2019年5月12日 (日)

ドキュメンタリー映画「アイたちの学校」を見ました。

私はこれまで札幌と広島の二か所の朝鮮学校にお伺いしたことがあります。広島では文化祭などのイベントにも伺ったことがあり、美味しい朝鮮料理を頂いたことが記憶にあります。札幌も広島も学生さんたちは礼儀正しくて仲が良さそうでした。父兄も含めて皆んなが家族のようで微笑ましく、羨ましく思いました。GW中にドキュメンタリー映画「アイたちの学校(髙賛侑・監督)」を見ました。日本全国にある朝鮮学校の歴史を描いたものです。朝鮮学校のドキュメンタリー映画はこれまでも「ウリハッキョ」や「60万回のトライ」を拝見し、これで3本目となります。今回は前2作とは少し違い、朝鮮学校の歴史がしっかりと描かれていました。

本作の朝鮮学校の舞台は大阪です。1910年の日韓併合から始まる朝鮮半島と日本、現在の朝鮮学校に繋がる歴史が分かりやすく述べられていました。特に「423阪神教育闘争」に時間が割かれており、当時の社会状況や在日コリアンの方たちの熱い熱い思い、日本側の理不尽な対応や差別が丁寧に映し出されていました。現在係争中の高校無償化裁判は戦後から何も変わっていない日本社会が浮き彫りになっており、日本人として考えさせられました。上映後はトークイベントがあり、この日は朝鮮学校の教員と卒業生が登壇しておられました。劇場にはかなり人が来られていましたが、上映後ほとんど席を立つことなく、最後まで話を聞いておられました。

子供たちから教育を奪う権利は誰にも無い筈です。ましてや自分のルーツである朝鮮半島のことを学ぶ場所を他民族の日本人が取りあげることが許されるのでしょうか。他民族社会の日本は、これまでも異文化を尊重し吸収して日本をつくりあげてきたのではなかったのかと思います。教員の方は「朝鮮学校は在日にとってなくてはならない場所。守らなければならない場所」だと訴え、映画の中では朝鮮学校から東大に入った男性が「朝鮮学校を自分を肯定してくれるものを入れてくれる袋だ。絶対なくてはならないもの」と言葉を強めました。朝鮮学校で人権教育を行っておられる司会進行の日本人の方が「子供たちから今も差別を受けていることを聞き驚いた」という言葉にぎょっとさせられました。日本人が朝鮮学校を知ることは、日本社会がどんな社会でできているのかを知ることになると思います。是非、ご覧いただきたい映画です。

 

 

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2019年4月29日 (月)

「被爆者はどこにいても被爆者だ」朝鮮半島被爆者の支援者集会に参加してきました

韓国の原爆被害者を救援する市民の会・広島支部主催の「被爆者はどこにいても被爆者だ」が先週25日に市内で開催されました。これは先日リニューアルオープンした広島の原爆資料館に韓国の被爆者・郭貴勲さんが資料を提供し、来広することになっていたため、郭貴勲さんに記念講演をしていただこうと企画されたものでした。しかし残念ながら、郭さんのお体の大事をとって来日はならず、当日はビデオレターでの講演となりました。集会は大盛況で、大勢の方が参加されました。今回は集会の様子をご紹介します。

 

会は2部構成になっており、1部では郭貴勲さんのビデオレター、2部は韓国の原爆被害者を救援する市民の会・会長の市場淳子さんによる「在韓被爆者の現状について」、在朝被爆者支援連絡会議・役員の金子哲夫さんによる「在朝被爆者の現状について」、それぞれ講演がありました。

 

ビデオレターでは郭貴勲さんが流暢な日本語でお話をされていました。徴兵され被爆して帰国するまでの体験が、まるで昨日のことのようによどみなく語られ、被害者にとっての経験は歳月とは無縁のものなのかもしれないと感じました。郭貴勲さんの御見事な日本語はよく存じ上げていますが、日頃、日本語を使う機会がほとんどないはずなのに、お変わりなく流暢で本当に驚きました。

 

2部での市場淳子さんのお話は韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下、市民の会)の活動についてでした。市民の会の設立目的は「韓国の被害者支援」「日本政府に植民地支配の謝罪と賠償をさせること」だったといいます。加えて「日本社会において、日本政府が植民地支配の反省をしないことを認識させること」でした。在韓被爆者支援の一環として裁判を行い、裁判で勝ち取った末に日本からの支援を受けることができるようになりましたが、まだ「謝罪と賠償」は残っています。市場さんは「初心に立ち返って運動をしていかなければいけない」と締めくくりました。

