2019年11月30日 (土)

戦時中の朝鮮半島の人々の遺骨

戦時中、日本軍の兵士は海外の様々な戦場で命を落としています。現在、ロシアやフィリピンなどから収集されたご遺骨が徐々に日本に戻っています。しかしDNA鑑定の結果、そのご遺骨が日本人のものでないなど問題も出てきています。1日も早く日本に戻ってきてほしいのですが、そう簡単にはいかないようです。

 

日本にも遺骨問題はあります。戦時中、徴用や生活のため日本に働きに来ていた朝鮮半島の方々のご遺骨が全国各地に埋葬されているのです。韓国側も日本側も調査していますが、人数ははっきりとしていません。朝鮮半島出身者徴用工の遺骨問題は日本の国会でも度々質問されています。日本政府は韓国政府と話しあいを行い、韓国へ返還を行っていますが簡単にはいかないようです。現在、全国調査し発掘された遺骨の一部は、東京都目黒区祐天寺に納められ、毎年「韓國出身戦没者還送遺骨追悼式」が行われています。祐天寺などからはぽつんぽつんと韓国に返還されていますが、多くのご遺骨はまだ日本に眠っています。

 

今年1024日、沖縄で「日帝強制動員犠牲者遺骸に関する国際シンポジウム 沖縄戦戦没者遺骨調査並びに韓国人遺骸奉還のための提言」が開催されました。主催は日帝強制動員被害者支援財団・民族和解協力汎国民協議会でいずれも韓国の団体です。この会に私自身は参加してはいないのですが、シンポジウムでは日本に埋葬されている朝鮮半島出身者の遺骨調査状況や現状、課題などが報告されたようです。戦時中に行われた日本人から朝鮮半島出身者や沖縄の方への加害の実情は資料を読むと悲惨なもので、沖縄でも数多く朝鮮半島出身者が亡くなったことを知りました。大勢の朝鮮半島出身者のご遺骨が沖縄にもあるのです。

 

全日本仏教協会のHPには朝鮮半島出身者の遺骨返還問題について書かれたページがあります。全日本仏教協会は日本各地の寺院に情報提供を呼びかけ、朝鮮半島出身者の遺骨について所在確認を行ったようです。日本政府からの依頼があり、調査を実施したということのようでした。そして返還する方向で話を進めようとしているようです。

 

DNA鑑定では人種や出身地まで分かると言います。遺骨でも出身地が判明できるのです。ご本人やご遺族にとって故郷に帰るのは1日でも早い方がいいのは当然ですが、朝鮮半島の方々と日本人では死生観が違うということを私たち日本人は考えなければいけません。ある方が韓国人から聞いたことは韓国人は身内でない骨には絶対に手を出さないというのです。そして骨を堀りあげる日も決まっており、秋夕の頃にお払いをして掘るというのです。それをしなければ意味がないとまでいう方もいるようです。日本に埋葬されている遺骨はそうした韓国の方の気持ちは反映されていません。こうした死生観も考えた上で遺骨送還を考えることが重要だと私は思います。ご遺骨は人間だからです。

 

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2019年11月 8日 (金)

立岩ダムのフィールドワークに行ってきました

連休最終日に広島県の北西部に位置する立岩ダムのフィールドワークに行ってきました。天気にも恵まれ紅葉シーズンでもあり連休最終日とあって道は多少混んでいました。広島県内にはいくつもダムがありますが、立岩ダムは観光のための施設がないので風景を楽しむとはいかないようです。ここでは行楽客には会いませんでした。私がここに来たのには理由があります。戦時中、朝鮮人労働があった場所だからです。

 

立岩ダムは太田川の最上流部にあり、徳山の海軍のための送電目的で1939年に建設されました。戦前のダムとしては7番目に高く、打梨発電所、土居発電所、吉ケ瀬発電所と3つの発電所が利用しています。ダム建設に加え、水を発電所に運ぶ隧道、発電所と、電気を作るための建設現場の全てに朝鮮半島の人々が働いていたのです。

 

