2020年1月28日 (火)

被爆二世裁判、継続中です。

被爆75年が経つ現在、被爆者の子どもたちによる裁判が続いています。被爆二世に対し国が支援をするよう求めているものです。去る1月14日は広島地裁で第10回の口頭弁論が行われました。長崎でも同様の裁判が行われており、ほぼ同じペースで進んでいます。二世裁判に関しては以前から当ブログでもご紹介してきましたが、なぜ裁判が行われているのかというと、現在二世に対して行われている健康診断は不十分であり、病気が発症しても国からの援護が何もないためです。

 

被爆者援護法では直接被爆した人以外にも原爆投下後2週間以内に救援活動、医療活動、親族探し等のために市内に入った人や、救護・死体処理をした人も被爆者手帳を出し、被爆者としています。原爆が投下された後に身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情の人を対象としているのです。被爆二世は「原爆の放射能の影響を受けるような事情の人」であると原告は訴えているのです。つまり二世は現行の援護法の対象になるのではないかということです。しかし国は被爆二世の遺伝的影響を認めていません。そこで裁判により被爆による遺伝的影響があることを明らかにし、被爆二世を「第五の被爆者」として認めさせて二世援護の制度化を目指しているのです。

 

長い被爆二世の運動の成果により、東京都や神奈川県、大阪府吹田市など全国の自治体で援護措置として医療補助がなされていますが、それはあくまでも自治体としての施策です。同じ二世で住む場所によって援護が違うというのはおかしな話であり、そもそも国が制度化していないため自治体が行っているというのが実情なのではないでしょうか。70歳を超えた被爆二世も大勢おり健康不安は年々高まってきていますが、被爆二世がどのくらいいるのか人数すら把握しようとしていないのが国のスタンスです。苦しんでいるからこそ二世は今まで運動し国に訴えてきました。裁判は最終手段です。裁判では遺伝的影響に関して各国の研究結果を提示しています。今後は具体的に原告本人や周囲で何が起こっているのかを示していくようです。

 

二世は親の被爆者の苦労を共に背負いながら生きてきました。全国被爆二世団体連絡協議会のHPには裁判にあたって「被爆者や被爆二世の現実を知らない人達に、被爆者や被爆二世がどのように原爆被害の恐怖と闘いながら、自らの人生に誇りを持って生きてきたかを知って欲しい。」という一文があります。二世ならではの体験からこの言葉が出ているのだと思います。今後裁判を通して、被爆者と被爆二世がどう生きてきたのかが示されると思います。原爆は被爆者だけに被害を与えるだけではないことが、この裁判で明らかになることでしょう。被曝の遺伝的影響という世界中のヒバクシャにつながる裁判でもあります。これからの被爆二世裁判に注目していただきたいと思います。

 

 

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2020年1月27日 (月)

새해가 밝았습니다!올해도 열심히 하겠습니다.

韓国ではお正月といえば旧正月の方が一般的だと思います。今年は先週25日が元旦で、前後数日間がお正月休みだったようです。ですからタイトルの言葉は新年の言葉として「新年があけました。今年も一生懸命頑張ります」と書きました。

さて今年は被爆後75年という区切りの年です。75年間で核兵器は年を追うごとに増加し、2019年現在で世界中に約1万3865個という数が保有されていると推計されています。たった1発の原爆でヒロシマとナガサキはその年に21万人以上が死亡し、不負傷者や入市被爆などで被ばくし、原爆後障害により死ぬまで苦しんでいることを世界の核保有国の指導者は知っているのでしょうか。原爆の被害とはどういうものなのか。まずヒロシマ、ナガサキに来て被爆の実相を知ってほしいと切に願います。被爆者の話を聞いてほしいと望みます。

 

被爆者は二度と自分と同じ被爆者をつくってはいけないと、辛い気持ちをこらえて証言しつづけてきました。しかし近年、証言される方は少なくなってきているのが現状です。このような中、嬉しいことに若い方による被爆体験が引き継がれ、新しいアプローチで被爆の実相が発信されています。高校生が描く原爆の絵や原爆投下前の町のバーチャルリアリティー化、廣島のあの日をデジタル化しインターネット配信しているヒロシマアーカイブ、市内のバーやカフェで行われる被爆証言など今までにない方法であの日を伝えようとしているのです。被爆者ではない方による継承はかなり難しい作業ですが、それをぽんとやってしまう若い方の活動をニュースで知るたびに頼もしいなあと思います。今年は私も頑張って、私なりの方法で記録を残していきたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

