2019年9月 4日 (水)

映画「ひろしま」を見て

広島市内の映画館で「ひろしま」(関川秀雄監督、1953年製作)を見ました。封切映画館で1日に1回のみの上映だったせいか満席で、当日行ってチケットを購入できませんでした。翌日のチケットを買い、久しぶりに満席の映画館で映画を見ました。映画「ひろしま」は広島に引っ越してきた始めの頃にレンタルビデオで見ていました。20年近く前のことです。広島に来た当初、被爆関連の本や映像などを探し見ていたものの中の一つとして本作を見ました。被爆の様子が描かれているという印象でした。この度、テレビのドキュメンタリー番組で映画「ひろしま」の舞台裏を知りました。被爆者自身が被爆者役で参加しているということ、広島市内に巨大セットを設けていること、被爆者たちから寄せられた被爆時の品物などが使用されていること、原爆を批判するような内容が描かれていること、広島市民が大勢参加したことなど、番組で知ったことを頭に入れ改めてみると、全く違った印象を受けました。

 

映画「ひろしま」は「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げた日教組が製作しました。広島市内の教師が被爆した生徒たちに被爆のことを作文で書かせ、それをまとめた本『原爆の子』を元にしています。映画は被爆した子供たちがその後どのように生きてきたのかが群像劇で描かれています。悲惨な生活を強いられた子供たちの生き様に胸を痛めた当時の先生たちの思いが伝わってくるようでした。

 

広島に来た当初に見た「ひろしま」と今夏に見た「ひろしま」の印象の何が違うのか。それは私自身の被爆者との出会いという経験でした。私は2002年から広島と朝鮮半島との関係を調べ始め映像にまとめてきましたが、現在まで数多くの被爆者の方と出会ってきました。在韓被爆者支援の過程で日本人の方、在日コリアンの方、韓国人の方、ブラジル人の方、アメリカ人の方と、そう多くはないのですが様々な被爆者の方と出会い、話をお聞きする機会に恵まれました。長年のつきあいになった方もいます。加えて被爆関連の本や資料なども読むことになりました。小さな積み重ねでしかありませんが、被爆について自分なりに感じることがありました。在韓被爆者の手帳申請や手当申請、在韓被爆者裁判で知った事柄から被爆者が置かれた身の上を知りました。こうした私なりの被爆者との出会いが映画「ひろしま」を見た印象を変えたのでした。また映画を見ながら被爆者役で出演した被爆者たちはどのような思いで参加したのだろうか、撮影中に心身は大丈夫だったのだろうかなど、被爆者たちに思いを巡らせていました。

 

2019年の夏に見た「ひろしま」は、広島に起きた出来事そのものでした。私が出会った被爆者たちが経験したことが描かれていました。まさに“ひろしまの思い”が映像となっていました。「いい映画」だと思いました。もし私が被爆者の方たちと出会っていなかったら、想像力の乏しさから、知識のなさから、今も“ひろしまの思い”を理解することはできなかったかもしれません。私が広島で経験させていただいていることの尊さがよく分かる、そして私は原爆の、被爆者の何を知っているのだろうかと改めて自分自身を振り返る作品となりました。

 

被爆者の方たちを知らなければ映画「ひろしま」を見て理解できないということではありません。しかし「ひろしま」を見れば、被爆者が何を見てきたのかの一端を知ることができると言っていいと思います。被爆者が少なくなっていき、被爆体験の継承が課題となっている今日、映画「ひろしま」は語り部の役割を果たしていくでしょう。もっともっと広がり受け継がれ続ける作品になっていくと感じました。未見の方は是非、ご覧いただければと思います。

 

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2019年8月28日 (水)

リニューアルした広島平和記念資料館に行ってきました

今年4月にリニューアルオープンした広島平和記念資料館に行ってきました。行きたいと思いつつなかなか都合がつかなかったため結局、お盆に出かけることになりました。人気があると聞いていましたが、お盆の真っ最中だったためか入場待ちが1時間以上という行列で驚きました。閉館時間が午後8時まで延長されていたため夜に出直したことで、比較的ゆっくり見ることができました。入館者は気のせいか外国人と日本人の家族連れが多いような気がしました。

