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2008年3月21日 (金)

「いのちの食べ方」を見ました

 遅ればせながら、ようやく「いのちの食べ方」(監督ニコラス・ゲイハルター2005年)を見てきました。話題のドキュメンタリーだったのでとても期待していましたが、ガッカリしました。もっと別のまとめ方があったのではないかと思ったからです。
 食の工場と言っても過言ではない屠殺場や鶏舎、大規模農場、漁場などの現場は機能美にあふれ、美しささえ感じるほどで、淡々と流れ作業する状況は罪悪感など感じようもありません。牛や豚、鶏、魚、塩など、誰もが口にするものですから、そのことにショックを受けると思います。確かに機械化による大量生産の現場は残酷です。加えて農薬を大量散布したり、生まれてから一度も太陽の光をあびずに肉となってしまうことや、去勢しなければならないという、自然の摂理に反するような事実を見せられると、これでいいのかと考えさせられます。
 しかし大量生産であってもなくても、私たちが口にするものは何かの命です。命を奪わなければ生きてはいけないのです。何を食べているか、もしくは食べさせられているかは大事ですが、もしここを強調したければ、説明をしてほしかった。この映画の場合、見る人の想像に任せるというのは無責任です。去勢しなければ肉が不味くなるとか、早期収穫のために農薬を散布するということを知らない人たちは、その場面を見せられて、そこまで理解できるでしょうか。私は分かりませんでした。多くを語らないことで、観客に感じさせることは手段としてあるとは思いますが、スーパーなどで、肉の塊や袋に入ったモノしか見たことのない人たちには、消費者が喜ぶために努力している現場との距離がありすぎるので、想像もしくは理解できないのです。
 そして私が一番、ショックだったのは、そこに働いている人たちへの視点がなかったことです。食の工場で、どのような人たちがどのような思いをして働いているか。命を削っているのは、食材となる牛や豚や鶏だけではなく、そこで働いている人たちも同様だからです。大量にまかれた農薬はその場にいる人にも降り注ぎます。塩の掘削現場では大量の塩が坑道に舞っているに違いありません。塩の粉が人体に入るとどうなるのでしょうか。また牛や豚など生き物を殺したり、解体する場面ではあまりに大きな騒音のためにヘッドホンをつけたり、ある場所では素手で行っていることもありました。この映画に出てくる現場は「キツイ、キタナイ、キケン」の典型的な3Kです。淡々とした表情で流れ作業する人たちはむしろ感情がないように映っていて、職業差別を助長するとは単純には言えませんが、「こういう仕事にはつきたくはない」と頭をよぎる人も大勢いるのではないでしょうか。自分とは関係のない人たちだと深く考えるのを拒否してしまうのではないでしょうか。例えば日本で言えば屠殺場は昔、被差別部落の方たちが行っていました。今、農家では外国人が多く働いています。外国ではこうした現場で働いている方たちはどういう方たちなのでしょうか。どのような現場として見られているのでしょうか。私は気になって仕方有りませんでした。
 私は働いている人たちの食事の場面は必要ないものだと思いました。彼らは生きるために必死で働き、質素なランチを食べて私たちの要求する食(必要な食ではありません)を支えているのです。食事のシーンを入れるので有れば、この食の現場を知らずに高級レストランで食事をする人々や大量に食べ物を残して捨てるシーンを入れた方がずっといいと思います。それはほんの数秒の1シーンでもいいと思うのです。それこそ説明なしで、一瞬にして自分たちとのつながりを理解できるのですから。


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