« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

2008年10月30日 (木)

『闇の子供たち』タイの子どもたちは今どうしているのでしょう

 阪本順治監督『闇の子供たち』を見てきました。私は初回上映だったのですがほぼ満席状態。見終わった後、観客はほとんど口をきかず映画館を後にしていました。それは監督のメッセージが見た人たちに強く伝わったからだと思います。
 この映画は私たちにフィクションという形でタイの暗闇を見せてくれました。映画冒頭の満月からタイトルが出てくるシーンそのもののように、見てはいけないものを見てしまったような実態です。タイで子どもたちに対して性的な労働を強いているのは事実です。そのことは大きな衝撃ですが、映画で私をさらに愕然とさせたのはやはり臓器売買でした。大人が腎臓の片方を売るという話しまでは聞いたことがありますが、生きた子どもから心臓を取るなんて・・。映画はフィクションですが、裏付け取材があります。子どもの臓器売買までは信じたくありませんが、ひょっとすると事例があったのかもしれません。あってはいけないことが行われている可能性も考えられるのかと思うと、言葉を無くしてしまいました。私はタイに行った時のある村の光景を思い出しました。
 札幌にいた時、あるNGOに顔を出していました。そこで子どもの就学支援の下調べのため、タイに行く機会に恵まれました。タイの田舎のある村の学校でナマズの養殖をしてお金を稼ぎ、貧しい子どもたちが学校に通えるように援助していました。ナマズ養殖場の運営資金が必要ということで、NGOが学校関係者から依頼を受けたのです。旅費も滞在費も写真代も全て自己負担ですが、私は貴重な経験ができると思い、下調べの名乗りをあげ出かけたのです。
 その村はラオスの国境近くにある東北地方の片田舎で、村の中の道路はほとんど舗装されていませんでした。依頼された学校に行くと小さな校舎に子どもたちの学ぶ姿がありました。クリクリとした目が可愛い人なつこい子どもたちばかりでした。ナマズ養殖場の仕事は先生などが行っていました。大きくなったナマズは先生が市場に売りに行き現金にします。給食にも使えるというので重宝していたのだそうです。しかし大雨で養殖場が壊れ、ナマズが逃げてしまったというのです。学校側は修理費用などが必要だったのです。
 先生の家に泊めていただき、村の様子や子どもたちの家を見せていただきました。米蔵にはほとんど米がなく、家の作りも粗末で、正直なことを言うと「貧しい」と感じました。この方たちが働かないから貧しいということではありません。小作農家なので天候不順などが続くと、あっという間に現金も食べる物もなくなってしまうのです。養殖など面倒なことをせずに、奨学金はどうなのかと聞くと、親にお金を直接渡したら、子どもたちのために使わず、家のために使ってしまうので、現金支援はしたくないと先生に言われました。子どもが学校に行けない、女の子を売るということは、さほど珍しいことではない状況でした。先生達が頑張っても貧困からは簡単に抜け出せない状況でした。帰国後の報告でNGOの代表に私が撮った写真を見せると「タイの田舎の普通に貧しい家だな」と言われました。私が感じた貧しさはタイのどこにでも見られる風景だったのです。これは1999年のことです。残念ながら、私は以後、1度もこの村を訪れてはいませんが、その後、このナマズ養殖場支援は無事行われました。私がいたNGOではこのほかにもタイ国内のエイズ患者支援の現地NGOへの支援などを行っていました。
 今回『闇の子供たち』を通して10年ほど前の状況とさほど変わっていないタイの実態を見たように思いました。グローバル化が生み出した格差社会は今でもタイの貧困家庭に苦しみをもたらしていたのです。10年ほど前、NGOがエイズ患者を支援していると聞いた頃、子どもが罹患している場合は親からの感染だったように記憶しています。しかし映画では子ども自身が感染しているように描かれていました。ひょっとすると当時もそうだったのかもしれません。性的労働をしている子どもたちがエイズ患者になることは想像に難くありませんから。また当時は偏見と差別で場所によってはエイズ患者は邪魔者扱いだと聞きましたが、映画を見ると今も当時とそう変わらない状況なのかもしれないとも思いました。貧困が強いる子どもへの過酷すぎる状況は、臓器売買の話題がでてくるほど、より深刻化、悪化の一途をたどっているのかもしれないと思い胸が苦しくなりました。
 今の私には残念ながら、直接、タイへ支援することはできませんが、例えばユニセフへの募金などはしています。そして臓器移植について、貧困について考えることはできます。私はもし自分が同じ立場になったらどうするのか、目の前にそういう人がいたら何ができるのか、思考を停止させないことが大事だと思っています。思考停止や無関心が一番してはいけないことだと思うからです。目の前の問題に取り組むこと、その小さな行動が広がりを持つように、いつかなんらかの形で手がかりを見つけられることもあるのではないかと思っています。

| | トラックバック (0)