 

リニューアルした館内はとても見易い構成でした。資料館の元館長がある場所で「聞いたことは忘れる。見たことは覚える。体験したことは理解する。資料館は理解することを目的にリニューアルした。展示意図から説明すると、一人一人の苦しみ、背景を強調した。あの日、そこにあったものの展示をしている」と話されていたのですが、確かに原爆犠牲者の顔が見える展示になっていたと思います。顔写真と遺品が対となって丁寧に説明され、あの日あの時までは確かに生きていたことを感じさせます。被爆二世の友人は「見ていて涙がでてきた」と言っていました。今回、驚いたのは報道カメラマンの福島菊次郎さんが撮影したある一家の被爆から家庭崩壊までが展示されていたことでした。被爆者は被爆してからも辛い人生を生き続けています。それは壮絶な生き様です。その生き様も原爆の被害として訴えていました。

 

在外被爆者も以前と比べてスペースが広がりました。郭貴勲さんが提供した朝鮮半島出身者の軍隊手帳や除隊証明書などの資料は普段なかなか見ることはできないものだと思います。郭貴勲さんの大きな顔写真を見て、ようやく在韓被爆者の存在、その姿が実態として見えてきたように感じました。

 

ここからは少し辛口になります。リニューアル展示は文学的には成功しているといえますが、実相となると私は首をかしげてしまいます。被爆時の様子が分かるものは被爆者が描いた絵です。被爆後、記憶に残った風景が絵で表現されているのです。絵画はリアルに伝わります。しかし、これだけでいいのでしょうか。

 

まず前々から言われていた被爆時の様子を再現した人形。これは人形そのものが「怖い」という声があったというのはよく聞いていました。そしてリニューアルの際に残すか残さないかで、かなり議論されていました。結果、残していませんでした。残さない理由がどこにあったのか、説明がされていたのかもしれませんが、私には分かりません。私は残した方がいいと思っていました。なぜなら人形は被爆の実相を表現していたからです。そもそも原爆の被害の大きさは他に類をみないものです。たった1発で1つの街が全滅してしまうのです。その被害のすさまじさをどう表現するのか。人形は見ると「怖い」かもしれませんが、原爆によりボロボロになった被害者のリアルな姿でした。

 

想像できるでしょうか。原爆が投下された時の様子を。

 

1発の原爆投下により街は建物が全て破壊され、手足頭胴体がバラバラになり、内臓は飛び出し、皮膚は焼けただれどろどろになり、人の形すらしていない遺体が地面を覆いつくしました。生き残った数千もの人たちは裸同然で遺体の上を歩きながら、どこかに向かったのです(それは様々な場所です)。なぜ遺体の上を歩いたのかというと、地面が熱いからです。遺体の上は熱くないので遺体を選んで歩いたのです。

 

そして何日も経たないうちに遺体や生きている人に蛆がわきました。遺体にあふれた街中の匂いはそれはそれはひどいもので、何とも形容しがたいものだったと言います。被爆者の話を聞いていつも感じるのは、この「匂い」のひどさです。救援に入った兵隊の方はこの匂いでおにぎりを食べられず吐いたと話していました。

 

本来、その被害は文字では伝えきれない惨状でしょう。リニューアルした展示内容にはこうした「原爆特有の酷さ」「被害の大きさ」が感じられないのです。これでは、空襲で焼け出された人々との「差」をどこでつけるのかと思います。原爆の被害は圧倒的な規模とその特殊性です。原爆によるすさまじい熱線、爆風、放射線。人々の体に現れた嘔吐、下痢、脱毛、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、口内炎などの症状。今の展示ではこれらを感じることはできません。いくらガラス瓶が曲がっていても、瓦がぶくぶくになっていても、それが人間に、自分に起こるとどうなるのか、想像するのは困難です。もちろんパネルでの説明はありますが、今の展示では原爆を勉強していない人には体験、理解は難しいと思います。今の技術であればVR体験も可能でしょうが、まともに再現されれば一目みただけで大人でも卒倒すると思います。しかし被爆者はそこにいたのです。せっかくの原爆の資料館ですから、経験された方々の1万分の1でいいから、視覚的に見せてほしいと思います。「怖い体験」が必要なのです。体験することで、原爆は人道に反する爆弾、核兵器は絶対使用禁止だということを初めて理解することができるのです。