 

 

 

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2019年12月27日 (金)

来年は日韓関係が回復しますように

今年は日韓関係が最悪の年になったと言われています。実際に身近なところでは広島―ソウル便が今月で運休しました。飛行機まで運休になるほど関係がこじれてしまうのは異常事態というほかありません。今後どうなってしまうのでしょうか。ご存知のようにこのような関係は両国にとっていいことなど1つもありません。そして政治で解決するしか方法はありません。

 

 

では私たち個人は政治家の動向を黙って見ているだけでいいのでしょうか。一人の日本人としてできることがあります。それは朝鮮半島と日本との歴史を知ることです。私は日本と朝鮮半島がいかに深い関係性を持って共に歴史を刻んできたのかを知りました。そして現在の日本社会の礎が朝鮮半島の方たちの力によって築かれてきたことを知りました。両国の関係が良い時代も悪い時代もありました。相手のことを知ること。それは私たち一人一人ができる良好な日韓関係を作るための試みです。日本人である私たち個人が知ることではじめて朝鮮半島の方と同じ土俵に立って話ができ、対等につきあえるのではないかと思います。

 

今年は後半になって再びフィールドワークを始めました。何度かブログに書きましたが、あらためて現場に行ってみると、十数年前に行った時とは違った感情が沸きます。最初に行った時は付いて行くのに必死でしたが、今は現場で働いていた人、そこで生きていた人たちの様子が手に取るように伝わってくるのです。一歩一歩足を進めていると、70年以上前に確かにそこにいた人たちの姿が浮かんでくるのです。フィールドワークに参加された在日コリアンの方が「日本人がこうして色々と調べてくれてありがたい」と皆の前で話されました。その言葉を聞いたある方が「(被害者からの)ありがとうという言葉に舞い上がってしまう日本人は何なのか」と問いかけていました。そしてこうした言葉に舞い上がってしまう日本人でいる限り、朝鮮半島の人との和解は難しいとも話されていました。私はどこに立っているのか。来年は自分の立ち位置を確認しながら、進んでいきたいと思います。今年も残すところあと僅かとなりました。どうかよいお年をお迎えください。

 

 

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2019年12月24日 (火)

川崎市でヘイトスピーチ条例が成立しました。全国へ広がることを願っています。

今月12日神奈川県川崎市でヘイトスピーチ条例が可決、成立しました。ヘイトスピーチに対する刑事罰を科す全国で初めての条例です。どのような経緯で成立に至ったのでしょうか。

 

日本国内で在日コリアンを対象に激しいヘイトスピーチが継続的に行われていたことを受け、2016年に国がヘイトスピーチ解消法を作りました。そのきっかけとなったのが川崎市でのヘイトスピーチでした。川崎市の在日コリアンが多く住む地域へその地区に住んでいない人が集まり言葉の暴力を行ったのです。在日コリアンや様々な国の人々と共生していた地域の人々は驚き、怒り、ヘイトスピーチを止めようとしましたが、在日コリアンへのヘイトスピーチはなくなるどころか、ネットでのヘイト書き込みなどエスカレートしていきました。ひどい人権侵害を受けたと川崎市に住む在日コリアンの方々が川崎市に申し出ました。記者会見も行い、ヘイトスピーチの酷さが全国的に知れ渡ることとなったのです。国も対策を講じました。参議院法務委員会で川崎市の在日コリアンの方に参考人陳述を行い、川崎市で実地検分もし、在日コリアンの方から話も聞き、ヘイトスピーチ解消法ができたのです。しかしこの法律は被害者となった在日コリアンの方々にとって具体的に身を守ってくれるものではありませんでした。ネットでの書き込みなど人権侵害は以前続いていたのです。

 