工事中、旧道のそばの田んぼや畑は飯場(作業員の宿泊施設)になっていたという証言もあるほど、大勢の人がこの建設に関わっていたようです。作業員は独身者のみならず家族連れもいたようで、下流の学校では親と共に来た子供が学校に入るための臨時校舎を作ったという話までありました。廃校になった小学校に行ってみると、木造の建物がまだ残っていました。立派な校舎から当時の賑やかな様子が目に浮かびました。また遊郭も作られていたという証言があり、このたび案内してくださった方が行ってみると果たして証言通りの場所に石垣が残っていました。かなり広い範囲に石垣があったので、この場所が遊郭だった可能性があるとのことでした。この遊郭では朝鮮人の女性も働いていたという証言もあります。証言をしてくださった方々の映像を見たのですが、ハッキリと遊郭があったと言わず遊郭があるのは知っているけれどと口ごもっていました。地元の方としては公然と言いたくないのかもしれません。遊郭跡と思われる場所は現在、草木が茂りすっかり藪になっていました。当時の面影はうっすらと続く道と頑丈な石垣でした。近くの道際には古そうな小さなお地蔵様もあり、(遊郭の近くには地蔵があることが多いそうです)ひょっとすると、当時遊郭で働いていた女性たちが密かに参っていた場所だったのかもしれません。

 

ダムや発電所は戦後中国電力に移管され現在も利用されています。ダム工事にはダイナマイトを使うため、犠牲者が出たこともありました。山の中を走る隧道の工事は特に朝鮮半島の人々が行っていたといいます。隧道はツルハシで掘り、トロッコで岩を運ぶという気の遠くなりそうな作業でした。水が落ち、昼夜交代制で働くという苛酷な現場でした。あまりの厳しさに逃げ出した人もいたようです。どれくらいの人々が働いていたのか分かってはいませんが、今後、調査の過程で発見があるかもしれません。前記事でも書きましたが、私たちは現在もここで作られている電気を利用しています。朝鮮半島の人々によって今の生活の礎があることを、私たちは知るべきだと思いますし後世にも伝えていくべきだと思います。私たちの現在と過去の歴史がどう結びついているのかを知ることは、私たちが未来を作るうえでの基礎になるからです。

 

 

 

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2019年10月31日 (木)

歴史の現場を歩く~安野発電所フィールドワーク

前記事の集会翌日は「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」と安野発電所のフィールドワークがありました。70人以上が集まり前日に引き続きご遺族の方も参加されました。秋晴れの爽やかな天候のもと、集まった方々は74年前の出来事を思い起こしました。

 

「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」では安芸高田町長や作業中に亡くなった方の遺骨を長年預かっておられた寺院の僧侶様、地域の方も来られ参加者一同、安野発電所に強制連行され苛酷な労働をさせられたすべての方々へ哀悼の意を表しました。綺麗に清掃された碑にご自身の家族の名前を見つけ、愛おしそうに指を重ねるご遺族の姿が心に残りました。

 

フィールドワークでは安野発電所や坪野地域などの作業現場、収容所跡などに行き、当時の様子を知る方の証言に耳を傾けました。いかに作業が危険だったのか、逃げて拷問を受けた人がどういう様子だったのかなど、詳細に話してくださいました。強制連行で作られた安野発電所は現在も稼働しており見ることができます。また発電所に水を引くための導水管の工事現場跡や収容所の跡などは、当時の様子が絵で描かれた資料が用意され、現在の景色に当時を重ねることができました。

 

周囲を見渡す山の中に導水管が走っていることを思うと、気の遠くなるような作業だと思います。ほとんど明りのない中、トンネルをひたすら掘り続ける。作業をさせられた方々の大部分は初めてする仕事だったでしょう。見知らぬ外国の山奥でそれまで経験したことのない仕事をさせられ、しかもそれは非常に危険をともなうものです。その上、食事は1日おにぎりのみ。寝床は狭く、常に監視されています。もし逃げた場合は拷問にあうという恐怖以外考えられない苛酷な状況下です。ご遺族の方は来日した理由の一つに家族がいた場所を見てみたいと話されていました。実際に現場でご遺族は涙を流されていました。自分の身内が同じような目に遭っていたらと考えると胸が痛みました。フィールドワークの最後でご遺族が証言された方と抱き合う姿を見ました。少しはご遺族の心が軽くなったことを祈らずにいられません。そして、この安野発電所の建設現場には中国人だけではなく朝鮮人も数多く働いていました。

 

現在でも安野発電所では電気がつくられています。私たちは今も当時の恩恵を受け続けているのです。静かな山間の地域に苛酷な作業現場があり、そこで中国や朝鮮半島の人々が働いていた。どういう背景でどのように作られ、そこで何があったのか。身近な生活の中に加害の歴史があったことを知ることで、被害を受けた側の気持ちを理解できるのだと思います。前日の集会で東京大学大学院・外村大教授が、市民運動が戦後補償問題に果たした役割が決して小さくはなかったことを述べられていました。安野裁判も市民の積極的で継続的な取り組みが本当の意味での和解という状況に繋がっていったのだと思います。市民運動ではフィールドワークも活動の一環として行われています。運動というと敷居が高いと思う方もおられると思いますが是非、集会やフィールドワークを活用して歴史の事実を知る機会にしてみてはいかがでしょうか。戦争の歴史は今を生きる私たちの生活と切り離しては考えられないのですから。

 

 

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2019年10月30日 (水)

「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会」に参加しました

去る1019日、広島市内で「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会」が開催されました。会場には100人以上が集まり、強制連行に関心のある方々の多さを実感しました。集会には当時中国から強制連行され、安野発電所で強制労働させられた被害者(中国の表現で受難者)のご遺族も来日されました。集会では裁判や和解が持つ意味について、弁護士の先生や支援者、遺族がそれぞれの立場から話され、戦後補償が持つ未来の可能性が示唆されました。

 

西松建設中国人強制連行・強制労働事件(以下、西松裁判)は戦時中、中国人を広島県の中国電力安野発電所に強制連行し強制労働させたことなどに対し、中国人被害者が当時、工事を行っていた西松建設を相手に裁判を起こしたものです。2007年最高裁で原告は敗訴しましたが、最高裁は付言をつけ西松建設に対し原告への救済を促しました。その後、両者で話し合いを行い、勝訴した西松建設が原告に金銭補償を行うことになりました。この補償金の一部で2010年に強制連行・強制労働の現場である安野発電所に碑が建立されました。

 

元・西松安野友好基金運営委員会委員長の内田雅敏弁護士は「西松は和解をする中で中身が深まっていった。中電が安芸高田町に土地を譲渡し、地域の人たちに協力を求めた。地域の人たちは理解を示し碑の建立となった。式典にも町長が参加するようになった。そして安野の現場に行った遺族はいつか友好の碑に変わってほしいと願ったのだ。戦後補償は和解によって終了するのではない。西松の和解は日中の歴史に大きな道を切り拓いた」と語り、西松裁判がもたらした意義を伝えました。

 

ご遺族の方々は親御さんや祖父様のご苦労を語りました。トンネル掘削時に水に浸かった足を切断せざるを得なくなり、そのせいで仕事ができなくなってしまったこと。日本にいたことで反乱分子視されたり、また批判され就職も思うようにできなかったことなど、帰国後も大きな苦しみがあった人生について伝えていただきました。お孫さんからの「祖父から茶碗や箸の言い方とか、食前の「いただきます」といった作法とか、日本語の言い方を教えてくれた」という話には、わずかの期間で覚えなければいけなかった日本語や、その言葉が長い間にわたって身に染みていたことが伝わり痛々しく感じました。

 

日本に強制連行され、苛酷な状況で働かされ、やっと故郷に帰っても今度は身近な人たちから敵視されるという、想像を絶する被害者の苦難は戦争だったからという理由にはなりません。加害者が誠意を持って解決していくことではじめてご本人の尊厳が回復され気持ちも安堵し、またご家族の苦しみも和らぎます。日本が国として過去の加害をどう考え、どのように補償していけばいいのかは、まず和解し、そして相互理解が始まりなのだと思いました。

 

 

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2019年9月29日 (日)

ジョン・ハーシー著「ヒロシマ」を読んで

私にとって2019年の夏はヒロシマを振り返る年となりました。新しい原爆資料館や映画「ひろしま」の鑑賞、そして被爆の実相を伝えた書籍、8月5日の韓国人原爆犠牲者慰霊祭、6日の平和祈念式典は自分自身がなぜ今こうして映像をやっているのかをじっくりと見つめ直す機会となりました。今回はジョン・ハーシー著「ヒロシマ増補版」の感想です。

 

アメリカ人の記者ジョン・ハーシーは19465月と39年後の19854月の2回、広島を訪れました。そして原爆で被災した被爆者から話を聞きました。ニューヨーカー誌に掲載されたハーシーが書いたヒロシマの記事は欧米で話題を呼び、十数カ国に翻訳されるほどの大反響となりました。被爆後まもない被爆者たちは原爆を落とした国の記者に何を語り、何を訴えたのでしょうか。そしてハーシーは何を伝えたかったのでしょうか。

 

本作「ヒロシマ」に登場する主な被爆者は6人。教会の日本人男性牧師、ドイツ人男性神父、日本人の男性外科医2人、日本人の既婚女性2人です。ハーシーがヒロシマに来て出会った方々からお話を聞いています。被爆時の詳細な聞き取りも素晴らしいのですが、ハーシーの凄さは39年後の追加取材にあります。戦後、被爆者たちがどう生きてきたのかを丹念に聞き取っているのです。私は被爆時よりも、むしろ戦後からの生き方に心惹かれました。被爆をしていなければ、こうはならなかったと思われる一人一人の人生が、誤解を恐れずに言うとまるで小説のように描かれているのです。

 

本作を翻訳した一人は、まさにハーシーの取材対象者であった谷本清牧師でした。「インタビューの冒頭に「いままで原子爆弾の科学的被害調査は種々おこなわれたが、私はそれと違って人道主義の立場からその被害調査をしたいのだ」といいだしたものだから、私はすっかり気をゆるしてしまった。」と谷本牧師はあとがきに書いています。それまでいかに被爆者をないがしろにして調査や取材が行われてきたのかを伺うことができる言葉だと思いました。そして、ハーシー本人、被爆者たちがその被害がどのようなものであったのかを数字ではないところで伝えたかったということが分かります。

 

もちろん被爆の実相も貴重な事実ですが、私は戦争そして原爆の悲劇はむしろその後に来るものだと感じます。地獄のような原爆からなんとか生き延びても、そこからまた生きていかなければいけません。戦後の心身の困難をどう耐えながら生きてきたのかは、本作を是非お読みいただきたいと思います。ハーシーの足元にも及びませんが、人道主義の立場から作品を作ることをあらためて胸に刻んだ1冊となりました。

 

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2019年9月 4日 (水)

映画「ひろしま」を見て

広島市内の映画館で「ひろしま」(関川秀雄監督、1953年製作)を見ました。封切映画館で1日に1回のみの上映だったせいか満席で、当日行ってチケットを購入できませんでした。翌日のチケットを買い、久しぶりに満席の映画館で映画を見ました。映画「ひろしま」は広島に引っ越してきた始めの頃にレンタルビデオで見ていました。20年近く前のことです。広島に来た当初、被爆関連の本や映像などを探し見ていたものの中の一つとして本作を見ました。被爆の様子が描かれているという印象でした。この度、テレビのドキュメンタリー番組で映画「ひろしま」の舞台裏を知りました。被爆者自身が被爆者役で参加しているということ、広島市内に巨大セットを設けていること、被爆者たちから寄せられた被爆時の品物などが使用されていること、原爆を批判するような内容が描かれていること、広島市民が大勢参加したことなど、番組で知ったことを頭に入れ改めてみると、全く違った印象を受けました。

 

映画「ひろしま」は「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げた日教組が製作しました。広島市内の教師が被爆した生徒たちに被爆のことを作文で書かせ、それをまとめた本『原爆の子』を元にしています。映画は被爆した子供たちがその後どのように生きてきたのかが群像劇で描かれています。悲惨な生活を強いられた子供たちの生き様に胸を痛めた当時の先生たちの思いが伝わってくるようでした。

 

広島に来た当初に見た「ひろしま」と今夏に見た「ひろしま」の印象の何が違うのか。それは私自身の被爆者との出会いという経験でした。私は2002年から広島と朝鮮半島との関係を調べ始め映像にまとめてきましたが、現在まで数多くの被爆者の方と出会ってきました。在韓被爆者支援の過程で日本人の方、在日コリアンの方、韓国人の方、ブラジル人の方、アメリカ人の方と、そう多くはないのですが様々な被爆者の方と出会い、話をお聞きする機会に恵まれました。長年のつきあいになった方もいます。加えて被爆関連の本や資料なども読むことになりました。小さな積み重ねでしかありませんが、被爆について自分なりに感じることがありました。在韓被爆者の手帳申請や手当申請、在韓被爆者裁判で知った事柄から被爆者が置かれた身の上を知りました。こうした私なりの被爆者との出会いが映画「ひろしま」を見た印象を変えたのでした。また映画を見ながら被爆者役で出演した被爆者たちはどのような思いで参加したのだろうか、撮影中に心身は大丈夫だったのだろうかなど、被爆者たちに思いを巡らせていました。

 

2019年の夏に見た「ひろしま」は、広島に起きた出来事そのものでした。私が出会った被爆者たちが経験したことが描かれていました。まさに“ひろしまの思い”が映像となっていました。「いい映画」だと思いました。もし私が被爆者の方たちと出会っていなかったら、想像力の乏しさから、知識のなさから、今も“ひろしまの思い”を理解することはできなかったかもしれません。私が広島で経験させていただいていることの尊さがよく分かる、そして私は原爆の、被爆者の何を知っているのだろうかと改めて自分自身を振り返る作品となりました。

 

被爆者の方たちを知らなければ映画「ひろしま」を見て理解できないということではありません。しかし「ひろしま」を見れば、被爆者が何を見てきたのかの一端を知ることができると言っていいと思います。被爆者が少なくなっていき、被爆体験の継承が課題となっている今日、映画「ひろしま」は語り部の役割を果たしていくでしょう。もっともっと広がり受け継がれ続ける作品になっていくと感じました。未見の方は是非、ご覧いただければと思います。

 

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2019年8月28日 (水)

リニューアルした広島平和記念資料館に行ってきました

今年4月にリニューアルオープンした広島平和記念資料館に行ってきました。行きたいと思いつつなかなか都合がつかなかったため結局、お盆に出かけることになりました。人気があると聞いていましたが、お盆の真っ最中だったためか入場待ちが1時間以上という行列で驚きました。閉館時間が午後8時まで延長されていたため夜に出直したことで、比較的ゆっくり見ることができました。入館者は気のせいか外国人と日本人の家族連れが多いような気がしました。

 

リニューアルした館内はとても見易い構成でした。資料館の元館長がある場所で「聞いたことは忘れる。見たことは覚える。体験したことは理解する。資料館は理解することを目的にリニューアルした。展示意図から説明すると、一人一人の苦しみ、背景を強調した。あの日、そこにあったものの展示をしている」と話されていたのですが、確かに原爆犠牲者の顔が見える展示になっていたと思います。顔写真と遺品が対となって丁寧に説明され、あの日あの時までは確かに生きていたことを感じさせます。被爆二世の友人は「見ていて涙がでてきた」と言っていました。今回、驚いたのは報道カメラマンの福島菊次郎さんが撮影したある一家の被爆から家庭崩壊までが展示されていたことでした。被爆者は被爆してからも辛い人生を生き続けています。それは壮絶な生き様です。その生き様も原爆の被害として訴えていました。

 

在外被爆者も以前と比べてスペースが広がりました。郭貴勲さんが提供した朝鮮半島出身者の軍隊手帳や除隊証明書などの資料は普段なかなか見ることはできないものだと思います。郭貴勲さんの大きな顔写真を見て、ようやく在韓被爆者の存在、その姿が実態として見えてきたように感じました。

 

ここからは少し辛口になります。リニューアル展示は文学的には成功しているといえますが、実相となると私は首をかしげてしまいます。被爆時の様子が分かるものは被爆者が描いた絵です。被爆後、記憶に残った風景が絵で表現されているのです。絵画はリアルに伝わります。しかし、これだけでいいのでしょうか。

 

まず前々から言われていた被爆時の様子を再現した人形。これは人形そのものが「怖い」という声があったというのはよく聞いていました。そしてリニューアルの際に残すか残さないかで、かなり議論されていました。結果、残していませんでした。残さない理由がどこにあったのか、説明がされていたのかもしれませんが、私には分かりません。私は残した方がいいと思っていました。なぜなら人形は被爆の実相を表現していたからです。そもそも原爆の被害の大きさは他に類をみないものです。たった1発で1つの街が全滅してしまうのです。その被害のすさまじさをどう表現するのか。人形は見ると「怖い」かもしれませんが、原爆によりボロボロになった被害者のリアルな姿でした。

 

想像できるでしょうか。原爆が投下された時の様子を。

 

1発の原爆投下により街は建物が全て破壊され、手足頭胴体がバラバラになり、内臓は飛び出し、皮膚は焼けただれどろどろになり、人の形すらしていない遺体が地面を覆いつくしました。生き残った数千もの人たちは裸同然で遺体の上を歩きながら、どこかに向かったのです(それは様々な場所です)。なぜ遺体の上を歩いたのかというと、地面が熱いからです。遺体の上は熱くないので遺体を選んで歩いたのです。

 

そして何日も経たないうちに遺体や生きている人に蛆がわきました。遺体にあふれた街中の匂いはそれはそれはひどいもので、何とも形容しがたいものだったと言います。被爆者の話を聞いていつも感じるのは、この「匂い」のひどさです。救援に入った兵隊の方はこの匂いでおにぎりを食べられず吐いたと話していました。

 

本来、その被害は文字では伝えきれない惨状でしょう。リニューアルした展示内容にはこうした「原爆特有の酷さ」「被害の大きさ」が感じられないのです。これでは、空襲で焼け出された人々との「差」をどこでつけるのかと思います。原爆の被害は圧倒的な規模とその特殊性です。原爆によるすさまじい熱線、爆風、放射線。人々の体に現れた嘔吐、下痢、脱毛、吐血、血尿、血便、皮膚の出血斑点、口内炎などの症状。今の展示ではこれらを感じることはできません。いくらガラス瓶が曲がっていても、瓦がぶくぶくになっていても、それが人間に、自分に起こるとどうなるのか、想像するのは困難です。もちろんパネルでの説明はありますが、今の展示では原爆を勉強していない人には体験、理解は難しいと思います。今の技術であればVR体験も可能でしょうが、まともに再現されれば一目みただけで大人でも卒倒すると思います。しかし被爆者はそこにいたのです。せっかくの原爆の資料館ですから、経験された方々の1万分の1でいいから、視覚的に見せてほしいと思います。「怖い体験」が必要なのです。体験することで、原爆は人道に反する爆弾、核兵器は絶対使用禁止だということを初めて理解することができるのです。

 

入り口の原爆投下の状況は上から、つまり投下した側からの視点です。原爆が上から下に向かって落ちていく様子が映し出されているのを見て、私たちは何を感じればいいのでしょう。落とした人の気持ちなのでしょうか。そうではないはずです。雲の下から私たちは感じなければいけません。地面の上で熱線、爆風を感じなければいけないのです。一人一人の人生があったのは分かりましたが、あの時どのような恐ろしい目にあっていたのかは、残念ながら今回の展示では理解することはできないと感じました。

 

地獄だと言いました。

光が怖いと言いました。

大きな音が怖いと言いました。

毎年8月6日は家から出ないと言いました。

被爆者の声です。

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2019年8月26日 (月)

ヒロシマ2019年8月6日

朝焼けが山の稜線を美しく見せている空でした。私は5時すぎに家を出て平和公園に向かいました。公園に着くと、いつものように大勢のマスコミがカメラを構える中、参拝者が花や線香を持ってお参りにきていました。しかし、参拝者はそう多くなく、心なしか人が少ないように感じました。6時すぎからの宗教者たちによる慰霊祭の頃にはすでに雨がぽつりぽつりと降り始めていました。

平和祈念式はテントの下にある席ではなく、公園内に設置されているモニターの前に行き、カメラを構えました。いつもはモニターの前でも大勢の人であふれる状態なのですが、今年は少し離れた場所にいたせいか、こちらも人が少ない感じがしました。式典が始まる頃にはポツポツと大粒の雨が降り、時間を追うごとに強くなりました。挨拶の頃になると傘がなければべしょ濡れになるほどの雨となりました。アメリカが原爆を投下してから74年目の広島、86の式典は最初から最後まで雨の中で行われました。

 

松井広島市長による平和宣言は事前に報道されていたように、日本政府に対し、核兵器禁止条約への署名・批准を訴える言葉が入っていました。以下は平和宣言の一部です。

 

「日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現に更に一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。」

 

なぜ広島市民ではなく「被爆者の思い」という表現を使ったのかわかりません。松井市長の平和宣言は毎年どこか他人事のような内容だと感じます。松井市長は被爆二世ですから、もっとご自身の立場からの、踏み込んだ発言でもよかったのではないかと感じました。

「日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。」に加えて「そして被爆者の命をかけた思いは被爆二世である私自身の強い思い、広島市民の心からの願い、そのものです。」という言葉があれば、被爆地ヒロシマの、被爆二世である松井市長の肉声として、世界の人々の心に伝わったのではないかと思うのです。

 

9日の長崎市長の平和宣言はいつものように強く具体的に日本政府に訴えていました。

「日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けています。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください。そのためにも朝鮮半島非核化の動きを捉え、「核の傘」ではなく、「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯の検討を始めてください。そして何よりも「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮することを求めます。」

私はこの「唯一の戦争被爆国の責任」「一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください」の2つの言葉が、何より被爆者の思いを表していると感じます。

 

被爆者の平均年齢は82歳を超えました。家族や参拝者が少なく感じたのは、決して天候や気のせいではないと思っています。被爆者が生きているうちに核のない世界を見せてあげたいのです。日本政府の核兵器禁止条約への署名、批准は長崎市長の宣言通り「唯一の戦争被爆国の責任」だと思います。原爆の被害国としての役割は確かにあるのです。日本政府が署名・批准すれば、各国が後をついていくと信じています。

7月8日中国新聞によると核兵器禁止条約への署名70カ国、批准国23のようです。批准があと27増えれば条約は90日後に発効になります。被爆した人たちは水を求め続けました。式典で雨が降ったのも、空からの願いだったのかもしれません。

 

 

 

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2019年7月31日 (水)

ヒロシマとピースツーリズム

広島市は徒歩や自転車、バスなどで平和関連施設をめぐるルートをネットで紹介するピースツーリズムを行っています。スマホ片手に広島市内を回ってもらおうというものです。ピースツーリズムは一般の観光と何が違うのでしょう。ピースツーリズムを一言でいうと「考える観光」です。

 

去る7月20日に広島国際会議場で広島大学平和センター主催の「2019年度国際シンポジウム」が開催されました。テーマは「HIROSHIMAとピースツーリズム」です。国内外から研究者が来られ、様々な角度からピースツーリズムに関する話題が提供されました。

 

ヒロシマに来る観光客に関して、観光サイト「トリップアドバイザー」の口コミを分析された先生がおられました。広島に来る観光客にとって平和記念資料館や平和公園は「考える場所」だといいます。観光に来たのに現地に来たら見方が変わったというのです。平和について考えたのです。口コミは英語つまり外国人観光客でも日本人観光客でも同じ結果だったそうです。

 

また韓国の大学の先生は朝鮮半島の非武装地帯観光について話されました。当初、韓国政府は国民に対し保安意識を持たせるために安保観光を始めたそうです。北朝鮮が掘ったトンネルを見せ、そして北朝鮮の様子を見せるために展望台を設けたのです。果たして韓国の国民がその非武装地帯の観光地に行って何を感じたかというと、韓国政府の意図とは全く違うものでした。先生は「現状を見ながら、違う考え方をする。過去を見ながら暴力ではないものを見る。韓国の市民は考えるようになった。そこにある建物を見るのではなく、動員された人を見、声を聞くのだ。人々は和解と平和を見出した」と話されました。韓国国民の目に映った非武装地帯は北朝鮮の人たちは敵ではないということでした。現在の非武装地帯の目玉は丹頂鶴だといいます。人が住まないのが原因かどうかは分かりませんが、野生の丹頂鶴の生息地となっているため、鶴の生態を見るための公園が整備されたのだそうです。丹頂鶴が優雅に舞う光景はさらに平和意識を持たせる場所に変わっていったのです。

ピースツーリズムは歴史を目の前に見ながら、過去を感じ、未来を考えるツアーと言ってもいいかもしれません。

 

広島を訪れる外国人観光客は年々右肩上がりに増加しています。最近は市内の被爆樹や戦争遺跡を回るツアーにも外国人観光客からの関心が集まっているようです。被爆樹や戦争遺跡に触れると、そこに被爆前の人々の生活を感じることができます。ヒロシマのピースツーリズムは被爆者に会って話さなくても、被爆者の気持ちや体験を感じ取ることができる貴重な旅なのです。

 

そしてこれが一番大事なことなのですが、ピースツーリズムでは、観光客と被爆者の心の出会いが生まれます。なぜなら観光客が広島の過去を通じて平和や戦争を考え、自分たちの国の平和について考えた時、被爆者はヒロシマの心が伝わったと感じるからです。観光客は被爆者と会っていなくても、ヒロシマで自国の平和を考えた時、被爆者の心と触れ合ったも同然なのです。

 

 

 

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2019年7月17日 (水)

86の広島からの平和宣言に注目です

蝉が鳴きはじめました。そしてもうすぐ今年もあの日がやってきます。8月6日の平和記念式典です。毎年読み上げられる広島市長による平和宣言は注目されていますが、今年は特に関心を集めています。というのも、日本政府に対して、核兵器禁止条約の署名・批准を求める文言を盛り込む方針であることが分かったからです。

平和宣言は核兵器廃絶と恒久平和への願いを世界に向けて発信するメッセージです。そこには広島市民、被爆者の思いと願いが込められています。広島市のHPによると、広島市民の平和への願いから1947年から平和祭が行われることになり、式典の中で浜井信三市長が平和宣言を行ったことが始まりのようです。

歴代の広島市長は時代に合わせながら、ご自身の思いも込めて文言を作ってきました。特に1991年の平岡敬市長の平和宣言は画期的な内容でした。日本の侵略戦争と植民地の人々への謝罪が含まれたものとなったからです。「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人々に、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」との言葉には、平岡市長ご自身が関わってこられた数多くの朝鮮半島の被爆者たちへの思いが込められていたと思います。

今年の平和宣言に関しては被爆者団体や反核団体などが松井市長に対し、核兵器禁止条約の署名・批准を日本政府に求めるよう強く要望していました。7月13日の中国新聞によると「1日も早い廃絶を目指して禁止条約を推進する被爆者たちの声を重んじ、政府による署名・批准を「被爆者の思い」と明言する方向。」と書かれていました。12日には有識者や被爆者の懇談会において文案が了承されたということなので、内容はほぼ決定されているということでしょう。1945年から74年間、被爆者が願い続けてきた核廃絶禁止条約が発効されようとしているのです。被爆地である広島市長が平和宣言で言わないでいつ言うのかと思います。

 

浜井信三市長の初めての平和宣言をご紹介して、今回は終わりたいと思います。

「今われわれが為すべきことは全身全霊をあげて平和への道を邁進し、もって新しい文明へのさきがけとなることでなければならない。この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。ここに平和塔の下、われわれはかくのごとく平和を宣言する」。

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«映画「主戦場」を見ました。