 

入り口の原爆投下の状況は上から、つまり投下した側からの視点です。原爆が上から下に向かって落ちていく様子が映し出されているのを見て、私たちは何を感じればいいのでしょう。落とした人の気持ちなのでしょうか。そうではないはずです。雲の下から私たちは感じなければいけません。地面の上で熱線、爆風を感じなければいけないのです。一人一人の人生があったのは分かりましたが、あの時どのような恐ろしい目にあっていたのかは、残念ながら今回の展示では理解することはできないと感じました。

 

地獄だと言いました。

光が怖いと言いました。

大きな音が怖いと言いました。

毎年8月6日は家から出ないと言いました。

被爆者の声です。

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2019年8月26日 (月)

ヒロシマ2019年8月6日

朝焼けが山の稜線を美しく見せている空でした。私は5時すぎに家を出て平和公園に向かいました。公園に着くと、いつものように大勢のマスコミがカメラを構える中、参拝者が花や線香を持ってお参りにきていました。しかし、参拝者はそう多くなく、心なしか人が少ないように感じました。6時すぎからの宗教者たちによる慰霊祭の頃にはすでに雨がぽつりぽつりと降り始めていました。

平和祈念式はテントの下にある席ではなく、公園内に設置されているモニターの前に行き、カメラを構えました。いつもはモニターの前でも大勢の人であふれる状態なのですが、今年は少し離れた場所にいたせいか、こちらも人が少ない感じがしました。式典が始まる頃にはポツポツと大粒の雨が降り、時間を追うごとに強くなりました。挨拶の頃になると傘がなければべしょ濡れになるほどの雨となりました。アメリカが原爆を投下してから74年目の広島、86の式典は最初から最後まで雨の中で行われました。

 

松井広島市長による平和宣言は事前に報道されていたように、日本政府に対し、核兵器禁止条約への署名・批准を訴える言葉が入っていました。以下は平和宣言の一部です。

 

「日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現に更に一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。」

 

なぜ広島市民ではなく「被爆者の思い」という表現を使ったのかわかりません。松井市長の平和宣言は毎年どこか他人事のような内容だと感じます。松井市長は被爆二世ですから、もっとご自身の立場からの、踏み込んだ発言でもよかったのではないかと感じました。

「日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。」に加えて「そして被爆者の命をかけた思いは被爆二世である私自身の強い思い、広島市民の心からの願い、そのものです。」という言葉があれば、被爆地ヒロシマの、被爆二世である松井市長の肉声として、世界の人々の心に伝わったのではないかと思うのです。

 

9日の長崎市長の平和宣言はいつものように強く具体的に日本政府に訴えていました。

「日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けています。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください。そのためにも朝鮮半島非核化の動きを捉え、「核の傘」ではなく、「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯の検討を始めてください。そして何よりも「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮することを求めます。」

私はこの「唯一の戦争被爆国の責任」「一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください」の2つの言葉が、何より被爆者の思いを表していると感じます。

 

被爆者の平均年齢は82歳を超えました。家族や参拝者が少なく感じたのは、決して天候や気のせいではないと思っています。被爆者が生きているうちに核のない世界を見せてあげたいのです。日本政府の核兵器禁止条約への署名、批准は長崎市長の宣言通り「唯一の戦争被爆国の責任」だと思います。原爆の被害国としての役割は確かにあるのです。日本政府が署名・批准すれば、各国が後をついていくと信じています。