2008年10月26日 (日)

「ピカッ」アート・その後

 前回書いた広島の空に文字を書いたパフォーマンスは、後日つぎのような展開になりました。

・22日、広島市現代美術館の館長が陳謝し、美術館や管理する財団などが対応を協議。学芸担当課長に口頭注意、芸術家集団にも謝罪を促す。
・24日、芸術家集団の代表が被爆者団体の代表に会い陳謝。11月から開催予定だった個展を自粛。

 以上のような状況で終結したように見えます。新聞記事を読むと、芸術家集団のリーダーは今回の制作に当たってあらためてヒロシマについて勉強はしなかったといいます。一方で「ヒロシマや原爆をテーマにすると無条件に受け入れる印象がある」という批判もあり、美術館側の姿勢も問われていました。ヒロシマで原爆をテーマにパフォーマンスをするにはまず被爆についての理解が必要だったように思います。
 私が広島に来て驚いたことはたくさんありますが「ヒロシマでパフォーマンスすることがステータスになる」と広島で何かしたいアーティストが少なからずいるということでした。しかし平和や原爆、被爆者をカタチだけで表現しても、それを見た広島の方たちの心には響かないでしょう。被爆者の方は心を閉ざしてしまうかもしれません。「反戦や平和活動は自分をアピールするためのもの」として受け止められてしまう恐れもあります。これでは原爆の悲劇は次代につながっていかないばかりか、真実が埋もれていってしまいますし、反戦に向かっていくのは難しいのではないかと思います。今回の「ピカッ」アートがそうであるという意味ではありません。売名行為のためのパフォーマンスと誤解されないように、被爆地での表現活動には、他の場所とは違った努力が必要なのだということが浮き彫りになったように思います。
 25日、中国人の芸術家が太田川の河川敷で黒色花火を打ち上げるというパフォーマンスを行いました。原爆犠牲者への鎮魂と平和への願いを表現した作品として告知していたためか、批判の声が上がることはありませんでした。誰も何も傷つけることなく訴えることができるところが芸術の素晴らしさです。原爆や被爆をテーマにしたアプローチは反戦、平和を訴える時にとても大きな意味を持ちます。しかし被害者のことを置き去りにしてはいけないことを今回のことは考えさせてくれました。 

| | トラックバック (0)

2008年10月23日 (木)

「ピカッ」アート

 残念で仕方がありません。アートという平和的な手段を使っての反戦だったのに・・・。21日の午前中、広島の晴れた空に「ピカッ」という白い文字が浮かび上がりました。小型機のスモークによって描かれたこの文字は東京在住の芸術家集団による創作活動でした。事前の告知がなかったため、突然浮かび上がった原爆を連想させる文字に被爆者や市民から憤りの声があがり、波紋が広がっています。
 この芸術家集団は2007年に広島市現代美術館の「新・公募展」で大賞を受賞しており、広島とは縁のある方たちでした。今回のことは11月から同美術館で開催される展示のための創作活動の一環として行われたもので、この時も学芸員立ち会いだったようです。中国新聞(10月22日付)によると、芸術家集団のリーダーは『「問題になるのは予測していた。被爆者を傷つけたとしたら心が痛むが、若者と戦争を知らない世代の関心を呼びたかった」と主張する。』と語っているようですが、この言葉だけ読むと、被爆者への配慮は感じられません。学芸員の方も「悪ふざけではないと信頼している」と説明しながらも『「どんな議論を生むか、そこが面白いところ。被爆者団体の意見がすべてではない」とも言った。(中国新聞10月22日付け)」』と書かれており、とても被爆地ヒロシマにおられる方とは思えない発言をされていました。被爆者が今も心身共にどれだけの深い苦しみを背負って生きているのか、ご存知ないわけはないと思います。確かに表現の自由はあるとは思いますが、今回の場合、心的暴力になる恐れが充分にあります。空に描かれた文字は誰でも目にしてしまうからです。被爆時から精神を病んでいる方がもしこれを見たら、PTSDを抱えながら暮らしている方がこれを見たら、家族を亡くし被爆を忘れようと必死に努力しながら生きている方がこれを見たら・・・。被爆を知らない人間にとって60年以上前の出来事でも、被爆者にとってはピカは今日も続いている出来事なのです。被爆者ではない私でも不快に思うのですから、私同様に不快に思う人がいるのは当然です。
 もしこの文字が東京の空に浮かび上がったら、それはまた違った意味を持ったでしょう。しかし、ここは被爆地ヒロシマなのです。なぜ被爆地でこれをするのか、その説明が事前にあるべきだったのではないでしょうか。事前にマスコミでその意図を発表していたら、この文字を見てもこうした批判は少なかったように思います。芸術家集団の方たちが被爆者の方からお話しを聞いたのか、原爆投下時のことをどれだけ調べたのかは、今の情報からは全くうかがい知れませんが、私は被爆者の方とつきあえばつきあうほど、被爆のことを知れば知るほど、被爆というテーマは軽々にできないことをひしひしと感じています。以前にも書いたと思いますが、よく目にするキノコ雲の映像は正視できません。あの雲の下に私が出会った方たちがいるからです。あの後、どのような苦しみを受け続けているか、少しは見て聞いているからです。
 原爆や被爆についてあらゆる角度から、色々な方々が様々な表現をすることで平和につながると思っています。その方法の一つが芸術作品であれば、訴える力は決して小さくありません。芸術作品が全ての方に同じように通じるわけではないことは充分ご理解されているとは思いますが、今回もう少し被爆者に思いをめぐらせることができたら、同じ作品でも違ったアプローチで大空に文字が描けたのではないかと残念で残念で仕方がないのです。


