうとしないこと”“変えようとしないこと”にあるということも。「突然心を持ったからまわりの世界に気づいたのです」と言う小雪の言葉に、ロボットは小雪ではなく私たちなのだと気づかされるのです。

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2008年11月19日 (水)

在外被爆者裁判、なぜ続けるのでしょうか?

 今月10日、長崎地裁で在韓被爆者の手帳裁判があり、原告勝訴の判決が下されました。しかし昨日18日、長崎県からの控訴が決まり、再び裁判が開かれることになりました。今年中には来日要件を撤廃した改正被爆者援護法が施行されるかもしれないのに、なぜ高裁に持っていくのでしょう。被爆者である原告はまた置き去りになります。そして再び闘うことで、一体どれだけの税金が使われることになるのでしょうか。裁判はやめてください。
 この裁判は在韓被爆者である鄭南壽(チョン・ナムス)さんが、被爆者健康手帳の交付申請を韓国から長崎県に申請し、“来日を理由”に却下されたことに対して、却下の取り消しなどを求めて訴訟をおこしたものです。今回、長崎地裁では来日要件の合理性は認めつつも、「身体的、精神的事情で来日が困難な場合に、被爆事実や本人の確認を日本で行うことに代わる方法は十分にありうる」として「来日しないことだけを理由とする手帳の交付申請を却下する処分は違法」と判断しました。
 鄭南壽さんは“被爆確認証”を持っていました。これは被爆者であることが認められた証明書で、この“被爆確認証”を都道府県などに提出すれば、被爆者健康手帳の発行が即時に受けられます。鄭南壽さんの場合、被爆者であることはすでに認められているのですから、本人確認さえできればいいわけです。裁判長が指摘したように来日に代わる確認手段はいくらでもあるのです。
 支援者は長崎県や厚労省などに控訴断念の要請書を出しましたが、大変残念なことに昨日の控訴となりました。前にも書きましたが、12月には来日しなくても手帳が取得できることはほぼ決まっています。それなのに、長崎県などはどうして裁判を続けるのでしょうか。長崎地裁の裁判長は「援護法が補償対象を日本国籍者に限定していないのは、被爆による障害には特異性と重大性があり、内外で区別すべきではないとしたものだ。国内に居住地がなくても同法による援護を受けるべき地位にある」と述べています。鄭南壽さんは88歳、寝たきりの状態です。被爆者でありながら、戦後から今まで受けるべき援護を受けていないのです。裁判が長引けば、鄭南壽さんは援護を受けられない状態がまだ続くことになるのです。支援者は今、長崎県で抗議の座り込みをしているはずです。

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2008年11月14日 (金)

広島に戦争博物館を!

 先日の中国新聞で市内南区にある「旧陸軍被服支廠」の活用が決まらず、計画が13年間も凍結しているという記事が掲載されていました。この建物は『土の記憶』にも登場してもらったのですが、1913年に建設された鉄筋コンクリート赤煉瓦造り2階建てで、のべ床面積はなんと約2万1700平方メートルもあります。戦時中はここで軍服、軍帽、ベルトなどを製造、保管しており、数百人の女子挺身隊や動員学徒が働いていたと言います。私が会った在韓被爆者の女性もここで働いていたことがあると話していました。被爆建物でもあり、爆風で曲がった鉄の窓の扉が、原爆のすさまじさを物語る貴重な証拠にもなっています。確か塀の一部は広島平和記念資料館にも展示されていると思います。峠三吉の詩『倉庫の記録』はこの建物が舞台で、被爆した日から8日目までの生々しい被災者の様子が描かれています。8日目の中に「がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。」とあります。
 戦後から1995年までは学校や寮、倉庫などとして利用され、以降は県が管理しているようです。博物館や美術館などの構想などが持ち上がったようですが、耐震改修費試算が約150億円以上と高額で採算などを考えると難しいとの理由で実現できなかったようです。問題は保存工事もされていない状態で利用が凍結され、取り組みすらしていないことです。完全放置状態です。このままでは峠三吉が見つめた歪んだ鉄格子は状態維持さえ危ぶまれます。
 そこで私なりの提案を。まず一部だけでも改修補強工事をして戦争博物館にしてはどうでしょうか。建物は4棟ぐらいあると思いますから、その内の1棟だけなら負担も重くありません。博物館は軍都広島時代を中心に、倉庫及び図書室として戦後補償裁判などの裁判資料までも閲覧できるようにします。裁判資料の保存公開は以前から広島では話が出ていましたが、なかなか本格的な取り組みには至っていません。裁判資料は膨大であり、且つ非常に貴重な内容のものばかりです。戦争被害者である原告の生の声がありますから、一般に利用できるならかなり有益です。近くには旧糧秣支廠や宇品港などがありますから軍都廣島のフィールドワークなどができるよう案内人を置くと、さらに効果的な平和学習ができます。また余裕があれば残りの建物は思い切って、広島を訪れた方たちのための宿泊施設に改築するのはいかがでしょう。全てを残さなくてもいいのです。外観の一部でも残し、中身は全く別のものでも構いません。立派な施設ではなくてゲストハウス的なものでいいので、世界中から集まってくる方たちを安価で泊めてあげられるような施設にするのはどうでしょう。交通の便に関しては、ミニバスやレンタル自転車などを設置すればいいと思います。軍都廣島と被爆地ヒロシマを肌で感じてくれるに違いありません。戦争資料館と広島平和記念資料館のセットでより深く平和の尊さを訴えることができるのではないかと思います。戦争遺跡はやはり戦争の悲劇を伝えることが一番の役目だと思います。いかがでしょうか?


