被爆直後に救援活動をした朝鮮人兵士
先週、在韓被爆者の方が原爆症認定の申請に広島に来られました。Kさんは韓国から徴兵されて広島に来て被爆し、被爆直後の市内で救援活動を行った方です。最近になって在留放射能の被曝が今まで考えられていた以上に人体に影響を与えるのではないかと言われ始めています。Kさんが直接被爆した地点は爆心地から4キロ以上ですが、直後から2週間ほど毎日続けて市内中心部に入っていますので影響は図りしれません。帰国後も身体の不調が激しく10年間も動けなかったと言います。そして白内障や胃ガンなど患い、病気は今も続いています。今回、貴重なお話しをお聞きしましたので、その一部をご紹介します。今回は詳しくお聞きできませんでしたが、Kさんは広島で軍の地下壕を掘っていました。以前、広島に来られた時に見に行ったようですが、すでに埋め戻されて入口はなかったようです。残念です。
Kさんのお話し:1944年の11月か12月、テグで会社員だった時、召集礼状が来て徴兵された。21歳の時だった。家族の中で召集されたのは自分だけだった。家族は泣いた。自分は死ぬと思い、弟に自分の髪と爪を切って渡した。1週間テグで訓練を受け、何処へ行くか分からないまま汽車に乗り、釜山へ向かった。釜山で1週間滞在した後、連絡船に乗り下関に着いた。そこから広島の海田町に行き8876部隊に入った。部隊には朝鮮人が125人いて、そのうち志願兵は1人だけだった。倉庫の中に寝台があり、そこで寝た。寒かった。部隊では労働だけした。岡山に行って石炭を船から出す仕事、穴掘り、枕木運び、1トンの爆弾が落ちた所の穴埋め(朝から晩までシャベルを使っての作業)、米を運び出す仕事(木浦からきた米)などを行った。辛いとか考える余地がない。部隊でやれと言われたらやらなければいけない。「何の考え」もなかった。
8月6日、宇品港での作業を行うため、部隊は宇品にいた。飛行機から落下傘が付いた物が落ちてきた。空が赤く熱くなった。小屋に飛び込んで伏せている時、バンと音がした。原子雲が上がるのを見た。少将が来て「バカヤロー、何で待っているのか」と言われ、救援活動の命令が出た。すぐ市内に向かった。
広島が無くなっていた。目に見えるところは全て死体だった。広島駅に行くと焼けて形がなかった。道路を開くため死体をよけた。何処の部隊かはわからないが、朝鮮人兵士たちがいた。死体を集めて積んで焼いていた。自分も死体処理を行ったが、匂いがひどかった。弁当を食べようと思うと目の前に何も着ていない赤い死体が目に入った。死体を見ながらでは食べられないので、違う場所を探したが、どこを向いても死体だらけだった。
終戦の日は部隊で聞いていた。(天皇が)何をおっしゃっているのか理解できなかった。日本人の半分は驚き、半分は泣いていたが、自分は終戦がわからなかった。その後も8月21日の午前中まで作業した。午後になって「10分以内に荷物を持って集まれ。家に帰してやる」と上官から言われた。この時、終戦がわかった。家に帰れるので嬉しかった。同日、福岡の博多に着き、9月5日に釜山に着くまで福岡に滞在していた。ここには朝鮮人が3000人いた。「御飯をくれなければ何するかわからない」と言うと、御飯をくれた。しかしそれはゴミが入っているものだった。水で洗って食べた。
帰国後は髪が抜け、熱など10年間、悩まされた。病院へ行っても原因はわからなかったので、漢方薬を飲んだ。白内障になり、今も胃ガンで治療中だ。
| 固定リンク


最近のコメント