7月8日中国新聞によると核兵器禁止条約への署名70カ国、批准国23のようです。批准があと27増えれば条約は90日後に発効になります。被爆した人たちは水を求め続けました。式典で雨が降ったのも、空からの願いだったのかもしれません。

 

 

 

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2019年7月31日 (水)

ヒロシマとピースツーリズム

広島市は徒歩や自転車、バスなどで平和関連施設をめぐるルートをネットで紹介するピースツーリズムを行っています。スマホ片手に広島市内を回ってもらおうというものです。ピースツーリズムは一般の観光と何が違うのでしょう。ピースツーリズムを一言でいうと「考える観光」です。

 

去る7月20日に広島国際会議場で広島大学平和センター主催の「2019年度国際シンポジウム」が開催されました。テーマは「HIROSHIMAとピースツーリズム」です。国内外から研究者が来られ、様々な角度からピースツーリズムに関する話題が提供されました。

 

ヒロシマに来る観光客に関して、観光サイト「トリップアドバイザー」の口コミを分析された先生がおられました。広島に来る観光客にとって平和記念資料館や平和公園は「考える場所」だといいます。観光に来たのに現地に来たら見方が変わったというのです。平和について考えたのです。口コミは英語つまり外国人観光客でも日本人観光客でも同じ結果だったそうです。

 

また韓国の大学の先生は朝鮮半島の非武装地帯観光について話されました。当初、韓国政府は国民に対し保安意識を持たせるために安保観光を始めたそうです。北朝鮮が掘ったトンネルを見せ、そして北朝鮮の様子を見せるために展望台を設けたのです。果たして韓国の国民がその非武装地帯の観光地に行って何を感じたかというと、韓国政府の意図とは全く違うものでした。先生は「現状を見ながら、違う考え方をする。過去を見ながら暴力ではないものを見る。韓国の市民は考えるようになった。そこにある建物を見るのではなく、動員された人を見、声を聞くのだ。人々は和解と平和を見出した」と話されました。韓国国民の目に映った非武装地帯は北朝鮮の人たちは敵ではないということでした。現在の非武装地帯の目玉は丹頂鶴だといいます。人が住まないのが原因かどうかは分かりませんが、野生の丹頂鶴の生息地となっているため、鶴の生態を見るための公園が整備されたのだそうです。丹頂鶴が優雅に舞う光景はさらに平和意識を持たせる場所に変わっていったのです。

ピースツーリズムは歴史を目の前に見ながら、過去を感じ、未来を考えるツアーと言ってもいいかもしれません。

 

広島を訪れる外国人観光客は年々右肩上がりに増加しています。最近は市内の被爆樹や戦争遺跡を回るツアーにも外国人観光客からの関心が集まっているようです。被爆樹や戦争遺跡に触れると、そこに被爆前の人々の生活を感じることができます。ヒロシマのピースツーリズムは被爆者に会って話さなくても、被爆者の気持ちや体験を感じ取ることができる貴重な旅なのです。

 

そしてこれが一番大事なことなのですが、ピースツーリズムでは、観光客と被爆者の心の出会いが生まれます。なぜなら観光客が広島の過去を通じて平和や戦争を考え、自分たちの国の平和について考えた時、被爆者はヒロシマの心が伝わったと感じるからです。観光客は被爆者と会っていなくても、ヒロシマで自国の平和を考えた時、被爆者の心と触れ合ったも同然なのです。

 

 

 

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2019年7月17日 (水)

86の広島からの平和宣言に注目です

蝉が鳴きはじめました。そしてもうすぐ今年もあの日がやってきます。8月6日の平和記念式典です。毎年読み上げられる広島市長による平和宣言は注目されていますが、今年は特に関心を集めています。というのも、日本政府に対して、核兵器禁止条約の署名・批准を求める文言を盛り込む方針であることが分かったからです。

平和宣言は核兵器廃絶と恒久平和への願いを世界に向けて発信するメッセージです。そこには広島市民、被爆者の思いと願いが込められています。広島市のHPによると、広島市民の平和への願いから1947年から平和祭が行われることになり、式典の中で浜井信三市長が平和宣言を行ったことが始まりのようです。