個人的に闘うしかないと川崎市に住む在日コリアンの方は裁判を起こすまでに至りました。こうした状況により川崎市は「命と人権を守る」宣言をし、ヘイトスピーチに対し具体的な刑事罰や罰金を科すことを加えた条例を作ることになりました。成立まで川崎市は様々な妨害にあいながらもようやく12日、条例が可決されたのです。本条例では禁止事項や市が必要な支援を行うことも盛り込まれています。具体的には「何人も人種、国籍、民族、信条、年齢、性別、性的指向、性自認、出身、障害その他の事由を理由とする不当な差別的扱いをしてはならない」「市はインターネットを利用した不当な差別その他の人権侵害による被害の救済を図るため、関係機関と連携し、相談の実施、情報の提供その他の必要な支援を行う」というものです。直接的な罰則があり、具体的な支援策があることで、ヘイトスピーチに対する抑止力になるのです。

 

裁判の原告の方は「市が市民の盾になる条例ができた。現段階ではよく考えられた仕組みになっている。これから改善もできる。川崎は大きな一歩になる。インターネットでは今も酷い状況だが、この条例が止める一歩になればと思う。他の地方も続いてくれればと思う。そして次に国にボールを投げる。国の差別禁止、撤廃の包括な条例が待たれる」と、ある集会で話されていました。

 

ネットや職場など原告への嫌がらせや書き込みは度を越した内容でした。いつ病気になってもおかしくないと思う状況です。なぜそんなことをするのか、言葉の暴力をなぜ平然と振るえるのか、私には理解できませんが、実際にする人がいるのです。一方で嬉しい話も聞きました。大学生がネットで署名運動を行い、川崎市に集めた署名を渡したというのです。ヘイトスピーチは人権侵害です。在日コリアンの方だけの話ではないのです。ヘイトスピーチは他人ごとではないという感覚を持つ方々もまた大勢いるのです。2016年の国の法律ができてから3年経ちますが、本来であれば川崎市のみならず、どこの地域でも同じような条例があってしかるべきです。一部の人により命まで脅かされるようなことがあってはならないからです。法律が人々の盾になってほしいと切に願います。

 

 

 

 

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2019年11月30日 (土)

戦時中の朝鮮半島の人々の遺骨

戦時中、日本軍の兵士は海外の様々な戦場で命を落としています。現在、ロシアやフィリピンなどから収集されたご遺骨が徐々に日本に戻っています。しかしDNA鑑定の結果、そのご遺骨が日本人のものでないなど問題も出てきています。1日も早く日本に戻ってきてほしいのですが、そう簡単にはいかないようです。

 

日本にも遺骨問題はあります。戦時中、徴用や生活のため日本に働きに来ていた朝鮮半島の方々のご遺骨が全国各地に埋葬されているのです。韓国側も日本側も調査していますが、人数ははっきりとしていません。朝鮮半島出身者徴用工の遺骨問題は日本の国会でも度々質問されています。日本政府は韓国政府と話しあいを行い、韓国へ返還を行っていますが簡単にはいかないようです。現在、全国調査し発掘された遺骨の一部は、東京都目黒区祐天寺に納められ、毎年「韓國出身戦没者還送遺骨追悼式」が行われています。祐天寺などからはぽつんぽつんと韓国に返還されていますが、多くのご遺骨はまだ日本に眠っています。

 

今年1024日、沖縄で「日帝強制動員犠牲者遺骸に関する国際シンポジウム 沖縄戦戦没者遺骨調査並びに韓国人遺骸奉還のための提言」が開催されました。主催は日帝強制動員被害者支援財団・民族和解協力汎国民協議会でいずれも韓国の団体です。この会に私自身は参加してはいないのですが、シンポジウムでは日本に埋葬されている朝鮮半島出身者の遺骨調査状況や現状、課題などが報告されたようです。戦時中に行われた日本人から朝鮮半島出身者や沖縄の方への加害の実情は資料を読むと悲惨なもので、沖縄でも数多く朝鮮半島出身者が亡くなったことを知りました。大勢の朝鮮半島出身者のご遺骨が沖縄にもあるのです。

 

全日本仏教協会のHPには朝鮮半島出身者の遺骨返還問題について書かれたページがあります。全日本仏教協会は日本各地の寺院に情報提供を呼びかけ、朝鮮半島出身者の遺骨について所在確認を行ったようです。日本政府からの依頼があり、調査を実施したということのようでした。そして返還する方向で話を進めようとしているようです。

 

DNA鑑定では人種や出身地まで分かると言います。遺骨でも出身地が判明できるのです。ご本人やご遺族にとって故郷に帰るのは1日でも早い方がいいのは当然ですが、朝鮮半島の方々と日本人では死生観が違うということを私たち日本人は考えなければいけません。ある方が韓国人から聞いたことは韓国人は身内でない骨には絶対に手を出さないというのです。そして骨を堀りあげる日も決まっており、秋夕の頃にお払いをして掘るというのです。それをしなければ意味がないとまでいう方もいるようです。日本に埋葬されている遺骨はそうした韓国の方の気持ちは反映されていません。こうした死生観も考えた上で遺骨送還を考えることが重要だと私は思います。ご遺骨は人間だからです。

 

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2019年11月 8日 (金)

立岩ダムのフィールドワークに行ってきました

連休最終日に広島県の北西部に位置する立岩ダムのフィールドワークに行ってきました。天気にも恵まれ紅葉シーズンでもあり連休最終日とあって道は多少混んでいました。広島県内にはいくつもダムがありますが、立岩ダムは観光のための施設がないので風景を楽しむとはいかないようです。ここでは行楽客には会いませんでした。私がここに来たのには理由があります。戦時中、朝鮮人労働があった場所だからです。

 

立岩ダムは太田川の最上流部にあり、徳山の海軍のための送電目的で1939年に建設されました。戦前のダムとしては7番目に高く、打梨発電所、土居発電所、吉ケ瀬発電所と3つの発電所が利用しています。ダム建設に加え、水を発電所に運ぶ隧道、発電所と、電気を作るための建設現場の全てに朝鮮半島の人々が働いていたのです。

 

工事中、旧道のそばの田んぼや畑は飯場(作業員の宿泊施設)になっていたという証言もあるほど、大勢の人がこの建設に関わっていたようです。作業員は独身者のみならず家族連れもいたようで、下流の学校では親と共に来た子供が学校に入るための臨時校舎を作ったという話までありました。廃校になった小学校に行ってみると、木造の建物がまだ残っていました。立派な校舎から当時の賑やかな様子が目に浮かびました。また遊郭も作られていたという証言があり、このたび案内してくださった方が行ってみると果たして証言通りの場所に石垣が残っていました。かなり広い範囲に石垣があったので、この場所が遊郭だった可能性があるとのことでした。この遊郭では朝鮮人の女性も働いていたという証言もあります。証言をしてくださった方々の映像を見たのですが、ハッキリと遊郭があったと言わず遊郭があるのは知っているけれどと口ごもっていました。地元の方としては公然と言いたくないのかもしれません。遊郭跡と思われる場所は現在、草木が茂りすっかり藪になっていました。当時の面影はうっすらと続く道と頑丈な石垣でした。近くの道際には古そうな小さなお地蔵様もあり、(遊郭の近くには地蔵があることが多いそうです)ひょっとすると、当時遊郭で働いていた女性たちが密かに参っていた場所だったのかもしれません。

 

ダムや発電所は戦後中国電力に移管され現在も利用されています。ダム工事にはダイナマイトを使うため、犠牲者が出たこともありました。山の中を走る隧道の工事は特に朝鮮半島の人々が行っていたといいます。隧道はツルハシで掘り、トロッコで岩を運ぶという気の遠くなりそうな作業でした。水が落ち、昼夜交代制で働くという苛酷な現場でした。あまりの厳しさに逃げ出した人もいたようです。どれくらいの人々が働いていたのか分かってはいませんが、今後、調査の過程で発見があるかもしれません。前記事でも書きましたが、私たちは現在もここで作られている電気を利用しています。朝鮮半島の人々によって今の生活の礎があることを、私たちは知るべきだと思いますし後世にも伝えていくべきだと思います。私たちの現在と過去の歴史がどう結びついているのかを知ることは、私たちが未来を作るうえでの基礎になるからです。