 

金子哲夫さんによる「在朝被爆者の現状について」では、昨年の訪朝報告と厚生労働省との交渉について話されていました。在朝被爆者支援連絡会議は去る4月22日、厚生労働省に対し在朝被爆者支援について要望を行いました。要望内容は在朝被爆者について「日本政府が無策であったことへの謝罪と基本的な方策を明らかにすること」や、「人道上の立場から緊急の方策を講じること」などで、北朝鮮政府との協議を求めました。しかし厚生労働省の回答は、「北朝鮮に居住している被爆者であっても被爆者援護法が適用されている」ということでした。確かに中国の北朝鮮領事館を介せば、手帳申請や手当申請ができるかもしれません。しかしそれができないため、在朝被爆者支援連絡会議ができ、日本から政府に要望しているのです。金子さんは「厚労省は国交断絶のことをいうが、人道支援であれば援護法に関係なく支援できるはずだ。共和国の被爆者の願いも被爆者援護法の適用ではなく、人道的支援なのだ。今までも施行規則の中でやってきているので、変えようと思えば変えられる」と、日本政府の柔軟な対応を強く訴えていました。

 

熱心に話を聞く方々の姿に、このように歴史の事実を知ろうとする方々がすこしずつ増えれば、日韓関係も変わってくるのではないかと感じます。またこうした集会を韓国でも行うことができれば、何か新たな道も見えてくるかもしれないと思いました。

 

 

 

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2019年4月 9日 (火)

日韓で被爆者の歴史の共有を。市民が国境を越え新しく日韓の団体結成。

日韓の関係は政治的には混迷混乱が続き、なかなか収束に向かいそうにありません。せめて互いの国民同士はよい関係を築きたいと思うのですが、ネットでの感情的な意見を見ると、簡単にはいかないように感じてしまいます。実際に韓国人とつきあったことがあるのか、お話ししたことがあるのか疑問に感じることもしばしばあります。私が今まで出会った韓国の方々は人情が厚く面倒見がよくて、おつきあいすると楽しい方たちばかりでした。韓国に行って、嫌な体験はほとんどなく、むしろお世話になることが多かったというのが私の経験です。ですからまず韓国の方とつきあってみる、会って話してみることが理解の第一歩だと感じます。

私がお世話になっている「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部(以下、市民の会)」は今月19日、韓国の被爆者団体である「韓国原爆被害者協会大邱支部」と交流団体を作ることが分かりました。市民の会は韓国原爆被害者協会と40年来のつきあいがあり、在韓被爆者が来日した際のお世話や被爆者手帳申請のお手伝いをしたり、在韓被爆者裁判では全面支援を行うなど、深いつながりがあります。在韓被爆者裁判の結果、被爆者援護法における在外被爆者と日本在住被爆者との差がほとんどなくなり、まだ課題は残りますが市民の会としては大きな役割が一段落したところでした。そこで以前から韓国と姉妹提携を結ぼうと言う話が出ており、今回の4月の訪韓で新しく団体を作ろうということになったようです。

残念ながら私は参加できませんが、広島からは10人程度、韓国では30人程度が参加し、集会や交流会などを開くようです。広島側にも日本人や在日コリアンの被爆者がおられます。被爆体験の共有や継承、被爆者問題など、日韓の被爆者や支援者が互いの知識の交換をするようです。

日本と韓国の歴史が重なる被爆者の証言は日韓にとって、とても貴重なものです。被爆者の平均年齢は日本では82歳、韓国でも79歳と被爆時は幼い方が多くなり、被爆証言ができる方々が少なくなってきています。さらに被爆者数も年々少なくなっています。こうした中、市民同士がつながり経験を共有し広げていくことは、まさに日韓の歴史の共有になります。地道ですがこういった活動が今後の日韓の歴史を伝えていくなかで重要になっていくと思いますし、互いの誤解を解いていく一助になっていくと思います。市民の会の皆様どうかお気をつけて行ってらしてください。

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2019年3月25日 (月)