| | トラックバック (0)

2008年10月16日 (木)

広島にチャンゴが響いた夜

 去る10日、広島の民団広島県地方本部創団60周年の記念式がありました。これまで民団に貢献されて来た方々の表彰式や、広島出身のプロの舞踏家や演奏家、また広島県地方本部の婦人会や青年会による芸能、さらには韓国から有名な歌手も招いての歌謡ショーといった盛りだくさんの内容で、60周年にふさわしい華やかな式典でした。1000人以上入る会場は満員御礼。一瞬、自分は韓国にいるのではないかと錯覚をおこしそうなほど、在日コリアンの方たちの熱気でいっぱいでした。
 式の始まりに結成から現在までの民団の歩みを綴った映像が流れました。日本の敗戦と共に日本に留まった、もしくは留まらざるを得なかった在日コリアンが同胞のために集まり、日本社会で生きるための活動を続けてきたことを写真などで紹介していました。戦後まもない広島市内の居住地や外国人登録指紋押捺撤廃の署名活動、在韓被爆者支援活動といった当時の様子を目で見られたことはとても貴重でした。その後の民団に貢献されてきた方への功労賞の表彰では広いステージに入りきらないのではないかと思うくらいの人々が壇上に上がりました。白髪の姿を見ると、どれほどの月日を同胞のために力を注いできたのかと思います。お一人お一人の力が、在日コリアンが広島で生きていくための道を切り開いてきたのです。道のない状態から4世、5世までもが安心して歩ける広くて立派な道を造ってきた方々。色とりどりのチマチョゴリの女性の美しさに見とれながら、壇上にいる全ての方の人生を伺いたい気持ちになりました。
 驚かされたのは芸能公演で演奏された青年会によるチャンゴです。現在のメンバーはほとんど知りませんが、恐らく学生が多いのではないかと思います。プロ顔負けの演奏に感激しました。1世が切り開いてきた道を整備し、更によりよい道にするには今後、彼らの力が不可欠です。しかし彼ら青年会の力強いチャンゴの響きが心配は無用だと言っているようで、とても頼もしく眩しく見えました。

| | トラックバック (0)

2008年10月 8日 (水)

国が貯めてきたツケ〜在外被爆者の集団訴訟

 この度、在外被爆者が国を相手に損害賠償を求める集団訴訟をすることになりました。第一陣はアメリカとブラジルにいる被爆者計163人で、6日に広島地裁に提訴しました。今、韓国にいる被爆者も訴訟の準備を進めています。高齢の在外被爆者にさらなる負担が覆い被さってきたのです。 
 日本以外に住んでいるという理由で健康管理手当などの支給を打ちきっていた国に対し2007年11月の旧三菱重工業元徴用工裁判の最高裁判決で違法性が認められました。最高裁では元徴用工に対し一人120万円の賠償金の支払いを国に命じました。この時、被爆者援護から見放されてきた在外被爆者へ損害賠償が認められたのです。そこで、韓国の原爆被害者を救援する市民の会などを含む在外被爆者団体が、元徴用工以外の在外被爆者へも損害賠償を支払うよう厚生労働省に要求しました。しかし「裁判の原告と同じようなケースであれば、裁判を起こせば支払う」旨の回答をし、元徴用工と同じように今まで苦しんできた在外被爆者の要求を拒否したのです。そこでやむなく集団訴訟という手段をとらざるを得なくなってしまいました。アメリカもブラジルも韓国も、裁判を起こすことで再び被爆者に重い負担をかけなければいけないという葛藤の末の集団訴訟という形になってしまったのです。
 昨日7日付の朝日新聞によると『桝添要一厚労省は今年6月、「国家賠償にかかわる問題なので(被爆者に賠償するには)司法判断が必要。個別に提訴されれば迅速に和解したい」と国会で説明した。』と書かれています。元もと、被爆者援護法が違法であると司法(最高裁)が判断したことですから、それに従って他の在外被爆者にも賠償金を国が支払うのは当然のことだと思いますが、今さらなぜ司法が必要なのでしょうか。国独自で判断することはできないのでしょうか。法律のことがわからない私には、とても不思議でなりません。
 在外被爆者は2003年まで被爆者援護法の蚊帳の外だったので、長年の病気の治療費などの自己負担は相当なものでした。それに加えての今回の裁判はさらなる費用の負担をも強いてしまいます。裁判ですから万が一、負ける可能性も捨て切れません。また北朝鮮や他の国にいる被爆者には日本からの情報が伝わっているかどうか、よく分かりません。もしこのまま国が一律に補償をしなければ、同じ在外被爆者でも、また大きな差が開いてしまいます。私はこの賠償金は長年、国が貯めてきたツケの支払いだと思いますが、なぜ在外被爆者ばかりに負担を強いるのでしょうか。