 

 

 

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2019年10月31日 (木)

歴史の現場を歩く~安野発電所フィールドワーク

前記事の集会翌日は「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」と安野発電所のフィールドワークがありました。70人以上が集まり前日に引き続きご遺族の方も参加されました。秋晴れの爽やかな天候のもと、集まった方々は74年前の出来事を思い起こしました。

 

「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」では安芸高田町長や作業中に亡くなった方の遺骨を長年預かっておられた寺院の僧侶様、地域の方も来られ参加者一同、安野発電所に強制連行され苛酷な労働をさせられたすべての方々へ哀悼の意を表しました。綺麗に清掃された碑にご自身の家族の名前を見つけ、愛おしそうに指を重ねるご遺族の姿が心に残りました。

 

フィールドワークでは安野発電所や坪野地域などの作業現場、収容所跡などに行き、当時の様子を知る方の証言に耳を傾けました。いかに作業が危険だったのか、逃げて拷問を受けた人がどういう様子だったのかなど、詳細に話してくださいました。強制連行で作られた安野発電所は現在も稼働しており見ることができます。また発電所に水を引くための導水管の工事現場跡や収容所の跡などは、当時の様子が絵で描かれた資料が用意され、現在の景色に当時を重ねることができました。

 

周囲を見渡す山の中に導水管が走っていることを思うと、気の遠くなるような作業だと思います。ほとんど明りのない中、トンネルをひたすら掘り続ける。作業をさせられた方々の大部分は初めてする仕事だったでしょう。見知らぬ外国の山奥でそれまで経験したことのない仕事をさせられ、しかもそれは非常に危険をともなうものです。その上、食事は1日おにぎりのみ。寝床は狭く、常に監視されています。もし逃げた場合は拷問にあうという恐怖以外考えられない苛酷な状況下です。ご遺族の方は来日した理由の一つに家族がいた場所を見てみたいと話されていました。実際に現場でご遺族は涙を流されていました。自分の身内が同じような目に遭っていたらと考えると胸が痛みました。フィールドワークの最後でご遺族が証言された方と抱き合う姿を見ました。少しはご遺族の心が軽くなったことを祈らずにいられません。そして、この安野発電所の建設現場には中国人だけではなく朝鮮人も数多く働いていました。

 

現在でも安野発電所では電気がつくられています。私たちは今も当時の恩恵を受け続けているのです。静かな山間の地域に苛酷な作業現場があり、そこで中国や朝鮮半島の人々が働いていた。どういう背景でどのように作られ、そこで何があったのか。身近な生活の中に加害の歴史があったことを知ることで、被害を受けた側の気持ちを理解できるのだと思います。前日の集会で東京大学大学院・外村大教授が、市民運動が戦後補償問題に果たした役割が決して小さくはなかったことを述べられていました。安野裁判も市民の積極的で継続的な取り組みが本当の意味での和解という状況に繋がっていったのだと思います。市民運動ではフィールドワークも活動の一環として行われています。運動というと敷居が高いと思う方もおられると思いますが是非、集会やフィールドワークを活用して歴史の事実を知る機会にしてみてはいかがでしょうか。戦争の歴史は今を生きる私たちの生活と切り離しては考えられないのですから。

 

 

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2019年10月30日 (水)

「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会」に参加しました

去る1019日、広島市内で「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会」が開催されました。会場には100人以上が集まり、強制連行に関心のある方々の多さを実感しました。集会には当時中国から強制連行され、安野発電所で強制労働させられた被害者(中国の表現で受難者)のご遺族も来日されました。集会では裁判や和解が持つ意味について、弁護士の先生や支援者、遺族がそれぞれの立場から話され、戦後補償が持つ未来の可能性が示唆されました。

 

西松建設中国人強制連行・強制労働事件(以下、西松裁判)は戦時中、中国人を広島県の中国電力安野発電所に強制連行し強制労働させたことなどに対し、中国人被害者が当時、工事を行っていた西松建設を相手に裁判を起こしたものです。2007年最高裁で原告は敗訴しましたが、最高裁は付言をつけ西松建設に対し原告への救済を促しました。その後、両者で話し合いを行い、勝訴した西松建設が原告に金銭補償を行うことになりました。この補償金の一部で2010年に強制連行・強制労働の現場である安野発電所に碑が建立されました。

 

元・西松安野友好基金運営委員会委員長の内田雅敏弁護士は「西松は和解をする中で中身が深まっていった。中電が安芸高田町に土地を譲渡し、地域の人たちに協力を求めた。地域の人たちは理解を示し碑の建立となった。式典にも町長が参加するようになった。そして安野の現場に行った遺族はいつか友好の碑に変わってほしいと願ったのだ。戦後補償は和解によって終了するのではない。西松の和解は日中の歴史に大きな道を切り拓いた」と語り、西松裁判がもたらした意義を伝えました。

 

ご遺族の方々は親御さんや祖父様のご苦労を語りました。トンネル掘削時に水に浸かった足を切断せざるを得なくなり、そのせいで仕事ができなくなってしまったこと。日本にいたことで反乱分子視されたり、また批判され就職も思うようにできなかったことなど、帰国後も大きな苦しみがあった人生について伝えていただきました。お孫さんからの「祖父から茶碗や箸の言い方とか、食前の「いただきます」といった作法とか、日本語の言い方を教えてくれた」という話には、わずかの期間で覚えなければいけなかった日本語や、その言葉が長い間にわたって身に染みていたことが伝わり痛々しく感じました。

 

日本に強制連行され、苛酷な状況で働かされ、やっと故郷に帰っても今度は身近な人たちから敵視されるという、想像を絶する被害者の苦難は戦争だったからという理由にはなりません。加害者が誠意を持って解決していくことではじめてご本人の尊厳が回復され気持ちも安堵し、またご家族の苦しみも和らぎます。日本が国として過去の加害をどう考え、どのように補償していけばいいのかは、まず和解し、そして相互理解が始まりなのだと思いました。

 

 

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2019年9月29日 (日)

ジョン・ハーシー著「ヒロシマ」を読んで

私にとって2019年の夏はヒロシマを振り返る年となりました。新しい原爆資料館や映画「ひろしま」の鑑賞、そして被爆の実相を伝えた書籍、8月5日の韓国人原爆犠牲者慰霊祭、6日の平和祈念式典は自分自身がなぜ今こうして映像をやっているのかをじっくりと見つめ直す機会となりました。今回はジョン・ハーシー著「ヒロシマ増補版」の感想です。

 

アメリカ人の記者ジョン・ハーシーは19465月と39年後の19854月の2回、広島を訪れました。そして原爆で被災した被爆者から話を聞きました。ニューヨーカー誌に掲載されたハーシーが書いたヒロシマの記事は欧米で話題を呼び、十数カ国に翻訳されるほどの大反響となりました。被爆後まもない被爆者たちは原爆を落とした国の記者に何を語り、何を訴えたのでしょうか。そしてハーシーは何を伝えたかったのでしょうか。

 

本作「ヒロシマ」に登場する主な被爆者は6人。教会の日本人男性牧師、ドイツ人男性神父、日本人の男性外科医2人、日本人の既婚女性2人です。ハーシーがヒロシマに来て出会った方々からお話を聞いています。被爆時の詳細な聞き取りも素晴らしいのですが、ハーシーの凄さは39年後の追加取材にあります。戦後、被爆者たちがどう生きてきたのかを丹念に聞き取っているのです。私は被爆時よりも、むしろ戦後からの生き方に心惹かれました。被爆をしていなければ、こうはならなかったと思われる一人一人の人生が、誤解を恐れずに言うとまるで小説のように描かれているのです。

 

本作を翻訳した一人は、まさにハーシーの取材対象者であった谷本清牧師でした。「インタビューの冒頭に「いままで原子爆弾の科学的被害調査は種々おこなわれたが、私はそれと違って人道主義の立場からその被害調査をしたいのだ」といいだしたものだから、私はすっかり気をゆるしてしまった。」と谷本牧師はあとがきに書いています。それまでいかに被爆者をないがしろにして調査や取材が行われてきたのかを伺うことができる言葉だと思いました。そして、ハーシー本人、被爆者たちがその被害がどのようなものであったのかを数字ではないところで伝えたかったということが分かります。