無言の語り部たち②~被爆樹

  広島の街を歩くと、至る所で見られる被爆した樹木たち。普段はあまり身近すぎて、ついつい見過ごしてしまいがちですが、気が付くとふと立ち止まって見入ってしまいます。力強い生命力とともに美しさを感じる被爆樹は、人を惹きつける魅力があるのです。原爆による傷跡はケロイドのようにも見え、「よく頑張りました」と、思わず幹をさすりたくなります。あの原爆に耐え、風雪に耐え、猛暑に耐え、豪雨に耐えてきたのです。被爆者の生と死、めまぐるしく変わる街の景色を見守ってきたのです。被爆樹は原爆の被害者として広島市民と共に生きてきたのです。
 広島市の被爆樹リストは90カ所近くがあげられています。そのほかに民間などが管理する樹木も数多くあり、合わせると市内には170本ほどの被爆樹があるようです。ソメイヨシノやツバキ、ウメ、フジ、イチョウ、クスノキなど種類も様々です。被爆当時からそのままの場所に生えている木もありますが、移植されたものもあります。私が知る限りでは被爆樹と分かるプレートがついていますから、判別するのはそう難しくないと思います。ネットでも被爆樹の場所が分かるサイトがありますので、被爆樹を探すことは意外に簡単です。
 先週、広島も桜の開花が発表されました。市内の江波山は花見の名所として有名ですが、ここにも被爆樹のエバヤマザクラがあります。散歩するのにとても爽やかな気候になってきましたから、被爆樹を目当てに花見や散策はいかがですか。凛として空に伸びる被爆樹は、被爆の歴史を語ってくれるかもしれません。

 

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2019年3月21日 (木)

無言の語り部たち①~旧陸軍被服支廠の再利用

 桜の開花宣言が各地で発表されました。散歩が楽しい季節になってきました。いつもの街を少し違う角度から眺めてみるのはいかがでしょうか。
広島市内には被爆建物があります。原爆を受け、そのまま現在も残されている建物のことです。その被爆建物の中でも大きな規模で被爆時の姿をそのまま留めているものに旧陸軍被服支廠(南区出汐)があります。レンガ造りの重厚な趣は当時の陸軍がいかに膨大な予算を使って建設し、運営していたのかが一目で分かります。広島では近年この建物を平和学習の場にする計画が持ち上がっています。
 旧陸軍被服支廠では、かつて軍服や軍靴を製造していました。戦時中は在韓被爆者の方たちも働いていました。被爆後は避難所となり、被爆当時の様子は峠三吉の詩にも描かれています。広島市内に残る被爆建物が次々と壊されたり移築されたりする中で、当時の場所にそのままの姿で建っていることはとても貴重です。古い記事で恐縮ですが、今年1月6日の中国新聞の記事では「2017年度の来場者は1102人」と書かれており、多くの方が関心を示していることがわかります。また建築物としても価値が再考され、同記事では「巨大なコンクリートの屋根裏はほかに類がない。」と専門家からも注目を集めている様子が書かれていました。
 活用にあたって一番の課題は建物の耐震問題です。4棟が現存していますが、1棟当たり約33億円もの耐震費用がかかるようなのです。現在、建物の所有は広島県で、費用をどう集めるのか、具体的にどう活用していくのかといった検討は進んでいないようです。建物として本来持っている魅力が十分にありますから、平和学習としての資料館や民間企業による商業施設など、様々な方面の役割を併用すれば、人を呼ぶことができるでしょう。建物が活用されれば当然地域の活性化にもつながります。こうした被爆建物を活かしていくのも、やはり人ですから、旧陸軍被服支廠の再活用を広島市民一人一人が考えていく必要があります。そしてそのためには、まず多くの方が被爆建物を見に行くことが先決ではないでしょうか。行けば活用されていないもったいなさが、よくわかると思います。被爆建物は広島の財産です。是非、多くの方にご覧いただきたいと思います。

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2019年2月26日 (火)

被爆2世裁判でのこと

去る2月12日、広島地裁で被爆2世裁判の7回目の口頭弁論がありました。原告側から準備書面が出され、国側から出された書面の反論がなされました。弁護団の話しでは、このように裁判が長引くことは通常はないようです。被告である国が書面を準備する時間をしっかりと設けていることで長引いているようです。被爆2世への遺伝的影響について否定する科学的根拠を調べているようですので、今後裁判で何か明らかになることがでてくるかもしれません。科学的根拠が判明すれば、それは2世にとっても嬉しい知らせになります。

裁判終了後の報告会では原告から自分たちの体験談も話されました。生まれてすぐ亡くなった兄弟がいる、若い時に死んだ2世がいるといった身近な経験が次々と出てきました。広島や長崎のような被爆地にいると、被爆者や被爆2世があまりに多すぎて当たり前になっていることが、実は当たり前ではないということも考えられます。裁判とは関係なく、2世の具体的な体験を数多く集めることも、今後の課題となってくるのではないでしょうか。