| | トラックバック (0)

2008年10月 2日 (木)

被爆直後に救援活動をした朝鮮人兵士

 先週、在韓被爆者の方が原爆症認定の申請に広島に来られました。Kさんは韓国から徴兵されて広島に来て被爆し、被爆直後の市内で救援活動を行った方です。最近になって在留放射能の被曝が今まで考えられていた以上に人体に影響を与えるのではないかと言われ始めています。Kさんが直接被爆した地点は爆心地から4キロ以上ですが、直後から2週間ほど毎日続けて市内中心部に入っていますので影響は図りしれません。帰国後も身体の不調が激しく10年間も動けなかったと言います。そして白内障や胃ガンなど患い、病気は今も続いています。今回、貴重なお話しをお聞きしましたので、その一部をご紹介します。今回は詳しくお聞きできませんでしたが、Kさんは広島で軍の地下壕を掘っていました。以前、広島に来られた時に見に行ったようですが、すでに埋め戻されて入口はなかったようです。残念です。

Kさんのお話し:1944年の11月か12月、テグで会社員だった時、召集礼状が来て徴兵された。21歳の時だった。家族の中で召集されたのは自分だけだった。家族は泣いた。自分は死ぬと思い、弟に自分の髪と爪を切って渡した。1週間テグで訓練を受け、何処へ行くか分からないまま汽車に乗り、釜山へ向かった。釜山で1週間滞在した後、連絡船に乗り下関に着いた。そこから広島の海田町に行き8876部隊に入った。部隊には朝鮮人が125人いて、そのうち志願兵は1人だけだった。倉庫の中に寝台があり、そこで寝た。寒かった。部隊では労働だけした。岡山に行って石炭を船から出す仕事、穴掘り、枕木運び、1トンの爆弾が落ちた所の穴埋め(朝から晩までシャベルを使っての作業)、米を運び出す仕事(木浦からきた米)などを行った。辛いとか考える余地がない。部隊でやれと言われたらやらなければいけない。「何の考え」もなかった。
 8月6日、宇品港での作業を行うため、部隊は宇品にいた。飛行機から落下傘が付いた物が落ちてきた。空が赤く熱くなった。小屋に飛び込んで伏せている時、バンと音がした。原子雲が上がるのを見た。少将が来て「バカヤロー、何で待っているのか」と言われ、救援活動の命令が出た。すぐ市内に向かった。
 広島が無くなっていた。目に見えるところは全て死体だった。広島駅に行くと焼けて形がなかった。道路を開くため死体をよけた。何処の部隊かはわからないが、朝鮮人兵士たちがいた。死体を集めて積んで焼いていた。自分も死体処理を行ったが、匂いがひどかった。弁当を食べようと思うと目の前に何も着ていない赤い死体が目に入った。死体を見ながらでは食べられないので、違う場所を探したが、どこを向いても死体だらけだった。
 終戦の日は部隊で聞いていた。(天皇が)何をおっしゃっているのか理解できなかった。日本人の半分は驚き、半分は泣いていたが、自分は終戦がわからなかった。その後も8月21日の午前中まで作業した。午後になって「10分以内に荷物を持って集まれ。家に帰してやる」と上官から言われた。この時、終戦がわかった。家に帰れるので嬉しかった。同日、福岡の博多に着き、9月5日に釜山に着くまで福岡に滞在していた。ここには朝鮮人が3000人いた。「御飯をくれなければ何するかわからない」と言うと、御飯をくれた。しかしそれはゴミが入っているものだった。水で洗って食べた。
 帰国後は髪が抜け、熱など10年間、悩まされた。病院へ行っても原因はわからなかったので、漢方薬を飲んだ。白内障になり、今も胃ガンで治療中だ。

| | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »