2020年3月26日 (木)

春風に吹かれて碑巡りはいかがですか?

広島もそろそろ桜のシーズンで、外に出て花を愛でる季節になってきました。新型コロナウイルスで自宅待機している方も多いと思います。いまのところ日本では密閉された空間・人が密集する場所・人と密接する場面などがクラスター感染の発生リスクが高いと言われています。ですから外で人と接することがない散歩でのコロナウイルス感染リスクは比較的、低いのではないかと思われます。気分転換に春の日差しを浴びて川岸を歩きながら碑巡りはいかがでしょうか。

 

広島で被爆した方々の慰霊碑は平和公園を中心に市内各地にあります。平和公園では碑にまつわるエピソードを聞く碑巡りのフィールドワークが盛んです。また平和公園以外にも市内各地に慰霊碑があり、毎年8月6日には地域に慰霊祭が行われています。今回は韓国人原爆犠牲者慰霊碑以外の外国人の碑を2つご紹介します。

 

1つめは中区加古町の本川岸にある「祈平和BRASIL」です。これはブラジル広島県人会・在伯長崎県人会・在ブラジル原爆被害者協会・ブラジル相互協会が1990年に建てたものです。広島は移民を多く出し、被爆後もブラジルに渡った被爆者が数多くいます。碑はブラジルの国土がかたどられ、平和の象徴である鳩が1羽とまっています。碑文には「ヒロシマの悲劇を再び繰り返さないという決意と世界の恒久平和への願いをこめて この碑を広島日伯協会を通じ ひろしまの地に贈る」と書かれています。ブラジル在住の広島県人会や長崎県人会などが募金して碑を造り、広島市に送ったもののようです。第二の故郷ブラジルの地と故郷広島を思う気持ちが伝わります。

 

2つめは中区大手町の元安川岸にある「興南寮跡」碑です。これは「南方特別留学生」として広島文理科大学や広島高等師範学校に留学していた東南アジアの留学生が住んでいた寮の跡碑です。日本は大東亜共栄圏の占領戦略の一環としてブルネイやマレーシア、インドネシア、ビルマ、フィリピンなどから地元の有力者の子弟を集めました。日本の占領地で指導的役割を担ってもらうための人材育成として国費で日本に招いたのです。広島には20数名の留学生が来ていたようです。86日、原爆により寮は消失し、留学生も被爆しました。ブルネイのペンギラン・ユソフ元首相も南方特別留学生として広島文理科大学に来ていました。ユソフ元首相は講義中に被爆し、救助活動も行ったようです。帰国後は英国の保護領だったブルネイで首相になり、駐日大使も務めたようです。ブルネイ唯一の被爆者で、2016年に94歳で逝去されました。ユソフ元首相は広島での被爆体験を子供たちに語っていたといいます。またマレーシアから来ていたニック・ユソフさんは広島文理科大学の学生で興南寮で被爆し亡くなりました。ニック・ユソフさんは今も五日市の光禅寺の御墓でひっそりと眠っています。

 

在外被爆者は厚労省の手帳取得者数によると約2,966人(20193月現在)に上ります。その大半は韓国におられますが、30カ国近い国々にお住まいです。新しくなった広島平和記念資料館には日本人以外の被爆者のコーナーも少しですが設けられています。なぜ日本人以外の方々が被爆したのか。日本がおこした戦争で犠牲にならざるを得なかった方々の存在を、被爆被爆したのは日本人だけではないことを私たちは忘れてはいけないと思います。

 

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2020年3月25日 (水)

新型コロナウイルスのパンデミックで平和活動も中止に

今年から本格的に世界中で大流行となっている新型コロナウイルス感染ですが、平和活動にも影響が出てしまいました。今月17日の中国新聞に「NPT会議派遣を中止 日本被団協「原爆展」時期変更検討」の見出しで記事が掲載されていました。内容はNPT(核拡散防止条約)再検討会議に行くはずだった被爆者を含む代表団の派遣を中止し、原爆展も開催時期の変更を考えているというものでした。

 

NPT(核拡散防止条約)再検討会議は、核兵器の不拡散に関する国際条約であるNPTを加盟国が集まり検討するというものです。5年に1度、条約によって定められた核軍縮や不拡散の現況などを見据え、最終的には核兵器廃絶を目指します。2020年の今年は再検討会議の年にあたり4月~5月にかけてニューヨークで開かれる予定です。再検討会議には毎回、日本から被団協や被爆者なども参加しており今回も行く計画でした。しかし高齢であり持病のある被爆者が新型コロナウイルス感染のパンデミックの渦中に行くことに際し、命を守るためとして派遣中止を16日に決めたのです。核兵器の恐ろしさを身をもって体験されている被爆者の方々の再検討会議での活動はどれほど大きいものなのか想像に難くありません。NPTの本質を担っている方々です。今回の派遣中止は苦渋の選択だったと思います。

 

この新聞記事のあと、ニューヨーク州が自宅待機の措置を行いました。NPT再検討会議も間違いなく延期になるでしょう。私たちはウイルスとの闘いに勝たなければいけない状態ですし、今後も起こりうる状況なのですから、人類は核兵器保有や戦争から今すぐ脱却すべきだということを強く認識すべきです。同17日の中国新聞記事によると被団協などで構成されている「核兵器廃絶日本NGO連絡会」は核兵器禁止条約の批准を要請する活動を国内で始めたとありました。50カ国の批准まで、あと15カ国です。戦争とは違いますが今回のコロナウイルス感染のパンデミックで1つの国が機能不全になった場合、他国に及ぼす影響が計り知れないことを私たちは体験している最中です。今後の影響も計り知れません。NPT再検討会議が開催された場合、日本は存在感を出すべきです。最初で最後の戦争被爆国となるべく日本は核兵器の残酷さを世界中の人々に伝えるべきですし、核兵器禁止条約の批准に向けてどこの国より日本が大きな旗を振るべきです。

              

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2020年2月27日 (木)

世界最大の被爆遺構。広島市内にある戦争遺跡の行方

軍都廣島時代の戦争遺跡であり、原爆に耐えた被爆建物の旧陸軍被服支廠の保存をめぐって昨年から広島では議論が繰り広げられています。貴重な遺構ですが劣化や耐震性の問題などにより住民や通行人に被害が及ぶ可能性があるということで解体の話が数年前から出ていました。補強するにも費用が高額になるため当初は解体の方向で進められていましたが、このたび解体が見送られることになりました。一安心ではありますが、解体が先送りになっただけで中止になったわけではないためまだまだ予断を許さない状況ではあります。

 

旧陸軍被服支廠は明治時代に建てられた南区にあるレンガ作りの建物で、当時のまま現存するものは4棟あります。広島県が3棟、中国財務局が1棟それぞれ所有しています。原爆の爆風により曲がった鉄の扉など被爆のすさまじさをそのまま伝え、被爆建物の中では一番規模の大きい遺構です。つまり世界最大の被爆建物というわけです。市民団体や被爆者団体は原爆を伝える貴重な遺構であると保存を要望し、署名活動や関連行事などを開催し市民や県内外に保存をアピールしてきました。署名は2700人にものぼり広島県民の被爆建物に対する思いの強さが表れました。その成果としてこの度の解体先送りとなりました。

 

かなり前に本ブログでも旧陸軍被服支廠の利用について書いたことがあります。その際は「戦争博物館にしてはどうか」ということを書きました。博物館は軍都広島時代を中心に、倉庫及び図書室として戦後補償裁判などの裁判資料も閲覧できるようにするものです。裁判資料は膨大であり、且つ非常に貴重な内容のものばかりです。戦争被害者である原告の生の声がありますから、一般も利用できるといいと書きました。また近くには旧糧秣支廠や宇品港などもあるため、軍都廣島のフィールドワークができるように博物館に案内人を置き、ピースツーリズムの拠点とすると歴史を身近に感じられるのではないかと思いました。

 

以前は建物を一部だけ残してはどうかと書きましたが、世界最大の被爆建物なので、そのままの状態で残すことに大きな意義があると今は思います。4棟保存となると補強費用及び維持費用が膨大になります。そこでまず世界にこうした原爆遺構がある事を知ってもらうことが重要です。カープの市民球場のように樽募金やクラウドファンディングなどで、世界中の注目とお金を集めることが最初かなと思います。広島からの平和発信基地としての戦争博物館は、原爆で終焉した第二次世界大戦の遺構という世界唯一のものとなります。原爆ドームほどまだまだ知られてはいませんから、旧陸軍被服支廠にも来てもらえば、原爆ドームからの流れで広島市内の美しい街並みも知ってもらえると思います。原爆ドーも当初は取り壊しの方向でしたが、強い市民の声で保存となり現在は世界遺産です。旧陸軍被服支廠も同じように保存そして世界遺産となるように政治家の方々どうか議論をお願いします。

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2020年2月25日 (火)

今、在日コリアンの子供たちは何を思っているのか。在日朝鮮学生美術展を見てきました。

旧日銀広島支店で開催されている「在日朝鮮学生美術展」(~2月29日金曜日まで)に行ってきました。絵画や造形物、写真など小学生から高校生まで、全国の朝鮮学校の生徒の作品が展示されていました。48回を重ねるこの美術展は東京、名古屋、大阪、福岡、札幌など全国各地をまわる巡回展で、広島は2月22日から開催されています。美術展のHPを見ると「ウリハッキョでは今、在日3世、4世たちが取り巻く環境を諸共せずたくましく学んでいます。在日朝鮮学生美術展は、そのような民族学校の場で学ぶ子供たちの大事な表現発表の場として毎年定期的に行われてきました。ウリハッキョにおいては、マニアル化された表現技法や技術取得に囚われることなく、感じたモノを素直に等身大で表出する事に大きな比重を置き幼稚園から高級部まで一貫した美術教育が実践されています。」と書かれています。私は今回、初めて拝見しましたが、今の日本に生きている在日コリアンの子供たちが何を思っているのか垣間見ることができた気がしました。

 

実はSNSである学生さんの作品のことは知っていました。「Café:Freedom of expression」というインスタレーションのような作品で、箱のような空間の中に作者がいて見に来た客と直接対話するというものです。この箱のような囲いの外側には在日コリアンに対してのヘイトクライムの言葉が張り出されています。読むに堪えられない言葉が羅列されていますが、それは恐らく作者自身が書いたものと思われます。どんな思いでこの言葉を書き写したのかと想像するだけで、なんて残酷なのだろうと胸が痛みます。しかし作者はヘイトクライムを芸術作品に仕上げ、見る者私たち日本人に強烈なメッセージを伝えます。今回、この作品は写真のみの展示でしたが、それでも見ていて胸が潰されそうでした。作者の勇気と表現力は素晴らしいものでした。

「고마워ありがとう」という作品も写真のみでしたが印象的な作品でした。亡くなったお爺様が着ていたであろう衣服が何着も展示されていました。ラフなものからオシャレなものまで、日本で生きてこられた生前の御爺様がそこにはおられました。生で作品を見たら、私は泣いてしまうかもしれないと思いました。

北朝鮮に行った時のことを表現した絵もありました。「混ざり溶けあう」というタイトルの作品は太極の赤と青が細い線で混ざり合っているもので、真っ白なキャンバスに描かれた大作です。その明るさと美しい色合いでひと際目を惹かれました。説明文には、初めて行った祖国で懐かしさと暖かさを感じたこと、板門店で韓国との分断を実感したことが書かれていました。そして「統一と平和を願い、人々が踊り混ざり合い、1つの大きなものとなる様子を表現してみました。」と作品に込めた思いを綴っていました。

 

学生さんたちは在日コリアン4世、5世の方もいるかもしれません。日本で生まれ育った子供たちが日本を自分の居場所として感じられないというのは、日本人の私から見ると余りにも寂しいですし、そう感じさせているのは私たちだと思うと情けなく憤りを覚えます。在日コリアンの方々は日本人と共に生き、日本の歴史を刻んでこられたのです。そしてこれからも、日本の未来を共に作っていく方々です。日本人は在日コリアンの方々に対しどれだけ心を寄せてきたのか。「在日朝鮮学生美術展」は日本人に静かに語りかけてきます。

 

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2020年1月28日 (火)

被爆二世裁判、継続中です。

被爆75年が経つ現在、被爆者の子どもたちによる裁判が続いています。被爆二世に対し国が支援をするよう求めているものです。去る1月14日は広島地裁で第10回の口頭弁論が行われました。長崎でも同様の裁判が行われており、ほぼ同じペースで進んでいます。二世裁判に関しては以前から当ブログでもご紹介してきましたが、なぜ裁判が行われているのかというと、現在二世に対して行われている健康診断は不十分であり、病気が発症しても国からの援護が何もないためです。

 

被爆者援護法では直接被爆した人以外にも原爆投下後2週間以内に救援活動、医療活動、親族探し等のために市内に入った人や、救護・死体処理をした人も被爆者手帳を出し、被爆者としています。原爆が投下された後に身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情の人を対象としているのです。被爆二世は「原爆の放射能の影響を受けるような事情の人」であると原告は訴えているのです。つまり二世は現行の援護法の対象になるのではないかということです。しかし国は被爆二世の遺伝的影響を認めていません。そこで裁判により被爆による遺伝的影響があることを明らかにし、被爆二世を「第五の被爆者」として認めさせて二世援護の制度化を目指しているのです。

 

長い被爆二世の運動の成果により、東京都や神奈川県、大阪府吹田市など全国の自治体で援護措置として医療補助がなされていますが、それはあくまでも自治体としての施策です。同じ二世で住む場所によって援護が違うというのはおかしな話であり、そもそも国が制度化していないため自治体が行っているというのが実情なのではないでしょうか。70歳を超えた被爆二世も大勢おり健康不安は年々高まってきていますが、被爆二世がどのくらいいるのか人数すら把握しようとしていないのが国のスタンスです。苦しんでいるからこそ二世は今まで運動し国に訴えてきました。裁判は最終手段です。裁判では遺伝的影響に関して各国の研究結果を提示しています。今後は具体的に原告本人や周囲で何が起こっているのかを示していくようです。

 

二世は親の被爆者の苦労を共に背負いながら生きてきました。全国被爆二世団体連絡協議会のHPには裁判にあたって「被爆者や被爆二世の現実を知らない人達に、被爆者や被爆二世がどのように原爆被害の恐怖と闘いながら、自らの人生に誇りを持って生きてきたかを知って欲しい。」という一文があります。二世ならではの体験からこの言葉が出ているのだと思います。今後裁判を通して、被爆者と被爆二世がどう生きてきたのかが示されると思います。原爆は被爆者だけに被害を与えるだけではないことが、この裁判で明らかになることでしょう。被曝の遺伝的影響という世界中のヒバクシャにつながる裁判でもあります。これからの被爆二世裁判に注目していただきたいと思います。

 

 

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2020年1月27日 (月)

새해가 밝았습니다!올해도 열심히 하겠습니다.

韓国ではお正月といえば旧正月の方が一般的だと思います。今年は先週25日が元旦で、前後数日間がお正月休みだったようです。ですからタイトルの言葉は新年の言葉として「新年があけました。今年も一生懸命頑張ります」と書きました。

さて今年は被爆後75年という区切りの年です。75年間で核兵器は年を追うごとに増加し、2019年現在で世界中に約1万3865個という数が保有されていると推計されています。たった1発の原爆でヒロシマとナガサキはその年に21万人以上が死亡し、不負傷者や入市被爆などで被ばくし、原爆後障害により死ぬまで苦しんでいることを世界の核保有国の指導者は知っているのでしょうか。原爆の被害とはどういうものなのか。まずヒロシマ、ナガサキに来て被爆の実相を知ってほしいと切に願います。被爆者の話を聞いてほしいと望みます。

 

被爆者は二度と自分と同じ被爆者をつくってはいけないと、辛い気持ちをこらえて証言しつづけてきました。しかし近年、証言される方は少なくなってきているのが現状です。このような中、嬉しいことに若い方による被爆体験が引き継がれ、新しいアプローチで被爆の実相が発信されています。高校生が描く原爆の絵や原爆投下前の町のバーチャルリアリティー化、廣島のあの日をデジタル化しインターネット配信しているヒロシマアーカイブ、市内のバーやカフェで行われる被爆証言など今までにない方法であの日を伝えようとしているのです。被爆者ではない方による継承はかなり難しい作業ですが、それをぽんとやってしまう若い方の活動をニュースで知るたびに頼もしいなあと思います。今年は私も頑張って、私なりの方法で記録を残していきたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

 

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2019年12月27日 (金)

来年は日韓関係が回復しますように

今年は日韓関係が最悪の年になったと言われています。実際に身近なところでは広島―ソウル便が今月で運休しました。飛行機まで運休になるほど関係がこじれてしまうのは異常事態というほかありません。今後どうなってしまうのでしょうか。ご存知のようにこのような関係は両国にとっていいことなど1つもありません。そして政治で解決するしか方法はありません。

 

 

では私たち個人は政治家の動向を黙って見ているだけでいいのでしょうか。一人の日本人としてできることがあります。それは朝鮮半島と日本との歴史を知ることです。私は日本と朝鮮半島がいかに深い関係性を持って共に歴史を刻んできたのかを知りました。そして現在の日本社会の礎が朝鮮半島の方たちの力によって築かれてきたことを知りました。両国の関係が良い時代も悪い時代もありました。相手のことを知ること。それは私たち一人一人ができる良好な日韓関係を作るための試みです。日本人である私たち個人が知ることではじめて朝鮮半島の方と同じ土俵に立って話ができ、対等につきあえるのではないかと思います。

 

今年は後半になって再びフィールドワークを始めました。何度かブログに書きましたが、あらためて現場に行ってみると、十数年前に行った時とは違った感情が沸きます。最初に行った時は付いて行くのに必死でしたが、今は現場で働いていた人、そこで生きていた人たちの様子が手に取るように伝わってくるのです。一歩一歩足を進めていると、70年以上前に確かにそこにいた人たちの姿が浮かんでくるのです。フィールドワークに参加された在日コリアンの方が「日本人がこうして色々と調べてくれてありがたい」と皆の前で話されました。その言葉を聞いたある方が「(被害者からの)ありがとうという言葉に舞い上がってしまう日本人は何なのか」と問いかけていました。そしてこうした言葉に舞い上がってしまう日本人でいる限り、朝鮮半島の人との和解は難しいとも話されていました。私はどこに立っているのか。来年は自分の立ち位置を確認しながら、進んでいきたいと思います。今年も残すところあと僅かとなりました。どうかよいお年をお迎えください。

 

 

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2019年12月24日 (火)

川崎市でヘイトスピーチ条例が成立しました。全国へ広がることを願っています。

今月12日神奈川県川崎市でヘイトスピーチ条例が可決、成立しました。ヘイトスピーチに対する刑事罰を科す全国で初めての条例です。どのような経緯で成立に至ったのでしょうか。

 

日本国内で在日コリアンを対象に激しいヘイトスピーチが継続的に行われていたことを受け、2016年に国がヘイトスピーチ解消法を作りました。そのきっかけとなったのが川崎市でのヘイトスピーチでした。川崎市の在日コリアンが多く住む地域へその地区に住んでいない人が集まり言葉の暴力を行ったのです。在日コリアンや様々な国の人々と共生していた地域の人々は驚き、怒り、ヘイトスピーチを止めようとしましたが、在日コリアンへのヘイトスピーチはなくなるどころか、ネットでのヘイト書き込みなどエスカレートしていきました。ひどい人権侵害を受けたと川崎市に住む在日コリアンの方々が川崎市に申し出ました。記者会見も行い、ヘイトスピーチの酷さが全国的に知れ渡ることとなったのです。国も対策を講じました。参議院法務委員会で川崎市の在日コリアンの方に参考人陳述を行い、川崎市で実地検分もし、在日コリアンの方から話も聞き、ヘイトスピーチ解消法ができたのです。しかしこの法律は被害者となった在日コリアンの方々にとって具体的に身を守ってくれるものではありませんでした。ネットでの書き込みなど人権侵害は以前続いていたのです。

 

個人的に闘うしかないと川崎市に住む在日コリアンの方は裁判を起こすまでに至りました。こうした状況により川崎市は「命と人権を守る」宣言をし、ヘイトスピーチに対し具体的な刑事罰や罰金を科すことを加えた条例を作ることになりました。成立まで川崎市は様々な妨害にあいながらもようやく12日、条例が可決されたのです。本条例では禁止事項や市が必要な支援を行うことも盛り込まれています。具体的には「何人も人種、国籍、民族、信条、年齢、性別、性的指向、性自認、出身、障害その他の事由を理由とする不当な差別的扱いをしてはならない」「市はインターネットを利用した不当な差別その他の人権侵害による被害の救済を図るため、関係機関と連携し、相談の実施、情報の提供その他の必要な支援を行う」というものです。直接的な罰則があり、具体的な支援策があることで、ヘイトスピーチに対する抑止力になるのです。

 

裁判の原告の方は「市が市民の盾になる条例ができた。現段階ではよく考えられた仕組みになっている。これから改善もできる。川崎は大きな一歩になる。インターネットでは今も酷い状況だが、この条例が止める一歩になればと思う。他の地方も続いてくれればと思う。そして次に国にボールを投げる。国の差別禁止、撤廃の包括な条例が待たれる」と、ある集会で話されていました。

 

ネットや職場など原告への嫌がらせや書き込みは度を越した内容でした。いつ病気になってもおかしくないと思う状況です。なぜそんなことをするのか、言葉の暴力をなぜ平然と振るえるのか、私には理解できませんが、実際にする人がいるのです。一方で嬉しい話も聞きました。大学生がネットで署名運動を行い、川崎市に集めた署名を渡したというのです。ヘイトスピーチは人権侵害です。在日コリアンの方だけの話ではないのです。ヘイトスピーチは他人ごとではないという感覚を持つ方々もまた大勢いるのです。2016年の国の法律ができてから3年経ちますが、本来であれば川崎市のみならず、どこの地域でも同じような条例があってしかるべきです。一部の人により命まで脅かされるようなことがあってはならないからです。法律が人々の盾になってほしいと切に願います。

 

 

 

 

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2019年11月30日 (土)

戦時中の朝鮮半島の人々の遺骨

戦時中、日本軍の兵士は海外の様々な戦場で命を落としています。現在、ロシアやフィリピンなどから収集されたご遺骨が徐々に日本に戻っています。しかしDNA鑑定の結果、そのご遺骨が日本人のものでないなど問題も出てきています。1日も早く日本に戻ってきてほしいのですが、そう簡単にはいかないようです。

 

日本にも遺骨問題はあります。戦時中、徴用や生活のため日本に働きに来ていた朝鮮半島の方々のご遺骨が全国各地に埋葬されているのです。韓国側も日本側も調査していますが、人数ははっきりとしていません。朝鮮半島出身者徴用工の遺骨問題は日本の国会でも度々質問されています。日本政府は韓国政府と話しあいを行い、韓国へ返還を行っていますが簡単にはいかないようです。現在、全国調査し発掘された遺骨の一部は、東京都目黒区祐天寺に納められ、毎年「韓國出身戦没者還送遺骨追悼式」が行われています。祐天寺などからはぽつんぽつんと韓国に返還されていますが、多くのご遺骨はまだ日本に眠っています。

 

今年1024日、沖縄で「日帝強制動員犠牲者遺骸に関する国際シンポジウム 沖縄戦戦没者遺骨調査並びに韓国人遺骸奉還のための提言」が開催されました。主催は日帝強制動員被害者支援財団・民族和解協力汎国民協議会でいずれも韓国の団体です。この会に私自身は参加してはいないのですが、シンポジウムでは日本に埋葬されている朝鮮半島出身者の遺骨調査状況や現状、課題などが報告されたようです。戦時中に行われた日本人から朝鮮半島出身者や沖縄の方への加害の実情は資料を読むと悲惨なもので、沖縄でも数多く朝鮮半島出身者が亡くなったことを知りました。大勢の朝鮮半島出身者のご遺骨が沖縄にもあるのです。

 

全日本仏教協会のHPには朝鮮半島出身者の遺骨返還問題について書かれたページがあります。全日本仏教協会は日本各地の寺院に情報提供を呼びかけ、朝鮮半島出身者の遺骨について所在確認を行ったようです。日本政府からの依頼があり、調査を実施したということのようでした。そして返還する方向で話を進めようとしているようです。

 

DNA鑑定では人種や出身地まで分かると言います。遺骨でも出身地が判明できるのです。ご本人やご遺族にとって故郷に帰るのは1日でも早い方がいいのは当然ですが、朝鮮半島の方々と日本人では死生観が違うということを私たち日本人は考えなければいけません。ある方が韓国人から聞いたことは韓国人は身内でない骨には絶対に手を出さないというのです。そして骨を堀りあげる日も決まっており、秋夕の頃にお払いをして掘るというのです。それをしなければ意味がないとまでいう方もいるようです。日本に埋葬されている遺骨はそうした韓国の方の気持ちは反映されていません。こうした死生観も考えた上で遺骨送還を考えることが重要だと私は思います。ご遺骨は人間だからです。

 

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2019年11月 8日 (金)

立岩ダムのフィールドワークに行ってきました

連休最終日に広島県の北西部に位置する立岩ダムのフィールドワークに行ってきました。天気にも恵まれ紅葉シーズンでもあり連休最終日とあって道は多少混んでいました。広島県内にはいくつもダムがありますが、立岩ダムは観光のための施設がないので風景を楽しむとはいかないようです。ここでは行楽客には会いませんでした。私がここに来たのには理由があります。戦時中、朝鮮人労働があった場所だからです。

 

立岩ダムは太田川の最上流部にあり、徳山の海軍のための送電目的で1939年に建設されました。戦前のダムとしては7番目に高く、打梨発電所、土居発電所、吉ケ瀬発電所と3つの発電所が利用しています。ダム建設に加え、水を発電所に運ぶ隧道、発電所と、電気を作るための建設現場の全てに朝鮮半島の人々が働いていたのです。

 

工事中、旧道のそばの田んぼや畑は飯場(作業員の宿泊施設)になっていたという証言もあるほど、大勢の人がこの建設に関わっていたようです。作業員は独身者のみならず家族連れもいたようで、下流の学校では親と共に来た子供が学校に入るための臨時校舎を作ったという話までありました。廃校になった小学校に行ってみると、木造の建物がまだ残っていました。立派な校舎から当時の賑やかな様子が目に浮かびました。また遊郭も作られていたという証言があり、このたび案内してくださった方が行ってみると果たして証言通りの場所に石垣が残っていました。かなり広い範囲に石垣があったので、この場所が遊郭だった可能性があるとのことでした。この遊郭では朝鮮人の女性も働いていたという証言もあります。証言をしてくださった方々の映像を見たのですが、ハッキリと遊郭があったと言わず遊郭があるのは知っているけれどと口ごもっていました。地元の方としては公然と言いたくないのかもしれません。遊郭跡と思われる場所は現在、草木が茂りすっかり藪になっていました。当時の面影はうっすらと続く道と頑丈な石垣でした。近くの道際には古そうな小さなお地蔵様もあり、(遊郭の近くには地蔵があることが多いそうです)ひょっとすると、当時遊郭で働いていた女性たちが密かに参っていた場所だったのかもしれません。

 

ダムや発電所は戦後中国電力に移管され現在も利用されています。ダム工事にはダイナマイトを使うため、犠牲者が出たこともありました。山の中を走る隧道の工事は特に朝鮮半島の人々が行っていたといいます。隧道はツルハシで掘り、トロッコで岩を運ぶという気の遠くなりそうな作業でした。水が落ち、昼夜交代制で働くという苛酷な現場でした。あまりの厳しさに逃げ出した人もいたようです。どれくらいの人々が働いていたのか分かってはいませんが、今後、調査の過程で発見があるかもしれません。前記事でも書きましたが、私たちは現在もここで作られている電気を利用しています。朝鮮半島の人々によって今の生活の礎があることを、私たちは知るべきだと思いますし後世にも伝えていくべきだと思います。私たちの現在と過去の歴史がどう結びついているのかを知ることは、私たちが未来を作るうえでの基礎になるからです。

 

 

 

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