 

もちろん被爆の実相も貴重な事実ですが、私は戦争そして原爆の悲劇はむしろその後に来るものだと感じます。地獄のような原爆からなんとか生き延びても、そこからまた生きていかなければいけません。戦後の心身の困難をどう耐えながら生きてきたのかは、本作を是非お読みいただきたいと思います。ハーシーの足元にも及びませんが、人道主義の立場から作品を作ることをあらためて胸に刻んだ1冊となりました。

 

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2019年9月 4日 (水)

映画「ひろしま」を見て

広島市内の映画館で「ひろしま」(関川秀雄監督、1953年製作)を見ました。封切映画館で1日に1回のみの上映だったせいか満席で、当日行ってチケットを購入できませんでした。翌日のチケットを買い、久しぶりに満席の映画館で映画を見ました。映画「ひろしま」は広島に引っ越してきた始めの頃にレンタルビデオで見ていました。20年近く前のことです。広島に来た当初、被爆関連の本や映像などを探し見ていたものの中の一つとして本作を見ました。被爆の様子が描かれているという印象でした。この度、テレビのドキュメンタリー番組で映画「ひろしま」の舞台裏を知りました。被爆者自身が被爆者役で参加しているということ、広島市内に巨大セットを設けていること、被爆者たちから寄せられた被爆時の品物などが使用されていること、原爆を批判するような内容が描かれていること、広島市民が大勢参加したことなど、番組で知ったことを頭に入れ改めてみると、全く違った印象を受けました。

 

映画「ひろしま」は「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げた日教組が製作しました。広島市内の教師が被爆した生徒たちに被爆のことを作文で書かせ、それをまとめた本『原爆の子』を元にしています。映画は被爆した子供たちがその後どのように生きてきたのかが群像劇で描かれています。悲惨な生活を強いられた子供たちの生き様に胸を痛めた当時の先生たちの思いが伝わってくるようでした。

 

広島に来た当初に見た「ひろしま」と今夏に見た「ひろしま」の印象の何が違うのか。それは私自身の被爆者との出会いという経験でした。私は2002年から広島と朝鮮半島との関係を調べ始め映像にまとめてきましたが、現在まで数多くの被爆者の方と出会ってきました。在韓被爆者支援の過程で日本人の方、在日コリアンの方、韓国人の方、ブラジル人の方、アメリカ人の方と、そう多くはないのですが様々な被爆者の方と出会い、話をお聞きする機会に恵まれました。長年のつきあいになった方もいます。加えて被爆関連の本や資料なども読むことになりました。小さな積み重ねでしかありませんが、被爆について自分なりに感じることがありました。在韓被爆者の手帳申請や手当申請、在韓被爆者裁判で知った事柄から被爆者が置かれた身の上を知りました。こうした私なりの被爆者との出会いが映画「ひろしま」を見た印象を変えたのでした。また映画を見ながら被爆者役で出演した被爆者たちはどのような思いで参加したのだろうか、撮影中に心身は大丈夫だったのだろうかなど、被爆者たちに思いを巡らせていました。

 

2019年の夏に見た「ひろしま」は、広島に起きた出来事そのものでした。私が出会った被爆者たちが経験したことが描かれていました。まさに“ひろしまの思い”が映像となっていました。「いい映画」だと思いました。もし私が被爆者の方たちと出会っていなかったら、想像力の乏しさから、知識のなさから、今も“ひろしまの思い”を理解することはできなかったかもしれません。私が広島で経験させていただいていることの尊さがよく分かる、そして私は原爆の、被爆者の何を知っているのだろうかと改めて自分自身を振り返る作品となりました。

 

被爆者の方たちを知らなければ映画「ひろしま」を見て理解できないということではありません。しかし「ひろしま」を見れば、被爆者が何を見てきたのかの一端を知ることができると言っていいと思います。被爆者が少なくなっていき、被爆体験の継承が課題となっている今日、映画「ひろしま」は語り部の役割を果たしていくでしょう。もっともっと広がり受け継がれ続ける作品になっていくと感じました。未見の方は是非、ご覧いただければと思います。

 

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