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2008年11月 7日 (金)

ヒロシマを歌う朴保さん

 朴保さんの『ヒロシマ』はとてもいい歌です。なんといってもメロディがカッコよくて、歌詞はシンプルですが説得力があって、生で聞くと泣けてきます。10月末に朴保さんのライブが広島であり行って来ました。ソウルフルでパワフルで、朴保さんの素敵さ満開のライブでした。
 朴保さんとの出会いは5年ほど前です。広島のスタディツアーを私が企画・コーディネーターをし、そのツアーに朴保さんも参加されたのです。朴保さんは初めての広島だったようです。地下壕の中や瀬戸内から見た米軍基地と、軍都廣島から現在の広島の姿までご案内しました。沼田鈴子さんや在日コリアンの被爆者の方に被爆体験などもお聞きしました。沼田さんから話を聞いている時、私は涙を堪え切れませんでした。それは被爆の話ではなく、沼田さんが話す被爆前の楽しい日常の様子でした。朴保さんから「あなたはなぜ日常生活の話を聞いて泣くのか」と質問されました。被爆後の沼田さんの人生がどんなに大きく変わってしまったかを多少なりとも知っているつもりの私にとって、決して帰って来ることのなかった日常生活を語る沼田さんの姿に涙せずにはいられなかったのです。平凡な暮らしの中に幸せがあるということを教えてくれたのが被爆者の方たちだったという私の返答に朴保さんはじっと耳を傾けていました。朴保さんには無理をお願いして在日の被爆者が経営する焼き肉店で、歌を披露していただきました。当然、その夜は大いに盛り上がりました。今回はその時以来だったようです。大阪でワンコリアフェスティバルがあり、その次いでにと足を伸ばして来ていただいたようです。
 市内のライブ会場はファンが東京などからも来ていて、行くとほとんど席がない状態でした。『傷痍軍人の歌』『Monju』『Who Can Save The World?』『もし川が話せたら』など熱唱し、会場は熱気であふれました。朴保さんの歌はどの歌も社会的なメッセージが込められています。怒りや哀しみや憤り、祈りがストレートに伝わり共感できます。でも説教くさくないし、日本語を知らない人が聞いてもノレル曲なので、ファン層は幅広いのです。今回、初めて朴保さんの歌を聞いた方は「スゴイスゴイ」と大興奮して、帰る時はすっかり朴保ファンになっていました。
 このたびのライブで歌った『Hiroshima(Never Again)』はヒロシマ(広島の方がカタカナで書くとき、それは被爆した時のヒロシマを意味することが多いようです)の痛みが伝わってきました。朴保さんの抜群の歌唱力や音楽センスに因るところはあるとは思いますが、やはり一番はハートだと思います。ご自身の目でヒロシマを見て聞いて体験したことが行間に込められていると感じるのです。歌は「覚えているだろうヒロシマを」と、残酷な大量虐殺があったヒロシマを忘れずはずがないよね、と風化しそうな今の時代に向けた強烈なメッセージから始まっています。そして惨事の様子が語られ、ナガサキという言葉も入っています。ヒロシマだけではなく繰り返されたナガサキへの投下。いかに非人道的な行為であったかが強調されているのです。「繰り返すなヒロシマ・ナガサキ」の最後のフレーズは心に響きます。レゲエ調のメロディはどこの国の人も思わず体が動いてしまうに違いありません。広島や長崎でこの歌がもっと広まって、世界中が知るところとなればいいなあと思いました。


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