2世裁判とは直接関係のない話ですが、気になったことを一つ。前回から広島の裁判所に入る際、入念なセキュリティーチェックが入るようになりました。航空会社のようなゲートと金属探知機での身体検査です。この度、次のようなことがありました。ペースメーカーをしている方が、事前の申請通り別の場所から入ろうとした際に体に金属探知機をあてられたのです。事前に申請をさせているということは裁判所は知っているということです。にも関わらず、こうしたことが起こりました。一歩間違えば身体に影響が出る大きな問題です。また歩行が困難な原告は法廷まで行くために、非常に辛い思いをして行くことになりました。なぜなら入り口が1カ所になってしまったために、遠回りを強いられているからです。その方は足の痛みをこらえながら必死に法廷に向かいました。裁判中に刃物を持ち込んだという例があり、こうしたセキュリティーチェックは必要なのかもしれませんが、利用者の身体に苦痛をもたらされるようなことがあっていいとはいえないと思います。今後も裁判は続き、傍聴する方も気を付けなければいけません。効率だけを考えるのではなく、もっと利用者の身になったセキュリティーチェックはできないものでしょうか。

 

 

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2019年2月14日 (木)

集会で感じたこと~韓国での裁判などについて

ご紹介した前2つの集会では韓国で判決が下った元徴用工などの裁判や戦後補償についてのお話が弁護士の先生からありました。日韓条約についての解説もあり、日韓による解釈の違いの理由が見えた気がしました。

例えば日韓条約が朝鮮半島の分断をそのままにする形で結んだこと。国交正常化につながったけれども植民地に対して日本は合法、韓国は不合法としながら、互いが玉虫色の解釈をしたこと。日韓協定は賠償ではなく経済協力であることなどです。こうした日韓相互のずれをそのままにして現状が解決するのは困難だと感じました。さらに日韓条約を結んだ方々の思いを知ることができないことも小さくない原因になっているのではないかと思いました。そして日韓条約の見直しや作り直しは難しいのではないかと話されていた弁護士の先生の言葉に、国民や市民として何ができるのか厳しい現実をつけつけられた気がしました。

 

また植民地支配についての賠償が世界的な問題となっていることも話されていました。戦後補償については他国との違いを話されていました。ドイツではフォルクスワーゲン社やシーメンス社は社史を作る際に労働組合と作り、その過程でナチスドイツ時代に自分たちの会社が何をしてきたのかを調べ直し、戦後の解決に向けていったそうです。カナダ政府は日系人強制収容の補償をする際、日本に来たということでした。日本政府や日本の企業の労組にこうした動きはないようです。このたびの韓国大法院の判決を機に植民地支配について日本政府は、植民地支配の賠償について考えなければいけないし、考える必要があると話されていました。

 

今であればまだ当時のことを間接的にでも知る方々からお話をお聞きすることができます。すでに数多くの方が多方面から植民地時代について調べておられるとは思いますが、さらに違う角度からの調査もしていただければと思います。何度も書いていますが、日本政府も日本人も歴史の事実を真摯に見つめ、伝えていく。そして被害者について何をすべきか考えていく。そして韓国と話し合いをする。このことに尽きるのではないかと思います。

 

 

 

 

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2019年1月28日 (月)

学習会「戦後処理、日本はどのように解決できるか」

新年に入り今月14日には日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク主催の学習会「戦後処理、日本はどのように解決できるか」が行われました。講師には強制動員真相究明ネットワーク事務局次長で日本軍「慰安婦」問題解決全国行動資料チームメンバーの小林久公さんが来られました。この会場も補助席が出て、歩く隙間もないほど大勢の人が参加していました。講演では長年、強制動員問題に関わってこられた小林さんならではの情報が多く、私自身、分からなかった部分を補うことができました。日韓条約について私はきちんと勉強してこなったので、あらためて勉強しなければいけないと思いました。

 

小林久公さんのお話『日本政府は歴史的事実の認定をすることが大事だ。まず被害者の被害に向き合うこと。事実認定は研究者や市民など色々な人が調べているから、日本政府が認めればすぐに解決できるはずだ。被害者が望む解決法をすればいい。日韓条約では、日本政府の立場は外交保護権は消滅しているが、個人の請求権は消滅していないということだ。しかし個人の財産権については日本国内の立法で処理することにしている。韓国人の財産請求権措置法だ。これは韓国人の財産、つまり供託金や郵便局の預金などが「韓国人であると確認できたら、その財産は預かっている人のものになる」というものだ。この立法は日韓条約の年に制定された。またこの立法では精神的な苦痛にはふれていない。そもそも個人の損害をその国を通して請求すべきという日本政府の考えは古い考え方だ。現在の法の解釈は違う。日本の運動家は以前「強制連行」という言葉を使っていたが、今は「強制動員」にしている。そもそも日本の植民地支配そのものが合法といえるものだったのか。日本側の市民運動家もこれまで取り組んできていなかった。日本社会は植民地支配について、悪いことであったという認識をつくっていくことが必要だ。』

 

他の分野と同様に歴史に対する研究も日々進んでいきます。若い研究者や他の分野の研究者も関心を持っているからです。そして歴史に対する考え方や表現などが時代によっても変わってきます。こうした研究などをふまえ、過去の事実を日韓両方で突き合わせていくことがこれから必要なのではないかと思います。それは簡単なことではないし時間もかかるでしょう。しかし何十年かかっても、やり遂げなければいけないことなのではないでしょうか。そして一番大事なのが、この事実を日韓両方の国民が知ることです。私自身も注視していかなければいけません。

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2019年1月24日 (木)

2019年、日韓関係はどこへ向かうのでしょうか

私は広島に来て今年で19年目になりますが、これほど日韓関係が悪かったことはないと感じていますし、また日本人の韓国に対する感情も悪いものばかりが目立って仕方がありません。しかし一方で、若い人の間で起こった韓流は定着し、ポップカルチャーの最前線といった勢いのある人気を得ていることに嬉しさも感じています。わずか2年ほどの間で嫌韓と親韓が水と油のように混じり合うことなく存在している奇妙な状況を目にして、日本人の本音がどこにあるのかを測りかねています。

昨年末から年明けすぐ日本の植民地支配に関する集会が広島市内で次々に行われ会場は超満員でした。こうした集会の場合、知っている方が来られているのが常でしたが、昨年から開催されている集会ではお会いしたことのない方が圧倒的で、朝鮮半島問題に関心を持つ方が多くいらっしゃることを実感しています。来られた方々が集会の何に関心を持ち、何を知り、どう感じたのか。そしてその気持ちをどのような行動で表すのか。いつか聞く機会があれば是非知りたいと思っています。今回から数回に分けて、2つの集会についてご報告します。まずは昨年12月24日に行われた「広島・三菱の強制連行の実態を暴く」からご紹介します。

 

韓国の原爆被害者を救援する市民の会が主催した講演会「広島・三菱の強制連行の実態を暴く」は講師に韓国から許光茂さんを迎えて行われました。許光茂さんは韓国の国の機関に所属して、韓国国内と日本国内で強制動員(いわゆる強制連行のことです)された朝鮮半島の人々の実態を調査された方です。膨大な資料収集に加え、生存者や遺族などから直接聞き取りも行い、日本の強制連行の実態を知る第一人者です。限られた時間の中、流暢な日本語で分かりやすく伝えてくださいました。以下は講演内容です。

 

許光茂さんの話『自分が最初に話を聞いたハラボジ(おじいさん)のことは今でも忘れることはできない。南部の農家の人で国から調査に来たというので緊張していた。片方の耳が空襲で聞こえなくなっていた上に、もう片方も高齢のために聞こえにくかった。そのため筆談となったが話は進まなかった。具体的に話すことができなかったのだ。帰り際、話せない悔しさに涙していた。その後、多くの人と会ったがみんな上手く話せない。私は来日し日本の動員先に行ってみた。ハラボジの気持ちが伝わって来た。ハラボジたちは当時、日本語も分からず、どこの会社に派遣されたかも知らない。自分がどこにいるのか場所も分からない。現場では日本語の達者な朝鮮人が韓国語で指示したため、日本語は必要がなかった。そして「余計なこと言うな」「聞くな」と何も教えてもらえなかったのだ。私は現地に行ってみてハラボジが何も話せない理由を理解した。強制動員は計画的だった。動員先に出身者がだぶらないようになっていた。強制動員は出身者によって反応が違う。例えば東北側から動員された人は山で畑がつくれないため、食べ物に困っていた人たちだった。だから炭坑の仕事はひどいが「3食、食べられた」と言う。しかし南西側からの人は食べ物が豊富な地域で料理も美味しく、畑仕事の合間に簡単な食事をするような習慣のある人たちだったから「3食しかない」と言う。3食では足りないのだ。しかも食事の内容は握り飯1個だ。日本人と同じ量だが感覚が違うのだ。また炭鉱は学歴による動員先の選定があった。炭鉱の仕事は1度働くと逃げるので、逃亡防止のために監禁、虐待が行われた。頭の切れる人は炭坑に行かせず、知識のない人や素朴な人、農民を連れて行った。軍需会社は学歴の高い人が行かされた。日本側としては文句を言わないだろうと考えたように思う。また朝鮮半島内の動員については、本人も周囲も強制連行だと思っていないところがある。海を渡ると強制連行だが、国内は違うと考えているようだ。募集、官斡旋、徴用と言葉は違うが、監禁、虐待、強制労働と現場でやっている中身は同じだ。こうしたことは日本政府や総督府が関わらないとできないし、そもそも朝鮮人は簡単に移動できないようにしていた。あるハラボジは話したあと「すっきりした」と言った。今まで誰も耳を傾けてくれなかったからだ。私(韓国政府)が来たので喜んで話したようだ。日本政府が来て話を聞けば恨みもなかったのではないかと思う。日韓両政府とも話を聞けばと感じる。』

 

 植民地支配により朝鮮半島の人々に対して何が行われたのか。強制動員先で何があったのか。市民レベルでは植民地時代を理解しようとしている人たちが確実にいます。歴史の事実を知る人が増えれば、日韓に横たわる溝も少しは浅くなるのではないかと思っています。

 

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2018年12月14日 (金)

2018年を振り返って

 平成の年号が最後となった今年は色々なことが起こりました。最も強く残っているのが日本国内各地で発生した自然災害と、朝鮮半島での南北首脳会談でした。西日本豪雨災害では先日福塩線の一部が再開し、5カ月ぶりにようやく福山―三次間全線が開通するというニュースが流れていましたが、災害の傷跡はまだまだ残っている状況です。また朝鮮半島の南北首脳会談は本年中には終戦宣言かと思いましたが、やはりそう簡単ではなかったようです。戦争が続いている状態が日本のすぐ隣で起こっている状況では、日本は平和だとは残念ながら言いきれません。しかし南北の首脳が何度も会談しているということは終戦への道のりに少しずつですが近づいている気がします。

 前ブログでも書きましたが、今年の韓国の大法院での元徴用工裁判における日本企業の敗訴判決は先の戦争がきちんと終わっていないことをつきつけられた気がします。戦後73年経ったというのに日本政府は何をしているのでしょうか。日本政府をはじめ私たち日本人が日韓併合時代についてきちんと考えてきていれば、加害の歴史に向き合っていれば、戦後70年近く経ってから裁判が起こされるようなことはなかったと思います。日韓併合時代、日本は朝鮮半島の方たちに対しては加害者です。日本から朝鮮半島に行き、朝鮮半島の資源を奪っていったことは間違いのない事実です。植民地時代の歴史は日本の歴史でもあります。植民地にされた方々がどういう思いだったのか。日本人は何をしてきたのか。日本人の全てが悪人で、やったこと全てが悪だったとは思いませんが、朝鮮半島の方々が日本の何に対して『恨(はん)』というしこりを残しているのか。それを知れば先の戦争のけじめをつけられるのではないでしょうか。元徴用工の方たちの裁判内容を知ると、日本政府が、日本人が何をすればいいのか理解できるかもしれません。

 先月末、また悲しい別れがありました。広島の在日コリアンの被爆者が亡くなったのです。出会いは十年近く前だったと思います。在米コリアンの被爆者の方と共に食事をしました。おしゃれでお話がじょうずでいつも笑顔の可愛らしい方でした。今年、数カ月かけて原爆症認定申請のお手伝いを行い、7月に提出した矢先のことでした。体調がいいとは決していえる状態ではありませんでした。10月頃に入院し、1ヶ月ほどであっという間に亡くなられたそうです。ご家族の方もまさかこんなに早く亡くなるとは思わなかったそうです。原爆症の認定は申請後、1年近くかかると言われました。申請者はみな被爆者で、重病を抱えているのです。もっと早く認定審査をしていただければ、気持ちが安らかになる被爆者が大勢いらっしゃると思います。審査期間の短縮を切望します。

 私自身は長年抱えている広島の在日コリアンの被爆者1世2世の映像を今年中にまとめることはできませんでした。とはいえ新たに取材させていただき、さらに深いお話を聞くことができました。来年こそ完成を目指して、頑張ります。

 

 いつもこの小さなブログに起こし頂き、ありがとうございます。

 来年も引き続き、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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«韓国の元徴用工裁判、大法院判決を受けて広島で記者会見