歴代の広島市長は時代に合わせながら、ご自身の思いも込めて文言を作ってきました。特に1991年の平岡敬市長の平和宣言は画期的な内容でした。日本の侵略戦争と植民地の人々への謝罪が含まれたものとなったからです。「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」との言葉には、平岡市長ご自身が関わってこられた数多くの朝鮮半島の被爆者たちへの思いが込められていたと思います。

今年の平和宣言に関しては被爆者団体や反核団体などが松井市長に対し、核兵器禁止条約の署名・批准を日本政府に求めるよう強く要望していました。7月13日の中国新聞によると「1日も早い廃絶を目指して禁止条約を推進する被爆者たちの声を重んじ、政府による署名・批准を「被爆者の思い」と明言する方向。」と書かれていました。12日には有識者や被爆者の懇談会において文案が了承されたということなので、内容はほぼ決定されているということでしょう。1945年から74年間、被爆者が願い続けてきた核廃絶禁止条約が発効されようとしているのです。被爆地である広島市長が平和宣言で言わないでいつ言うのかと思います。

 

浜井信三市長の初めての平和宣言をご紹介して、今回は終わりたいと思います。

「今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。ここに平和塔の下、われわれはかくのごとく平和を宣言する」。

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2019年6月21日 (金)

映画「主戦場」を見ました。

ミキ・デザキ監督のドキュメンタリー『主戦場』を見ました。慰安婦問題をテーマに、慰安婦問題とは何なのかを直球で描いたドキュメンタリーです。慰安婦の方々が出てくるわけではありません。慰安婦をめぐり日本とアメリカ、韓国でどんな立場の人々がどのように考え、どう伝えているのかがまとめられています。「人数」や「強制連行」「性奴隷」などについて研究者や活動家、ジャーナリストがインタビューで答えています。言葉と言葉の応酬でつないでいるため、122分という長さですが時間があっという間にすぎてしまいます。社会問題を取り上げていますが、チラシに書いてある「スリリング」という通り、誤解を恐れずいうと面白い映画でした。

 

監督は日系アメリカ人で、内容は自身が抱いた慰安婦問題にまつわる疑問を日本、アメリカ、韓国で研究者や活動家、ジャーナリスト、政治家など様々な人に会い、質問を投げかけていくというものです。取材人数27人という数に感心しましたし、やはり最大の特徴である保守派の登場に興味を覚えました。日頃、ネットでは言動を目にしますが、はっきりと本人の口からその言葉を聞くと、やはりインパクトがあると感じました。慰安婦問題で対立する意見を持つ両者を取材することは日本にいる日本人のインタビュアーではできなかったことだと思います。日系アメリカ人という立場が取材の成功に導いたのだと感じました。

 

映画は先に上げた「人数」「強制連行」「性奴隷」といった論争を監督ならではの検証と分析で、慰安婦問題が抱える問題や保守派の詭弁をあぶりだしていきます。監督が情報を集め、知り得たことをまとめて、反証させながら伝えていくのです。個人的には顔を見て聞くに堪えられない発言もありましたが、思想の根本が垣間見えたことは日本で起こっている慰安婦問題を考える上で重要なことだと思いました。また私自身が知らなかったことも多くありました。特にアメリカの地方議会で話し合われている内容など初めて聞くものでした。本作品は慰安婦の何についてなぜ議論しているのかが、ざっくりと理解できるようになっていると思います。何も知らない人が見ても、なんとなく分かるような作りになっているので、議論に置いてけぼりになることはないと思います。

 

私自身の立場としては、人数はわかりませんが、慰安婦は「強制連行」された女性であり、「性奴隷」だったと思っています。強制連行とは、騙されたり、売られたりした女性も含まれます。理由は個人に仕事の内容の選択ができなかっただろうし、仕事を辞める自由がなかったと思われるからです。慰安婦問題を考えるきっかけにと思わずにエンターテインメントとして『主戦場』を楽しみ、その上で慰安婦問題を知るきっかけになればいいなあと思います。ちなみに監督は広島大学に留学経験があるようです。中国新聞の記事によると広島での経験が人生を変えたとインタビューに答えていました。

 

 

 

 

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2019年5月30日 (木)

日本の被爆者援護の根幹について書かれた意義深い論文~ 『原爆被害者対策基本問題懇談会(基本懇)についてー何が語られ、「報告」はどのようにつくられたか』田村和之・広島大学名誉教授

私は戦争犠牲者に関して受忍論はどうしても認められません。国民が戦争を望んだわけではないからです。『賃金と社会保障№1730』に掲載された田村和之先生の『原爆被害者対策基本問題懇談会(基本懇)についてー何が語られ、「報告」はどのようにつくられたか』を拝読しました。日本の被爆者支援がどういう理念で行われてきたのか経緯が詳細に書かれています。被爆者援護法の核心部分が分かる非常に意義のある論文だと思いました。

 

被爆二世裁判を傍聴する中で、この原爆被害者対策基本問題懇談会(以下、基本懇)のことは聞いてはいましたが、本論で基本懇の全体像が見えてきました。読み終わって最初に感じたことは、在韓被爆者の孫振斗が起こした裁判がいかに重要であったのかということでした。そして、この孫振斗裁判まで被爆者支援について理念なく行ってきた国の姿勢に驚きました。加えて、そもそも被爆者は国にとって戦争犠牲者であることを認めたくない存在だったということも明らかになりました。

 

本論は「はじめにー基本懇とは」「基本懇の設置経緯と目的」「基本懇における主な議論」などの章に分かれ、基本懇は何のために設置され、何が話され、どのように報告されたのかが、達意に述べられています。公開された会議の速記録を基に、田村先生は被爆者支援に対する国の考えや、基本懇委員の思想を検証し、論考を進めていきます。

 

基本懇の始まりは在韓被爆者裁判でした。孫振斗裁判で最高裁が「原爆医療法が国家補償の趣旨をもつ」と下した判決により、被爆者援護の法律を再検討することになったのです。政府が被爆者援護の基本理念を明らかにするという目的で基本懇は設置されました。構成メンバーは「斯界の権威」と目される人物たちでした。基本懇では「原爆の人体影響」や「原爆による特別の犠牲」などが14回に渡って議論されました。基本懇と厚生省との攻防や各委員の思想など、田村先生は開示されている文書から読み解いていきます。そして基本懇から出された報告書が現在までの国の被爆者行政の指針になったとしています。

 

田村先生は末筆で、基本懇で「在外被爆者対策を視野の外においたこと」と、斯界の権威が集まっているにも関わらず「被爆者と原爆被害に関して不正確な認識や誤解に基づく発言があったこと」に言及し、これは問題であると結んでいます。

 

そもそも国は被爆者に対して積極的な支援を考えていませんでした。第五福竜丸事件によって国際問題化し、被爆者の対策を考え始めたという経緯があります。まず原爆医療法ができ、その後から社会保障的な「特別措置法」ができました。この2つの法律が1本化された被爆者援護法が施行されたのは1995年です。戦後50年近く経ってのことです。在外被爆者支援はご存知のように2000年以降です。田村先生は被爆者に対し国家補償であると認めると他の戦争被害者にも補償が広がるのを国や自民党が恐れていたと分析します。最高裁の判決をも認めない被爆者援護法とはどういうものなのか。是非、論文をお読みいただければと思います。

 

 

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2019年5月12日 (日)

ドキュメンタリー映画「アイたちの学校」を見ました。

私はこれまで札幌と広島の二か所の朝鮮学校にお伺いしたことがあります。広島では文化祭などのイベントにも伺ったことがあり、美味しい朝鮮料理を頂いたことが記憶にあります。札幌も広島も学生さんたちは礼儀正しくて仲が良さそうでした。父兄も含めて皆んなが家族のようで微笑ましく、羨ましく思いました。GW中にドキュメンタリー映画「アイたちの学校(髙賛侑・監督)」を見ました。日本全国にある朝鮮学校の歴史を描いたものです。朝鮮学校のドキュメンタリー映画はこれまでも「ウリハッキョ」や「60万回のトライ」を拝見し、これで3本目となります。今回は前2作とは少し違い、朝鮮学校の歴史がしっかりと描かれていました。

本作の朝鮮学校の舞台は大阪です。1910年の日韓併合から始まる朝鮮半島と日本、現在の朝鮮学校に繋がる歴史が分かりやすく述べられていました。特に「423阪神教育闘争」に時間が割かれており、当時の社会状況や在日コリアンの方たちの熱い熱い思い、日本側の理不尽な対応や差別が丁寧に映し出されていました。現在係争中の高校無償化裁判は戦後から何も変わっていない日本社会が浮き彫りになっており、日本人として考えさせられました。上映後はトークイベントがあり、この日は朝鮮学校の教員と卒業生が登壇しておられました。劇場にはかなり人が来られていましたが、上映後ほとんど席を立つことなく、最後まで話を聞いておられました。

子供たちから教育を奪う権利は誰にも無い筈です。ましてや自分のルーツである朝鮮半島のことを学ぶ場所を他民族の日本人が取りあげることが許されるのでしょうか。他民族社会の日本は、これまでも異文化を尊重し吸収して日本をつくりあげてきたのではなかったのかと思います。教員の方は「朝鮮学校は在日にとってなくてはならない場所。守らなければならない場所」だと訴え、映画の中では朝鮮学校から東大に入った男性が「朝鮮学校を自分を肯定してくれるものを入れてくれる袋だ。絶対なくてはならないもの」と言葉を強めました。朝鮮学校で人権教育を行っておられる司会進行の日本人の方が「子供たちから今も差別を受けていることを聞き驚いた」という言葉にぎょっとさせられました。日本人が朝鮮学校を知ることは、日本社会がどんな社会でできているのかを知ることになると思います。是非、ご覧いただきたい映画です。

 

 

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2019年4月29日 (月)

「被爆者はどこにいても被爆者だ」朝鮮半島被爆者の支援者集会に参加してきました

韓国の原爆被害者を救援する市民の会・広島支部主催の「被爆者はどこにいても被爆者だ」が先週25日に市内で開催されました。これは先日リニューアルオープンした広島の原爆資料館に韓国の被爆者・郭貴勲さんが資料を提供し、来広することになっていたため、郭貴勲さんに記念講演をしていただこうと企画されたものでした。しかし残念ながら、郭さんのお体の大事をとって来日はならず、当日はビデオレターでの講演となりました。集会は大盛況で、大勢の方が参加されました。今回は集会の様子をご紹介します。

 

会は2部構成になっており、1部では郭貴勲さんのビデオレター、2部は韓国の原爆被害者を救援する市民の会・会長の市場淳子さんによる「在韓被爆者の現状について」、在朝被爆者支援連絡会議・役員の金子哲夫さんによる「在朝被爆者の現状について」、それぞれ講演がありました。

 

ビデオレターでは郭貴勲さんが流暢な日本語でお話をされていました。徴兵され被爆して帰国するまでの体験が、まるで昨日のことのようによどみなく語られ、被害者にとっての経験は歳月とは無縁のものなのかもしれないと感じました。郭貴勲さんの御見事な日本語はよく存じ上げていますが、日頃、日本語を使う機会がほとんどないはずなのに、お変わりなく流暢で本当に驚きました。

 

2部での市場淳子さんのお話は韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下、市民の会)の活動についてでした。市民の会の設立目的は「韓国の被害者支援」「日本政府に植民地支配の謝罪と賠償をさせること」だったといいます。加えて「日本社会において、日本政府が植民地支配の反省をしないことを認識させること」でした。在韓被爆者支援の一環として裁判を行い、裁判で勝ち取った末に日本からの支援を受けることができるようになりましたが、まだ「謝罪と賠償」は残っています。市場さんは「初心に立ち返って運動をしていかなければいけない」と締めくくりました。

 

金子哲夫さんによる「在朝被爆者の現状について」では、昨年の訪朝報告と厚生労働省との交渉について話されていました。在朝被爆者支援連絡会議は去る4月22日、厚生労働省に対し在朝被爆者支援について要望を行いました。要望内容は在朝被爆者について「日本政府が無策であったことへの謝罪と基本的な方策を明らかにすること」や、「人道上の立場から緊急の方策を講じること」などで、北朝鮮政府との協議を求めました。しかし厚生労働省の回答は、「北朝鮮に居住している被爆者であっても被爆者援護法が適用されている」ということでした。確かに中国の北朝鮮領事館を介せば、手帳申請や手当申請ができるかもしれません。しかしそれができないため、在朝被爆者支援連絡会議ができ、日本から政府に要望しているのです。金子さんは「厚労省は国交断絶のことをいうが、人道支援であれば援護法に関係なく支援できるはずだ。共和国の被爆者の願いも被爆者援護法の適用ではなく、人道的支援なのだ。今までも施行規則の中でやってきているので、変えようと思えば変えられる」と、日本政府の柔軟な対応を強く訴えていました。

 

熱心に話を聞く方々の姿に、このように歴史の事実を知ろうとする方々がすこしずつ増えれば、日韓関係も変わってくるのではないかと感じます。またこうした集会を韓国でも行うことができれば、何か新たな道も見えてくるかもしれないと思いました。

 

 

 

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2019年4月 9日 (火)

日韓で被爆者の歴史の共有を。市民が国境を越え新しく日韓の団体結成。

日韓の関係は政治的には混迷混乱が続き、なかなか収束に向かいそうにありません。せめて互いの国民同士はよい関係を築きたいと思うのですが、ネットでの感情的な意見を見ると、簡単にはいかないように感じてしまいます。実際に韓国人とつきあったことがあるのか、お話ししたことがあるのか疑問に感じることもしばしばあります。私が今まで出会った韓国の方々は人情が厚く面倒見がよくて、おつきあいすると楽しい方たちばかりでした。韓国に行って、嫌な体験はほとんどなく、むしろお世話になることが多かったというのが私の経験です。ですからまず韓国の方とつきあってみる、会って話してみることが理解の第一歩だと感じます。

私がお世話になっている「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部(以下、市民の会)」は今月19日、韓国の被爆者団体である「韓国原爆被害者協会大邱支部」と交流団体を作ることが分かりました。市民の会は韓国原爆被害者協会と40年来のつきあいがあり、在韓被爆者が来日した際のお世話や被爆者手帳申請のお手伝いをしたり、在韓被爆者裁判では全面支援を行うなど、深いつながりがあります。在韓被爆者裁判の結果、被爆者援護法における在外被爆者と日本在住被爆者との差がほとんどなくなり、まだ課題は残りますが市民の会としては大きな役割が一段落したところでした。そこで以前から韓国と姉妹提携を結ぼうと言う話が出ており、今回の4月の訪韓で新しく団体を作ろうということになったようです。

残念ながら私は参加できませんが、広島からは10人程度、韓国では30人程度が参加し、集会や交流会などを開くようです。広島側にも日本人や在日コリアンの被爆者がおられます。被爆体験の共有や継承、被爆者問題など、日韓の被爆者や支援者が互いの知識の交換をするようです。

日本と韓国の歴史が重なる被爆者の証言は日韓にとって、とても貴重なものです。被爆者の平均年齢は日本では82歳、韓国でも79歳と被爆時は幼い方が多くなり、被爆証言ができる方々が少なくなってきています。さらに被爆者数も年々少なくなっています。こうした中、市民同士がつながり経験を共有し広げていくことは、まさに日韓の歴史の共有になります。地道ですがこういった活動が今後の日韓の歴史を伝えていくなかで重要になっていくと思いますし、互いの誤解を解いていく一助になっていくと思います。市民の会の皆様どうかお気をつけて行ってらしてください。

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